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メッセージ
先週の日曜日、まだ若い山下匠太兄弟が突然私たちの眼の前から去って行きました。すべての神の家族、愛する兄弟姉妹の死が悲しいものですが、イエス様が愛する弟子、若者ラザロの死に涙したように、私たちは若い兄弟の死を惜しみ、心が痛みましたし、それは今も消えていません。
しかし、若き兄弟の死は、改めてキリストを信じる者が死後向かって行く天国を私たちに仰がしめ、神が与えてくださるこの世での日々をいかに生きるべきかを考える良い機会にもなったかと思われます。
天国、神の国、天の故郷、神の都、新しいエルサレム、新天新地。聖書は、キリストを信じる者たちが死後向かって行く所を、様々に表現しています。中でも、心惹かれるのは、しばしば天国が未来の宴会、パーティーとして語られていることです。
先程お読みしたイザヤ書25章はその代表的な箇所の一つですし、イエス様も何度となく神の国を晩餐会に喩えました。また、聖書最後の書黙示録にはこうあります。
黙示録19:9「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ。と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。」
結婚披露宴、パーティー、晩餐会に招かれて心ウキウキとしない人がいるでしょうか。まして、それがこの世界を創造し、私たちを永遠の愛で愛してくださる神が主催するものだとしたら、それを喜ばないことは不可能でしょう。
世界中から、また、あらゆる時代の神の民を招いての大宴会を一生懸命準備してくださっている神。私たちそんな神様の姿を思い浮かべながら、今日の箇所を読み進めて行きたいと思います。
ここで、天国について語るのは預言者のイザヤ。イザヤは万軍の主なる神が、シオンの山つまりエルサレムの都で催す救いの祝宴に、万民・世界中の信仰者が集まり、とびきりのご馳走を楽しむ有様を描きました。
イザヤ25:6「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらみの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い肉のあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。」
皆様は、天国のことをパーティーとして考えたことがあるでしょうか。
ここには、イザヤの時代の最高の宴会が描かれているとされますが、今までに経験した中で最高の祝宴、いや遥かにそれをこえた祝宴に自分が招かれ、近づきつつあるということを意識しているでしょうか。
あぶらみの多い肉に良いぶどう酒。神様はこの世界に様々な食べ物、飲み物を創造されましたし、それを楽しむ為の味覚、嗅覚、視覚を私たちに与えてくださいました。神様は私たちを罪と死とから救い出してくれただけでなく、この世界のあらゆる楽しみを思う存分味わうことのできる者としてくださったのです。
確かに、人間は罪人となって神から離れて以来、例えば食欲を悪用、乱用してきました。自己中心にそれを用いてきたのです。
ですから、残念なことに、コリント教会の食事会では、富める者が我先にと食べ、食欲を満たすと、後から入って来た貧しい兄弟姉妹は何一つ食べるもの無く、置いてきぼりを食うと言う、この世の縮図のような酷い有様が、聖書にも登場しました。
しかし、天国においては、すべての人が神様の造りだした楽しみを心ゆくまで味わい、心もからだも満たすことの出来る祝宴が待っている、と言うのです。この本物の祝宴に比べれば、私たちが今楽しんでいる物等、メインコースを前に、前菜をちびちびかじっているようなもの、かもしれません。
また、パーティーには楽しみがありますが、それがすべてではありません。親しい者たちが再会し、交わりを持つ時でもあります。結婚披露宴のことを思うと、そこには大勢の親戚や旧友達が集まります。何年も会っていなかった人々と顔を合わせ、再び一緒にいることを喜びます。
地上で引き離されていた愛する人々と再会すること。これが、天国の祝宴で味わう大きな喜びのひとつでしょう。
今でさえ、死によって別れた人のことを考えると、私たち胸につかえるものが生まれ、眼に涙が滲み、寂しさが押し寄せます。もう一度顔を見、声を聞き、語り合えたらどんなに良いことかと感じます。
仏教ではこれを「愛別離苦」、愛する者と別れねばならない苦しみと言い表しました。しかし、神の約束するところ、イエス・キリストを信じる者はみな再会し、喜び合い、二度と引き離されることはないと言うのです。
25:7、8「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」
「万民の上をおおっている顔おおい」と「万国の上にかぶさっているおおい」とは、人間を悲しみの底に落とす死のことを言う、と考えられます。それが、神によって滅ぼされたので、死はもはや私たちを引き離すことはできなくなったと言うのです。
すべての人を覆う「おおい」のもうひとつの意味は、罪でした。ある牧師がこう尋ねられたことがあるそうです。「天国で、自分の好きでない人に会うとしたら、余り嬉しくないのでないでしょうか」と。
その牧師は「天国では、私たちの中にある罪はみな取り除かれているので、私たちは、地上にある以上に深くお互いを知り、分かり合い、愛し合うことができるでしょう。たとえ、そりのあわなかった人であっても」と答えたそうです。
地上にあっては「何と自己中心的なことか」と嫌になる私たちの心。しかし、この救いがたい私たちの罪の心も、天国にあっては、イエス・キリストの心に似たものへと完全に造り変えられているという幸いでした。
けれども、天国の交わりは、昔馴染みの人々と出会い、交わりを暖めることを越えています。ある時、イエス・キリストはこう言われました。
マタイ8:11「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」
