2012年4月1日
礼拝メッセージ


「まことに神の子であった」
  聖書
マタイの福音書27章45〜54節

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。


  メッセージ
 今日は、キリストの十字架の意味、意義を覚える受難週の礼拝です。聖書箇所も、キリストの十字架の場面を読みます。教会に来ている方にとっては、よく知っている話。しかし、人となった神が、十字架にかかるという驚くべき出来事に、心が鈍感にならないように。今朝、もう一度、キリストの十字架の意味、神様の愛に圧倒されたいと願っています。
 ところで、キリストが十字架についた場面を見る前に、一つ確認しておきたいことがあります。それは、「神を信じない、神を無視して生きることへの報いは何か」ということ。
 皆さまでしたら、「神を信じない、神を無視して生きることへの報いは何か」という問いに、どのように答えるでしょうか。色々な答え方がありますが、聖書に記されている表現の中に、このようなものがあります。

 ローマ6章23節a
「罪から来る報酬は死です。・・・」

 ここで言われている「罪」とは、「神を信じない、神を無視して生きること。」そして、その報いとは「死」と言われます。聖書は分厚い書物。しかし、その中心的なメッセージの一つが、「罪の報いは死である」ことです。神を信じない。神を無視して生きること。それが、どれほどの悲惨をもたらすのか。もともと、死とは縁の無かった人間。それが神を離れてから、死ぬ存在となりました。
 ところで、ここで言われている「死」には、複数の意味があります。肉体の死も、霊的な死も、そして永遠の死も意味しています。「永遠の死」、それは「神との関係が完全になくなる。」「神との関係の断絶」です。神を無視して生き続ける者。その者は、やがて神との関係が完全になくなるところへ行く。地獄へ行くことを意味します。しかし、私たちが日本語で「地獄」と聞く時のイメージと、聖書の教える「永遠の死」が同じであるか、多少疑問があります。
 神を無視して生き続ける者が、やがていくところ。それを地獄と呼んでも良いのですが、聖書はもともとの言葉で「ゲヘナ」と呼んでいます。神を無視して生き続ける者の行き先が「ゲヘナ」であると。「ゲヘナ」、これはイスラエル地方にある具体的な地名です。キリストが活動した地域にある地名。どのような場所かと言えば、ゴミ捨て場でした。
 罪の報い。神を無視して生き続ける者の報は「神様との関係が完全になくなること」「神に見捨てられること」でした。何しろ、行き先はゲヘナ。ゴミ捨て場なのです。ですので「罪から来る報酬は死です。」という言葉を言い換えると「神を無視して生きる者、その結果は、神から見捨てられる」となります。
 これはある意味では、本人の願った通りになるということです。神を信じない、神を無視するけれども、天国へ行きたいというのは、実におかしな話。「麺はいらない。スープもいらない。でもラーメンは食べたい。」という人がいたら、その人はラーメンが何か分かっていないのです。神を信じない、神を無視するというのは、その人自身が「神との関係が完全になくなること」を願っていること。積極的に地獄へ行くことを願う生き方になっているのです。
 それはそれとしまして、「神を信じない、神を無視して生きることへの報い」は、「神様との関係がなくなること。」「神から見捨てられる」ことでした。
 このことを踏まえた上で、今日はキリストの十字架の場面を確認していきたいと思います。

 マタイ27章45節
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 十字架刑は人類史上、最も残酷な死刑と言われます。何故なのか。それは、すぐに死ぬことが出来ないから。想像を絶する痛みを味わうからです。
 キリストは私たちが受けるべき罰を、身代わりに受けて下さった。そうだとすれば、私たちの罪のひどさは、十字架で死刑になるほど、ひどいということです。日本の法律に合わせて考えれば、死刑になるほどのことをした人は、ここにはいないかもしれません。しかし、神の前、私たちの行動から、心の中から、全てを見られる方の前で、私たちの罪は、あまりにひどい。身代わりであるキリストが十字架に磔にされるほど、ひどいのだと教えられます。
 自分の罪が、それほどひどいものであるという自覚はありますでしょうか。私たちの罪を負って下さる方が、十字架で死なないといけないほど、自分は罪人なのだと自覚はあるでしょうか。
 しかしです。私たちの罪深さは、通常の十字架の死にとどまりません。更に酷いものと教えられます。
 キリストが十字架につけられたのが、午前9時。それから3時間後。12時から3時まで、全地が暗くなったと記されています。闇は、神の裁きを表すもの。神の裁きが下される時でした。それでは、一体、どのような裁きが下されたというのでしょうか。

