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メッセージ
今日はウェルカム礼拝の日です。初めて来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。来て下さったことを大変嬉しく思いますし、次週以降、続けて来て下さることを楽しみにしています。勿論、教会員の方、毎週来られている方とともに礼拝出来ることも大変嬉しく思っています。
今日は「気持ちよく起きる日々」というテーマで聖書の話をしたいと思っています。このテーマは、「どうしたら早起き出来るか」、「どうしたら二度寝しないで済むか」ということを考えるものではありません。「よく体を動かし、早く寝れば、次の日は気持ちよく起きられます。」ということをお伝えしたいのではありません。そうではなく、朝起きた時に、これから始まる一日に期待し、ワクワクしながら生きる。これから始まる新しい一日を、掛け替えのない一日として生きていくためには、どうしたら良いのかを考えたいのです。
何故、このようなことを考えたいのか。それは、多くの人にとって、期待しながら一日を過ごすこと、毎日の生活を心から楽しむことが難しいからです。いかがでしょうか。朝起きた時に、今日を生きることが出来る喜びを感じているでしょうか。
今日に期待して生きることはたやすいことではありません。一つの理由は、過去の出来事が私たちを悩ますからです。人からされたこと、傷つけられたことが何年、何十年と癒えることなく、突然思い出されては、心が怒りや憎しみに覆われることがあります。自分がされたことだけでなく、自分がなしたことによって罪責感に悩まされることもあります。「あの時、あんなことをすべきではなかった。」「あの時、あんなことを言うべきではなかった。」このような過去に囚われると、今日という日に期待して生きることが出来なくなります。
過去だけでなく、現在、目の前にある問題に押し潰されそうになることもあります。仕事のストレス、難しい人間関係。思い通りにはならない出来事。最近、教会の社会人一年目の青年たちと話しました。彼らによると、月曜日、火曜日は大変なのだそうです。何故なら、週末の休みまでに、まだまだ時間があるから。木曜日、金曜日になると、あと少しで休みになると思い、頑張れるとのこと。社会人一年目にして、本当に大変なストレスを味わいながら働いているのだと思いますし、それならば何十年と働いている方の疲れ方はどのようなものかと思います。目の前にある問題に焦点を当てて生きるとしたら、今日という日に期待して生きることは出来ないでしょう。
過去、現在だけでなく、未来も私たちを悩ませます。「もし、病気になったらどうしよう。」「もし、お金がなくなったら」「もし、仕事がなくなったら」「もし、家族が死んだら」。などなど、不安となることは様々あります。今日を生きることよりも、明日の心配で時間を費やすことがあります。
もう一度、お聞きします。朝起きた時に、今日を生きることが出来る喜びを感じているでしょうか。
このようなことを考えて、今日のテーマは「気持ちよく起きる日々」としてあります。期待と喜び、安心の中で一日を始めるのはどうしたら良いのか。聖書から考えたいと思います。しかし、聖書を開く前に、まずは「正しい世界観を持つことの大切さ」を確認です。
私たちの生き方は、この世界がどのようなものと考えるかに大きく依存しています。13年前ですが、この世界がどのような世界か。その理解の仕方で生き方が変わるということをテーマにした映画が上映されました。大流行しました「マトリックス」というSF映画です。ご存知でしょうか。
簡単に背景とストーリーを説明いたします。近未来、人間が高度なパソコン、人工知能を持ったパソコンを作り上げたという設定です。やがて、知能を持ったパソコン対人類という戦争が起こります。パソコンは太陽光をエネルギーとするため、人類は地球を雲で覆うようにする。そのようにして、パソコンの動きを止めようと考える。ところがパソコンは、人間を捕え、生きている人間が発する熱量をエネルギーとします。その結果、人間は生まれてから死ぬまで、カプセルの中で生きることになるのですが、人間は栄養があるだけでは生きていけない。生きているという実感が必要です。そこで、パソコンは人間が生きている栄養と、生活していると脳が思いこむような情報を与える。映画の中では、世界はこのような状態となっているのです。今言いました背景は、映画を最初に見ている段階では分かりません。最初は、パソコンが見せている世界から描かれます。ご理解頂けますでしょうか。主人公の目線で言えば、それまで世界だと思っていたものは、パソコンが見せていた世界であり、実際には自分は生まれてからずっとカプセルの中にいる。自分はそれに気付いていない、という話なのです。
