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メッセージ
イースター礼拝の日曜日から遡って数えること46日。これをキリスト教会では受難節と呼び、特にイエス・キリストの十字架の苦難を思い、その意味、キリストの十字架と自分とのかかわりを考える時として大切にしてきました。
今年のイースターは4月8日です。私たちの教会では、その前の4月1日、受難週に入る聖日には聖餐礼拝も予定しています。これから、4月8日のイースターまでの日々、イエス・キリストとの交わりが深まり、私たちがみなキリストの十字架を喜ぶ者となれたらと願って、お話をさせていただきます。
さて、時は紀元30年頃、季節は春。ユダヤの都エルサレムでは夜を徹して、無法、不当な裁判が行われていました。罪なきキリストを十字架につけ亡き者にしようと、初めから筋書きが決まっていた裁判、イエス・キリストを妬むユダヤ教指導者による暗黒裁判でした。
しかし、当時ローマ帝国の支配のもとにあったユダヤの国では、独断で十字架刑を執行することはできず、彼らはローマの役人総督ピラトに訴えて、決着しようと試みたのです。
ユダヤの宗教の問題に等関わりたくないと考えていたピラトは、最初「キリストに罪はない」と判断し、十字架刑反対の姿勢を見せました。が、やがてユダヤ人の勢いに押されるかのようにそれを許し、イエス・キリストを引き渡してしまったと言うのが今日の場面です。
17節に「彼らはイエスを受け取った。」とあるのは、殺意に燃えるユダヤ人たちが、ローマの役人ピラトからイエス・キリストを受け取った、ということでした。
19:17「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』と言う場所(ヘブル語でゴルゴダと言われる)に出て行かれた。」
この時点で、イエス様の体は殆ど限界に達していたと思われます。ゲッセマネの園で捕えられ、夜通し取調べを受けました。また、残酷極まりない鞭打ちによって肉は裂け、骨は砕かれ、夥しい出血。殆ど、体力は残っていなかったでしょう。
その様な状態にありながら、聖書は、しかしイエス様が「ご自分で十字架を負って、『どくろの地』と言う場所に出て行かれた。」と語ります。「十字架を背負うために、私は世に来たのだ。私が担わずして誰が担うのか。」そんな、救い主の気概が示された一言でした。思い起こされるのは、イエス様が以前語られたおことばです。
ヨハネ12:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
大宇宙を創造した神が一粒の麦となって地に落ちる。罪人を救い、永遠の命に生かすために自ら死ぬと言われる。力を振り絞り、全身全霊十字架を担い、ゴルゴダの丘に進むイエス・キリストの思いは、ここにありでした。心に刻むべき救い主のお姿です。
さて、十字架の木が立てられたのは「どくろの地」、ゴルゴダでした。名前の由来は、そこが死刑場であったためどくろがゴロゴロしていたからとも、どくろの形をした丘だったからとも言われます。いずれにしても何か恐ろしい場所だったのでしょう。
しかし、本当に恐ろしいのは人間の悪意でした。ユダヤ人たちが求めたのか。それとも、ピラトのアイデアか。どちらかは分りませんが、人々は、ひとりキリストを十字架につけるだけでは飽き足らず、強盗ふたりを左右に置いて三本の十字架としたのです。よりいっそう辱めようとの魂胆でした。
19:18〜22「彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには、『ユダヤ人の王、ナザレのイエス。』と書いてあった。それで、大勢のユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。
またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『ユダヤ人の王と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称したと書いてください。』と言った。ピラトは答えた。『私の書いたことは私が書いたのです。』」
イエス様の頭上に置かれた「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という罪状書きは、三ヶ国語で書かれたようです。ヘブル語はユダヤ人のため、ラテン語はローマ人のため、そして、当時一番広く用いられていたのはギリシャ語は全世界の人のためでした。
