2012年3月4日
礼拝メッセージ


「神と人に仕える歩み」
−賜物を知り、愛し合う−
  聖書
コリント人への手紙第一12章4〜27節

12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


  メッセージ
 シンフォニー、交響曲はオーケストラの華と言われます。バイオリンを代表選手とする弦楽器、クラリネットのような木管楽器、トランペットのように高く音を響かせる金管楽器に、ティンパニーの如き打楽器。様々な楽器が異なる音を奏でながら、しかも互いに調和し、ひとつの調べとなり、見事なハーモニーを醸し出す。
 この様子は、キリストの教会を思わせます。様々な性格、賜物を持つ人が集まっていながら、神様の栄光を表すというひとつ目的の為に、互いに仕え合う兄弟姉妹、神の家族。そこに生まれる調和は、シンフォニーがオーケストラの華なら、教会はこの世にある人間グループの華と言えるでしょう。
 さて、前の段落で、クリスチャンは「イエスは主です。」と告白する、共通の信仰を聖霊の神様から頂いていることを説いたパウロは、次に聖霊を御霊と言い換え、私達は御霊の賜物をも受けているけれど、その種類は様々であることを教えています。

 12:4〜7「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」

 ここに賜物、奉仕、働きと三つのことばが並んでいますが、どれもひとつのことを三つの面から説明するものでした。私たちに与えられた賜物は奉仕となって外に現れ、働きとなってお互いを支える、ということです。
 また、ここには御霊、主、神と、三位一体のことが物語られていました。御霊も神、主イエスも神、父なる神もまた神で、しかも三つではなく、ひとつの神という信仰の表明です。
 そして、神様が私たちひとりひとりに賜物を与え、プレゼントして下さったその目的は、個人のではなくみなの、私のではなく兄弟姉妹の益となるためだと言うのです。
 それでは、御霊の賜物と言って、具体的にどんなものがありますかと聞かれると、例えばとして、パウロはここに九つの賜物をあげてみせました。

 12:8〜11「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」

 知恵や知識と言った知的な賜物、行いやことばとなって表される信仰、癒し、奇跡、預言、霊を見分ける力という賜物、それと、この頃コリント教会では盛んに行われましたが今は止んでいると、私たち長老教会では考えている異言を語る賜物と、それを説明する賜物の合わせて九つです。
 しかし、聖書全体を見ますと、これらも御霊の賜物のほんの一部であること、ここにあげられたのは、コリント教会で重んじられていた賜物のみであることが分ります。
 また、広い意味で賜物と言えば、私達の性格、環境、経験、生まれつきの能力等を含みますが、特に御霊の賜物と言う場合には、教会を建て上げ、礼拝、伝道、交わり等、教会のわざをなすために、神がクリスチャンに与えた賜物を指していました。
 今日は、これらをひとつひとつ説明することはできませんが、それにしても、神様は教会に集う私たちを、何と豊かで、多彩な賜物で装ってくださったことか、と改めて感謝したくなります。
 けれども、美しい七色の虹が、元はと言えば、一本の光から分かれたものであるように、すべての賜物は御霊なる神様から来たもの、とパウロは念を押しました。
 何故なら、当時のコリント教会は非常に豊かな賜物に恵まれながら、対立と分裂を繰り返す教会、霊的に未熟な教会だったからです。コリントの人々は、賜物が与えられた目的を正しく理解せず、その用い方を誤って、混乱を招いていたのです。
 そこで、パウロが説いたのが、教会を人間の体になぞらえて考えること、有名な「教会はキリストのからだ」と言う教えでした。

 12:12〜14「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」

 二本の足、胴体、左右の腕、眼と耳と鼻。私たちの体は一体幾つの器官からできているのでしょうか。「その大小、形、役割は違えど、みな等しくひとつのからだではないですか。教会もそれと同じですよ。」と言うパウロの教えは、小さな子どもでも納得できるものでしょう。
 しかし、生身のからだを原点として教会を見る、教会を考えるということが、当時の社会においては、そして実は今も非常に革命的なことでした。
 と言うのは、昔も今も私たちの心に根を張る人種、民族の壁、社会的な身分や境遇の違いから生まれる偏見が、教会はキリストのからだという喩えによって正され、きよめられるからです。
 ここに「ユダヤ人もギリシャ人も」とありますが、これによって、当時ユダヤ人が神の選民として抱いていた優越感、他の民族を異邦人と呼んで見下す高慢な心が打ち砕かれました。
 また「奴隷も自由人も」とある通り、自由人の奴隷に対する偏見は、ともに同じキリストのからだに属する器官とされたことで、教会内では通用しないもの、通用させてはならないものとなったのです。教会が地の塩であること、この世のあり方を内側からきよめる存在であることを改めて思わせてくれるパウロのことばでした。
 さて、ここからは、自分を低い者、賜物の無い者と思い込み、いたずらに兄弟姉妹を上に置いては、自分を卑下することの虜になっていた人々を励ますところです。