この映画のテーマとなっている一つのことが、私たちの生き方は、この世界がどのようなものと考えるかに大きく依存しているということです。確かに、この映画のように、自分の世界と思っているものは仮想のもので、実際にはカプセルの中で生きている。そう知るのと知らないので、生き方というのは全く変わります。
映画の話はここまでにしまして、それでは、皆様はこの世界をどのような世界だと思っているでしょうか。
今の日本は、この世界を造った存在はいない。この世界は偶然出来たもの。私たち人間は偶然出来た世界から、徐々に進化して今の状態になったと教えています。この世界も私も偶然の産物である。これを本気で信じるとなると、存在理由や存在価値が大いに揺らぎます。何のために生きているのか。命の尊さが分からなくなります。
かたや聖書はこの世界を造った神がいること。それも、私たちを中心にこの世界は造られていると宣言します。
イザヤ45章18節
「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』」
またこの世界を造った神にとり、私たちは非常に尊い存在であるとも教えられます。
イザヤ43章4節a
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
この世界も私も偶然の産物と考えるか。それとも、この世界を造った方がいて、その方は、私を愛していると考えるか。それによって、私たちの生き方は大きく変わります。
いかがでしょうか。皆様は、この世界をどのような世界だと考えているでしょうか。
今日のテーマは「気持ちよく起きる日々」です。それはつまり、今日という日に期待と喜び、安心をもって生きていくことです。そのためには、私たちはどうしたら良いのか。私が今日お勧めしたいのは、聖書の世界観に立って生きることです。
私たちが過去に苛まされた時。愛すべき人を愛せなかったこと。してはいけないことを、してしまったこと。そのようなことが思い出され、自分のなしたことの酷さに、恥ずかしさと悲しみで心が萎縮する時。皆様は過去に苛まされること、ありますでしょうか。私はよくあります。それも、何の前ぶれもなく、いきなり自分の罪が思い返されることがあります。私たちはどうしたら良いでしょうか。その罪責感から解放される道があることを聖書は教えていました。
Tヨハネ1章9節
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
人からされた悪が思い出されて苦しい時。何年、何十年と癒されない心の傷を負っている時。強い怒り、憎しみで心が覆われている時。私自身、神様に赦された者として、人を赦していく。怒りからの解放、心の傷が癒されていく道があるということを、聖書は教えていました。
エペソ4章32節
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
現在、目の前にある問題が大きく、自分ではどうにも出来ないと感じる時。その問題にばかりが頭を占め、他のことが考えられなくなる時。自分一人で問題に立ち向かっていると孤独を感じる時。強いストレスを味わい続け、生きる気力が奪われていく時。そのような時、神様がどのように私たちを導いているのか知ることが出来る人は幸いでした。
Tコリント10章13節
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
将来に対する思い煩いが起こる時。お金は大丈夫か。仕事はあるのか。病にかからないか。考え出せば、あれもこれもと不安に思うことが出てきます。
私事ですが、私たち家族は先日引越をしました。(詳しいことは4月の信徒総会の時に報告いたしますが)教会が新たに手にした家を牧師館としてお借りすることになりました。平屋建ての日本家屋です。私の妻は、結婚した当初から、いつか縁側のある平屋建てに住むことが出来たら嬉しいと言っていました。それが、想像もしていなかった経緯を経て、念願の縁側のある平屋建てに住むことになったのです。私たち家族にはもったいのない家で、「感謝だね、感謝だね」と言っていたのですが、ふとした時に、妻が心配なことがあると言うのです。「何が心配なの?」と聞くと、「こんなに良いことがあると、次に悪いことがあるような気がする」と言うのです。皆様、妻のこの気持ちに共感出来る方はいらっしゃいますでしょうか。幸せだと、悪いことが起こる気がする。私はこのことに関しては共感出来ないのですが、似たような思いを持たれる方がいることは知っています。何とも贅沢な思い煩いですが、幸せと感じる時でも、私たちは不安になることが出来る。