これが想像できるでしょうか?私たちがアブラハムやイサクやヤコブと話をする機会を得る。ダビデ王や王妃エステル、イエス様の母マリヤに弟子のペテロやヨハネ、パウロと知り合う永遠の時間があるというのです。
私たちが親しくなった聖書の登場人物と、そうしたければ丸一年を通して語り合うこともできると言う交わりの世界。それに加えて、それまで一度も出会ったことの無い、数え切れないほどの愛すべき兄弟姉妹がそこに含まれるという、豊かで、広い、交わりの世界でした。
しかし、神様が新しくされた世界の物を楽しむこと、兄弟姉妹と一緒にいられることを喜ぶことに加えて、さらに私たちが待ち望むのは、イエス・キリストご自身と顔を合わせ、ともにいることのできる喜びでしょう。
25:9「その日、人は言う。『見よ、この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。』」
私たちは、今既にこの世にあって、神の愛と力の一端を知り、イエス様がもたらされた救いの一部を味わっています。
しかし、天国で顔と顔とを合わせるその時、私たちは神様の愛と力が、地上で知っていたものより遥かに深く、大きいことに驚くのです。イエス様の救いが、地上で思っていた以上に深く広いことに、日々驚き、感動し、喜びは尽きることが無いと言うのです。
あの放蕩息子のお話が思い出されます。父に背いて家を飛び出し、放蕩の限りを尽くした弟息子が、自分の惨めさに気がつき、「お父さんの家の使用人のひとりにでもしてもらえたら」と思い、故郷に戻ると、父親は大歓迎。一番良い着物を着せ、正式な相続人の印である指輪をはめさせ、最上の肉を振舞うべく近所の人を呼んで祝宴を開いたというのです。
自分勝手な道を歩んできた自分がいかに父に愛され、求められていた存在であったか、あの放蕩息子が気がつき、驚いたように、私たちも天国で深く味わうことになるのです。
私たちを愛してくださる神を喜びながら永遠を過ごす世界。私たちの罪のために血を流したイエス様の存在を本当に身近に覚え、親しく交わりながら、永遠に生きる世界。父なる神とイエス・キリストを私たちのすべてとして満ち足りる日々。
皆様は、自分の人生の行く先に、このような世界が備えられていることを信じているでしょうか。日々、自分はこのような世界に近づいているという自覚と期待があるでしょうか。
ヘブル人への手紙第11章は、神様が備えたもう天国を望み、信じて、生涯を歩んだ人々の記録として有名なところです。
そこでは、天国を天の故郷と呼んでいます。故郷とは、私たちにとってすべてが自分のために備えられたものと感じられる、安心できる、愛すべき場所、ここにこそ自分は永遠に住み続けたいと、心から思える世界のことです。
ヘブル11章の全部は読めませんので、今日は、11章12〜14節を今日の聖句として読んで見ましょう。
11:12〜14「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、遥かにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」
このことばを通して教えられることのひとつは、信仰の人とは漠然と天国があることを思っている人ではなく、天国を自分の故郷、自分が永遠に住む世界として、本気で信じ、心から求めていた人だということです。
そして、天国を我が故郷として本気で信じ、求める時、この地上における私たちの考え方、生き方は大きく変わることになります。
今日は三つのことを考えたいと思います。一つ目は、天国での生活がいわば人生の本番であり、重要なものとなるので、この世でしか意味のないもの、地上でしか通用しないものに執着しなくなる、心が捕われなくなる、ということです。
天国を知らなかった時、私たちにとっては、この世がすべてでした。地上のことが最重要でした。この世の富に執着し、世間の賞賛に拘り、この世でしか用のない家や物を持つことに捕われていました。その為に人と競ったり、心配とストレスで眠れない夜を過ごすこともしばしばでした。
しかし、天国で私たちは神が新しくされた世界のすべのものを財産として相続するのです。王なるキリストの友として、これを治め、これを思う存分楽しむことができると約束されているのです。
このような私たちが、やがて天国で受け取るものに比べれば、遥かに小さなものでしかない、この世の財産や地位や物に執着し、拘わるのは賢いことと言えるでしょうか。
ふたつ目は、本気で天国を信じる者は、この地上で天国人として真剣に生きるということです。
私たちはイエス・キリストを信じた時、天国人として新しく生まれました。それでは、天国人にとって最も大切なものとは何でしょうか。王なるキリストの命令、御心です。そして、キリストが最も大切な御心とは、神を愛し、人を愛することでした。
職場で、天国人として上司を、同僚を、部下を愛し、忠実に、真剣に仕事に励む。家庭では、天国人として家族に仕える。地域にあっては、天国人として、困っている人、弱き人の隣人となって助けの手を差し伸べる。
天国の祝福を知る私たちが、この世を少しでも天国に近づけるよう働き、仕え、助け、柔和な態度で生きること。これが天国人として生きることでした。
三つ目は、天国の祝宴に人々を招く者となるということです。天国の良さ、その祝福を確信している私たちが、愛する人々をそこに招きたいと思うのは当然のことでしょう。
事実、聖書で私たちは、神が主催する祝宴に人々を招待するしもべであることが教えられています。この伝道の働きに喜んで取り組みたいと思います。
一心に天国を目指すがゆえに、この世のものに執着せず、捕われずに歩む旅人、神と人を愛するがゆえに、この世にことに真剣に取り組む天国人、天国の祝福を知るがゆえに、喜んで伝道するしもべ。
死をもって天国に召されるまでの日々、私たちこのような生き方に取り組んで行けたらと思います。
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