 12:15〜20「たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」

 「隣の芝生は青く見える。」と言います。人は、自分とかけ離れたものを妬まないで、自分の身近にあるもの、自分より少々上のものを妬む、ということです。
 パウロは、足が手を妬み、耳が目を妬んで、卑屈になる姿を描きました。確かに、手と足を比べれば、物を作る、絵をかく、優しく介護する、料理をする、楽器を演奏する等、その活動は華やかで多彩です。ただ胴体をのせて運ぶだけの足は、手にとうてい及ばないように見えます。
 また、目を耳とを比べるなら、目は心の窓と言われますし、人の心をひきつける眼の魅力に、耳は劣るように思われます。「魅力的な眼」とは言っても、「魅力的な耳」とは余り言われない気がします。
 足が手の賜物の華やかさを横目で見て、「私は手でないから、からだに属さない。」と感じたり、耳が眼の魅力を羨んで、「私は眼ではないから、からだに属さない。」と呟く。そんな足や耳の寂しさを心に覚えたことがないと言う人は、ひとりもいないでしょう。
 しかし、手に華奢な美しさがあるとすれば、足には脚線美という足ならではの美しさがあります。それに、足が手を運び、支えなければ、手はその賜物を生かし様がないありません。
 それに、音楽を聴く、みことばを聞く、人の話を聞く等、耳があることで、どれ程私たちの人生は豊かになることか。「信仰は聞くことから始まる。」(ローマ10:14)として、聖書も耳の賜物を大切にするよう教えていました。
 そして、「もし、からだ全部がひとつの器官、耳だけとか、眼だけだったら、それはからだといえますか。」と問うたパウロは、「器官は多くありますが、からだはひとつです。」として、各々の器官の必要性を訴えます。
 教会には手のような働きをする人も、その働きの準備や後片付けを黙々と行う足のような人も必要です。目ざとく人の必要を見抜いて配慮する、眼の人も必要なら、人の悩みをじっくり聞いて人を安心させる、そんな耳の人も必要なのです。
 さらに、コリント教会の病気と言えば、自分の賜物を自慢する自慢病、人を低く見る高慢病でした。

 12:21「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』」と言うこともできません。」

 コリント教会は、自分が支持する指導者を巡って優劣を競い、食事の席でも貧富の差で対立しあっていました。神様からの恵み、プレゼントであるはずの賜物を、まるで自分の物として私物化し、その大小を云々して反目しあうと言う酷さだったのです。
 その様子が、眼の手に対する高慢、頭の足に対する上から目線、「私はあなたを必要としない。」と言うことばで表されました。自己卑下もよくないけれど、自慢・高慢はさらに醜い、ということでしょう。
 犬は野原を走りまわり、鳥のように空を飛べないからと卑屈にならない。鳥は空高く舞うことができるからと言って、地上を走る犬を見下しはしない。動物は自分に満足し、あるがまま賜物を生かしているのに、どうして人間はこうも人を気にし、人と比べて、自己卑下と自慢を繰り返すのか。全く悲しくなります。
 しかし、です。そんな私たちの心を神に向けさせようと、パウロは語ります。よく見てみると、神様は見栄えのしない器官、劣っていると人には見える器官ほど尊んで、体全体を調和させておられるではないかとして、もう一度人体を見るように促すのです。

 12:22〜27「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 「からだの中で比較的に弱いと見られる器官」「比較的に尊くないとみなす器官」「見ばえのしない器官」とは、脳、心臓、肺、胃腸等、外目には見えない体の内側にある器官を指す、と考えられます。
 これらの器官は、手足がなくても、目や耳がダメでも生きていけますが、手足も目や耳もこれらの器官がなければ用を成しません。つまり、これらはなくてはならないものなのに、普段は見ることも触ることもできないので、私たちはあることすら忘れている、尊くない、みばえのしない器官でした。
 しかし、神様は脳や内臓を、頑丈な骨で囲み、肉のクッションで包み、その上丁寧に皮膚で覆って、これらがとても尊い器官であることを教えておられるのです。神様の不思議なわざです。
 「足が踏みつけられた時、全身がいかに反応するかを思ってみよ。目は見開き、鼻はゆがみ、口は悲鳴を上げ、体全体が助けを求めるではないか。その様に、単に一本の足が痛むというのでなく、全身が痛むのである。一方、何か良いことがひとつの部分になされるなら、それは体のあらゆる部分を満足させ、喜ばせるのである。このことは、教会においても同じで、ひとつの器官に良いことがあったり、害されたりすると、他の部分は我がことのようにこれを受け取るのである。」ルターのことばです。
 今日の箇所から、私たち覚えたいことが二つあります。ひとつは、キリストを信じる者すべてが御霊の賜物を与えられており、神様のすばらしさを表すため、人々への愛のため、必要を満たすため、それを活用する責任があるということです。
 皆様は、自分の賜物を知っているでしょうか。それを見出すよう努めているでしょうか。それを活用したいと願い、それを用いる機会を祈り求めているでしょうか。
 神様は賜物の種類や大小よりも、私たちが神と人とを愛する心をもって、それを本当に活用するかどうか、そのことに重大な関心を抱いておられことを覚えて、教会生活を送りたいのです。
 ふたつめは、周りにいる兄弟姉妹が自分のからだの一部であることを思い、その存在を尊ぶことです。自分はからだの一器官に過ぎないこと、いかに兄弟姉妹の奉仕や働き、その存在に支えられているかを知り、感謝を表す者となることです。今日の聖句です。

 Tコリント14:12「…あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師