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メッセージ
先週は「神様と交わる歩み」と題して、神様と交わることについていくつかのことを考えてきました。
そこで確認したことのひとつは、イエス・キリストが十字架につき、私たちのために死なれたのは罪を赦すためだけでなく、私たちが神様との親しい交わりを回復するためだったという点です。
人類の先祖アダムの罪以来、私たち人間はみな罪人。神を離れ、神に背を向けて生きるのみで、神と交わりたいという思いを失い、その能力をなくしました。しかし、そんな私たちのために、イエス様は命をがけで罪を贖い、神と交わることができる者へと変えてくださったのです。
もうひとつは、イエス様の地上の歩みを支えたのが、天の父との交わりであったように、私たちの人生のあらゆる活動を支える原動力は、神様との親しい交わりにある、ということでした。
多忙な一日を過ごした翌朝、父の神と一対一で交わる場所を確保したイエス様。それがゆえに力強く、ゆくべき道へと進んでいかれたイエス様のお姿。それを私たち確認し、私たちもこうした神様との語らい、神様と交わる時間を大切にしたいと願う心を与えられたのです。
東京聖路加病院の院長、100歳を過ぎて今なお医師として現役最前線と言う日野原先生が「生きるのが楽しくなる15の習慣」と言う本を書いています。
愛することを心の習慣にする。「良くなろう」と思う心をもつ。新しいことにチャレンジする。出会いを大切にする。腹八分目より少なく食べる。なるべく歩く。一日の中で、自分の内側を省みる時間をとる。責任を自分の中に求めるなど、どれも良いと思われる習慣ばかり。さすが人生の達人だなあ、と感じます。
中でも心に残ったのは、「習慣が人をつくる。心も体も」ということばです。「習慣が人をつくる。」言い変えれば、普段どんな時間の過ごし方をしているのか、毎日繰り返す時間の使い方によって、私たちの人格は作られてゆくということでしょう。
とすれば、イエス様が十字架に命をかけて回復してくださった神様との交わりという、私たちの魂にとって最善のことを良き習慣としたい。これは生涯をかけてもなす価値のあることと思われます。
しかし、祈りをもって神様と交わることの大切さを思いながら、なかなかそれが実行できない、続けられないのが私たちの現実でもあります。
今日の箇所はイエス様が祈りについて教えるところ。ここで特に、イエス様は私たちが祈り、神との交わりについて抱きがちな誤った考えを正しておられます。と同時に、私たちに与えられた祈りと神との交わりが、本来いかに良きもの、喜ばしいものであるかを教えておられるのです。
6:5、6「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
祈りに関する私達の問題のひとつは、自分の祈る姿が人の眼にどう映るのかを意識してしまうということです。
イエス様の時代、パリサイ人、律法学者と呼ばれる宗教のエリート達は、自分の祈る姿を意識するあまり、人混みの会堂や人通りの多い四つ角に立って祈ることを好みました。わざわざ人に祈る姿を見せるという偽善病に罹っていたのです。
それに対して、イエス様は「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」と勧めています。
「奥まった部屋」、つまり人眼を気にせず、神様と一対一になれる場所を選ぶこと、「戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈れ」と、ただ父である神様に心を向け、神様のことだけを意識して祈れば良い、との勧めでした。
しかし、人眼を意識する祈りには、パリサイ人らの偽善とは違うパターンもあります。「私はあの人のように立派な祈りはできない」とか「私はあの人のように長く祈り続けられない」と、人と比べて自分の祈りに劣等感を抱く人です。
私もこうした時期がありました。神学校の時代、本を通して「ルターは毎日三時間密室で祈った後でなければ、仕事に取りかからなかった」など、所謂祈りの偉人と呼ばれる人々のことを読むと、とてもとてもそんなことはできない自分に落ち込みました。
一年間奉仕させていただいた教会の指導者は祈りにとても熱心な人で、時々徹夜祈祷会を行っていました。その先生は一時間でも二時間でも熱心に祈り続け、祈りのことばも流暢に出て来ますので、その様子に、圧倒されました。
そうしたことを通して自分の祈りの貧しさを感じさせられ、劣等生のように自分を思い、次第に祈ることをしなくなっていった時期があったのです。
しかし、ある時、人の祈りと自分の祈りを比べる必要は全くないこと、本当の子どもになった気持ちで、それも小さな子どもになった気持ちで父なる神様の前に出れば良いと教えるイエス様のこのことばに救われました。
皆様ご存知のように、イエス様が教えてくれた「主の祈り」の呼びかけは、「天にいます私たちの父よ。」「天にまします我らの父よ。」です。
そして、日本語で「父」と訳された元のことばは「アバ」。「アバ」は、何とその頃、小さな子どもが家の中で自分の父親を呼ぶ時に使っていた幼児語でした。「父」というよりは、「お父さん」「お父ちゃん」「パパ」の方がふさわしいでしょう。
主の祈りがそれまでの祈りと違う画期的な点は、大宇宙を創造した造り主、万能の主なる神を、自分の本当の親として、「お父さん」「お父ちゃん」「パパ」と呼んで良い、と教えられたことでした。
小さな子どもが、大好きな父親を前にして、自分が人と比べて立派かどうか等気にするでしょうか。立派なことを言わねばならないなどと緊張するでしょうか。
そんなことは全くないと思います。小さな子どもは自分の本当の思いを聞いて欲しくて父親に近づきますし、それが長かろうと短かろうと、父親の前で、父親とともに過ごす時間を喜ぶのです。
旧約聖書の詩篇は「祈りの宝庫」、「神と人間の交わりの生きた記録」とも呼ばれています。詩篇を読んで驚くのは、信仰者達が神の前で、実に素直に自分の思いを語っていることです。
感謝、賛美、喜びといった思いは勿論、悲しみ、苦しさ、寂しさ、不安や怒りの思い、「どうして、あなたは私を助けてくださらないのですか」という、神を急かし、神を責めるかのような祈りさえあります。神を前にして大胆で言いたい放題。神様に対して、こんなことまで言って良いものかと感じることもしばしばです。