神様は、私たちが思い煩いの名人であることをよくご存知で、聖書では様々な箇所で思い煩わないように教えています。しかし、極めつけの言葉と言えば、これだと思います。
ローマ8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
仮に私にとって良くないと思うことがあったとしても、神様はそれをも益として用いて下さる。この世界観に立ち続けることが出来たとしたら、思い煩うことの方が難しくなると言えるでしょうか。
気持ちよく起きる日々を生きる。その日その日に、期待と喜び、安心を持って生きるためには、このような聖書の言葉を信じて生きること。聖書の世界観に立って生きることが大切です。
なぜなら、喜びながら生きるというのは、多くの場合、私たちの選択の結果だからです。喜びある人生を選択するのか。それとも、罪責感や過度のストレス、思い煩いを選択するのか。ある人は年とともに恨みがましくなり、ある人は年を取るにつれて喜びが増すということがあります。それは、恨みがましくなる人の人生が、より厳しいものであったというのではなく、心の選択の違いであり、世界観の違いです。
ところで、キリスト教の世界観ということで、大切なことをもう一つお伝えしたいと思います。
この世界がどのような世界だと考えるか。偶然の産物と考えるのではなく、神が造ったと考えて生きる。聖書の世界観に立って生きることの方が良いと思いますし、それをお勧めしたいと思いますが、これは、事実はともかく、そう考えることを勧めますというのではありません。神が世界を造り、その神が私を愛していると思えば、人生が楽になるから、そのような考え方を勧めますというのではないのです。
多くの宗教は、その教祖の考え方、生き方をすると幸せになる。教祖の教え通りに生きれば、悩みから解放されると主張します。
ところが、キリスト教は歴史に根ざした宗教。聖書は考え方や観念のみが記されている本ではなく、歴史が記され、それをもとに教えが出てくるものです。つまり、神が世界を造り、私たちを愛していると考えると良いですよと言っているのではなく、事実、神が世界を造ったのです。事実、神は私たちを愛しているのです、と主張しているのです。この違いは何かと言うと、キリスト教は確認することが出来る宗教。聖書は、事実かどうか確認出来る書物ということです。
最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは、普段教会に来られていない方へのお勧めです。今申し上げましたように、キリスト教は歴史に根ざした宗教。聖書は確認出来る書物です。どうぞ聖書を読んで、事実なのかどうか。信頼出来る書物なのかどうか。確認をしてみて下さい。そのために教会を利用して下さい。分からないこと、疑問に思うことがあれば、牧師に質問して下さい。毎週の礼拝で、聖書が何を教えているのか、聖書の話がありますので、どうぞ聞きに来て下さい。そのようにして、聖書が本物なのかどうか、ご自身で確かめて下さい。聖書には、このような約束があります。
エレミヤ29章12節〜14節a
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」
本当にこの世界を造った神がいるのか。私を大切だと思う神がいるのか。それを真剣に求める人には、神様はご自身を示される方です。聖書を確認すること、神を求めることを、心からお勧めいたします。
もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方。クリスチャンの方へのお勧めです。私たちが毎日喜んで生きること。神様が下さる新しい一日に、期待し、安心することを、神様が望んでいることを知っています。過去の罪責感や、現在の問題や、未来の不安が襲ってきた時でも、それらにどのように向かえば良いかも知っています。
しかし、それでも、気持ちよく生きる日々を送るのは難しいものです。聖書の世界観を頭で理解していても、その通りに生きるのは訓練が必要です。では、その訓練とは何でしょうか。聖書にはこのように記されていました。
ピリピ4章6節〜7節
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
気持ちよく一日を始められない。その時に、私たちは何をすれば良いのか。祈ることだと教えられます。祈りとは、私たちの心の目を、抱えている問題から神様に移すこと。祈りとは、聖書的世界観に立ち返ることです。そして、そのように祈る時に、神の平安が心と思いを守って下さると約束されています。この約束を信じ、神に祈る生活を送ることをお勧めし、また私も取り組みたいと思います。
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