しかし、これに不服のユダヤ人は顔を歪めました。そして、「ユダヤ人の王と書かず、ユダヤ人の王と自称した」と書き直してほしいと求めたのです。それに対して、今度はピラトも一切妥協せず、「私の書いたことは私が書いたのです。」と、突っぱねました。人間同士の小競り合いです。
結局、ふたりの強盗とともに十字架にかけられたイエス様。それもイエス様を真ん中に三本の十字架。「三人とも同じ穴の狢」と言わんばかりの辱め、曝し者でした。
しかし、救い主のこの有様は、キリストの時代から700年昔、すでに預言者イザヤの口を通して預言されていたのです。イザヤは、やがて訪れる救い主は、罪なきお方であるのに裁かれ、犯罪人と同列に扱われ、数えられると語りました。
イザヤ53:9,12「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、…背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのためにとりなしをする。」
そして、驚くべきことが起こります。十字架につけられた強盗のひとりが、罪状書きに目を留め、キリストの姿を見るうちに、「イエス様、あなたが御国の位におつきになる時には、私のことを思い出してください。」と信仰を告白し救われたと、ルカの福音書は伝えています。人間たちの悪を用いて善をなし、罪人の魂を救う神様のわざでした。
ところで、人の悪も様々です。悪意を持って人を苦しめる、人を辱めるという悪もあれば、自分のことしか考えない、人のことには無関心というのも悪でしょう。十字架のもとで、ローマの兵士が演じたのは後者です。
19:23,24「さて、兵士達は、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士にひとつずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部ひとつに織った、縫目なしのものであった。
そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着の為にくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」
死刑を執行する役目の者たちが、囚人の身につけている物を報酬として受け取るという慣習が、当時ありました。
兵士にとって、十字架にかけられる人物が誰であるかはどうでも良いこと。いつものように囚人の身包みをはがして、分捕り合戦が始まります。ひとりが靴を、ひとりが上着の帯を、後のふたりが上着を二つに分け合って、第一ラウンドは終了。
次は下着をとなって、彼らは思案します。それは縫目の無い一枚のものであるので、裂かずに分けることは無理。くじ引きで勝った者が一枚全体を手にするのが良い、と相談がまとまったようなのです。
ここに再び、聖書の預言が成就するためということばが登場します。
旧約聖書の昔、神に愛されたダビデ王が、信頼する人々に裏切られました。裏切り者達はダビデの上着を分け合い、下着もくじ引きにして取ってゆくという悪をなして、ダビデを苦しめたのです。
ダビデ王は来るべき救い主を示すモデルでもありましたので、自分の苦難は後に来る救い主の身にも起こると考えてこのことばを残し、ヨハネはそれを思い出したのです。「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着の為にくじを引いた。」
まさに、そのものズバリ。一言一句違わない預言の成就でした。神様は、このような細かいことに至るまで記すことにより、イエス・キリストこそ本物の救い主、十字架は罪の救いのためであることを、私たちが確信する助けとされたのです。
それにしても、イエス様が十字架の上で痛みと渇きに喘いでいる時、下で自分の取り分を確保するために必死になり、それをネタにギャンブルに興じる兵士達の姿は何とも浅ましい。自分の事しか見ていない、自分の利益しか考えない、人のことには無関心で、思いやりのかけらも無いという酷さです。
しかし、そんな彼らの為にイエス・キリストは祈った、渾身の祈りをささげたとルカの福音書は告げていました。
ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
「父よ。彼らの目は私利私欲に曇っているだけなのです。今は、まだ分からないだけなのです。自分の罪に気づかず、自分の生き方の虚しいことに気がついていないのです。彼らを赦してください。まだ裁かないでやってください。」