しかし、こうした交わりこそ彼らが神を信頼していたしるしと思えます。「神を天の父と呼んで良い」と教えられたイエス様の真意は、私たちも人眼を気にすることなく、神様との生き生きとした、手ごたえのある、親しい交わりを経験して欲しい、ということだったのです。
さて、祈りに関する私達のもうひとつの問題は、祈りの価値を願い事が聞かれるかどうかにのみ置きがちだということです。別のことばで言えば、祈りをご利益獲得の手段と考えるという問題でした。
6:7、8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
異邦人とは聖書の神を知らない人のことです。お百度参りのように祈りを繰り返すことで神に願いが通じ、神は聞いてくださるという考え方、信仰は、古今東西あらゆる宗教に共通するものでした。
病気の癒し、食べ物、金銭、結婚に仕事。私たちの人生には常に必要があり、その必要が満たされることを神に祈るのは自然なことです。聖書に登場する信仰者達の祈りにも、願いが溢れています。
しかし、祈りの中身が願いのみとなり、祈りの価値は願い事が叶うかどうかによるとしたら、どうでしょう。生活に特に必要なく、願い事のない人は祈らないでしょう。
また、願い事を叶えてくれた神を役立つ神、そうでない場合は役立たぬとして、神を自分のしもべのように扱う危険もあります。
さらに、願い事が実現したら神に愛されていると感じ、そうでない場合は神に嫌われているのではと感じる信仰、感情や周りの状況に左右される弱い信仰にとどまってしまうこともあります。
それに対して、祈りにおいてなすべきは、あなたがたを子として愛し、親身になって心配してくださる父なる神を知ること、とイエス様は語りました。
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
偉大な力を持つ、聖なる神が、私たち子どもの必要のすべてを知る父親でいてくださるのを忘れないこと。神様との関係は、何一つ隔てるもののない、親密で、近しい父子の関係であることをいつも覚えて生きることが私たちの幸いであり力の源、そう教えられたいのです。
私たちの信仰の先輩であるピューリタンのひとりは、「祈りとは、神様の声を聞き、神様と語り合い、神様とゆっくりとした時間を過ごすこと」と表現しました。
小さな子どもは願い事があろうとなかろうと、愛する親のところに来て、自分の思い、経験を話すのが大好きです。親と遊んだり、本を読んでもらったり、親とともに時間を過ごすことを喜びます。何故なら、そうした交わりを通して、親の愛を受け取り、実感することができるからです。
神様の最大の願いは、私たちが子どものような心、童心を持って神様と交わること。イエス様にそう教えられて、祈りや神との交わりに対し、まるで高い壁か山を登ることのように難しさを覚えていた私たちの固い心も柔らかくされるのではないでしょうか。
こうして、イエス様の教えを基に、聖書の教える祈りは修行でも、人眼を気にした宗教的行いでも、ご利益の手段でもなく、神様との一対一の交わりであること、神様との交わりとは父と子の交わりであることを、私たち見てきました。
最後に、神様との交わりを続けてゆく時、習慣とする時、私たちの人生にもたらされる恵みについて、ふたつのことをお話します。
第一は、ご臨在を意識すること、つまり神様がともにいてくださると言う思いが深まってゆくことです。聖書の信仰者達はこのことについて様々に言い表しています。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆらぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは喜んでいる。私の身も安らかに住まおう。」詩篇16:8,9
「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」詩篇46:1,2
「しかし私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語りつげましょう。」詩篇73:28
これを読むと、神様との交わりを重ねる中で、私たちの中に、いつ、どこで、何をしていても、神様が近くにいること、見守ってくださることを覚える心が育ってゆくのが分ります。神様がともにいてくださるというただそれだけで、周りの状況に左右されない喜び、平安を覚えることができるようになるのです。
第二に、神様との交わりは、私たちを義の道、進むべき道に導くということです。
これは大学の先輩Kさんの証です。Kさんの勤める会社は繊維系では名の知れた有名企業。そんな会社で、仕事に人一倍励んでいたKさんは、「自分は同期の中でもトップを走っている。」との自負にあふれていました。
しかし、ある時、以前その人のミスを自分が尻拭いしたことのある同期入社の友人が、自分の頭をこえて出世したのだそうです。
それを聞いたKさんはショックで、友人にどう対応したら良いか分らなくなりました。そこで、昼の休み時間、会社の空いていた会議室に入ると、神様の前に出、短い交わりを持ったのです。
その中で、Kさんは自分がいかに高慢な人間になり、人を見下していたかを悟り、そのことを神様に申し上げ、「神様、今私がなすべきことを教えてください。それをなす力を与えてください。」と願い、祈りました。
その時、心に浮かんだのは「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」というみことばと、それを実践するイエス・キリストの姿だったそうです。
やがて、会議室から出たKさんは、自分の方から友人の所に足を向けると、心からの笑顔で、大切な友の幸せを喜び、夜はともにお祝いに出かけたそうです。イエス・キリストがともにおられること、近くにある助けであり、頼れる避け所であることを、この時から自分は本当に覚え始めたと、Kさんは話してくれました。
私たちの人生を変える神様との交わり。これを習慣にするかしないかで、全く人生が変わる神様との交わり。私たち全員でこれに取り組みたいと思います。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆらぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは喜んでいる。私の身も安らかに住まおう。」詩篇16:8,9
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