釘打たれた両手を広げ、全身に痛みを覚えながら、「父よ。わたしを助けてください」ではなく、「わたしを苦しめるこの人々を赦してください」と、全力で祈るイエス様。我利我利亡者の人間に火の粉がかからないようにと、父なる神にとりなすイエス様。
イエス・キリストの愛はこんな者たちにも注がれている。いや、救い主はこのような罪人のことを思って十字架に死んでくださったからこそ、自分のような者も救われたのだ。私たちそう覚えたいところです。
けれども、十字架の上から流れる救い主の愛はさらに広くありました。十字架の傍らには、兵士とは対照的にイエス様を見守り続ける女性達がいたのです。
19:25〜27「兵士達はこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それから、その弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
イエスの母マリヤ、そのマリヤの姉妹―マルコ福音書にはサロメと出てきます−それにクロバの妻マリヤと、イエス様から悪霊を追い出してもらったマグダラのマリヤ。
こう言った女の弟子達が、イエス様を離れず、十字架のもとにとどまり続けました。「イエス様が愛する弟子」と自らを呼んで登場しているヨハネ以外、男の弟子達はみな逃げ去り、誰も十字架のそばにきませんでした。
だとすれば、キリストが成し遂げようとしておられた救いのみわざを、それを見守り続けることによって助けた女性達の奉仕の大きさは、何と言ったらよいでしょう。
しかし、イエス様はそれを喜びつつも、母マリヤの心の傷みを見逃すことはありませんでした。マリヤはイエス様が救い主として、大切なみわざをなしておられることを覚えながら、自分の胎を痛めた子どもが十字架に死なねばならぬことに、引き裂かれるような心の痛みを味わっていたことでしょう。
そんな母の心が癒され、慰めを得ることができるようにと、イエス様は愛する弟子ヨハネにマリヤを委ねたのです。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」これは、マリヤに対する尊敬と愛情を示す、イエス様最後のことば、遺言でした。
さて、こうしてヨハネの描く十字架上のイエス・キリストの姿を見た私たちの心に残るものは一体何でしょう。それは、意外にも、イエス・キリストがいかに苦しんだかと言うことよりも、イエス・キリストがいかに深く、あらゆる人を愛されたかではないでしょうか。
十字架にかけられると言う、常識的に考えれば、この世で最低ともいうべき本当にひどい生涯を送った強盗に、キリスト愛は注がれました。
自分の利益のことしか考えない、他の人のことなど顧みなかった、あの浅ましい兵士達のためにも、キリストはその尊い愛を注がれました。
そして、キリストを信じるがゆえに、大きな心の痛みを味わった女性マリヤのことをも顧みて、優しくことばをかけられたのです。
私たちにも、取り返しのつかないようなひどい行いをして、後悔する時があるでしょう。自分の内にある浅ましい自分、卑しい性質に悩む時もあるでしょう。そして、イエス・キリストを信じるがゆえに受ける心の痛みを覚えることもあるのではないでしょうか。
しかし、そのような時、こんな自分の為に、十字架から注がれる愛を覚え、受け取り、イエス・キリストに愛されている者として歩んでいきたいと思います。
もうひとつ覚えたいのは、イエス・キリストが最後まで身につけていたあの着物、上から下まで、全部一つに縫った、縫目の無い下着のこと(19:23)です。昔から、これをイエス・キリストの一つの汚れもないきよさ、完全な生涯のシンボルとする考え方がありました。
そして、聖書は、イエス・キリストを信じる時、私たちは十字架のイエス・キリストとひとつにされ、私たちの罪をキリストが身に負い、キリストのきよさを私たちが受け取り、身につけると教えるのです。今日の聖句です。
ガラテヤ3:27「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」
イエス・キリストを信じる者の罪はキリストが身につけ、身代わりに神のさばきを受けて死んでくださり、信じる者はキリストのきよさをただでもらって、これを身につける。私たちの罪とキリストのきよさの交換でした。
皆様はこのことを信じているでしょうか。日々、罪を持って十字架のもとに行き、キリストのきよさで我が身を守っていただく、そのような十字架の恵みを味わう者となりたいのです。
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