 マタイ27章46節
三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。

 これ以上悲惨な裁きはないと言える裁き。被造物にとって、最も恐ろしい裁き。それは、創造主に見捨てられる、神に見捨てられるという裁きです。人間が発する言葉の中、最も絶望的で、最も悲惨な言葉が、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」、という言葉です。
 この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉を、キリストが叫ばれたのでした。十字架につけろと騒ぎ立てた群衆でもなく、その群集を扇動した民の指導者たちでもない。十字架につけることを許可したピラトでもなく、鞭を打ち、神の子を馬鹿にしたローマ兵でもなく、十字架を前に散り散りになった弟子たちでもない。ここには、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶべき人間ばかりがいたのに、誰もこの言葉を叫ばず、キリストが叫んだのです。全ての人間が「神に見捨てられる」という裁きを受けなければならないところ、唯一、その裁きを受けなくて良いはずのイエス・キリストが、「神に見捨てられる」という裁きを受けたというのです。
 なぜキリストがこの悲惨な言葉を叫ばれたのか。私たちの身代わりとして、罪の報いを受けられたからです。キリストがこの言葉を叫ばれた。それは、確かにキリストが「神に見捨てられる」という裁きを受けたこと。私たちが犯した罪のために受けなければならない裁き、神を神と思わず、人を人と思わず、自分中心に生きてきたその報いを、キリストが身代わりに受けて下さったということです。
 よく、キリストは私たちの身代わりに十字架にかかって下さったと言います。それは間違いではないですが、正確ではありません。正確に言えば、キリストは私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちの身代わりに神に見捨てられたのだ、ということです。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、これ以上ない、悲惨な言葉、絶望的な言葉ですが、これは同時に、これ以上ない愛の言葉、招きの言葉でした。
 「さあ、確かに私はあなたの身代わりに、神の裁きを受けましたよ。もう大丈夫。もうあなたは永遠の裁きを味わうことはない。さあ、私を信じなさい。私にとどまるように。」そのような意味として、このキリストの言葉を聞きたいと思います。
 私たちの身代わりに罪の報いを受けられたキリスト。その苦しみは想像を絶します。父なる神との完全な愛のうちにおられた方が、見捨てられることを味わう。どれ程の苦しみなのか。しかし、それは御子キリストだけが苦しまれたわけではないでしょう。罪人の身代わりに、一人子を罰する。その父なる神の悲しみ、苦しみはいかばかりでしょうか。私たちを救うために、三位一体の神様がなしたことが、どれ程のことなのか、私たちは理解でしているでしょうか。
 しかも父なる神様は、その子を身代わりにするというその時に、驚くべきことをなしていました。

 マタイ27章54節
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった。』と言った。

 この十字架の後に起こった様々な出来事を見た、百人隊長は、この方は、まことに神の子であった、と告白しました。
 百人隊長というのは、この時、実際にイエス・キリストを十字架につけた人です。直接、イエス・キリストを殺した人物。その者が、イエスを信じたという出来事。これは、何を意味しているでしょうか。
 それは、直接キリストを殺したような人物にも、キリストを信じる恵みが注がれたということです。

 Tコリント12章3節には、このような言葉がありました。
聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。

 百人隊長が、イエス・キリストは本当に神の子であったと告白したということは、父なる神は、イエス・キリストを十字架につけた実行者にさえ、救いをもたらそうとしていたということです。キリストを十字架につけた人物。その人でも、キリストによる罪の赦しを受けることを良しとされたということ。
 イエス・キリストは神の一人子です。その一人子が、神に見捨てられるという裁きを罪人の身代わりに受けている時、父なる神は何をしていたのかというと、その一人子を殺していた人に救いをもたらしていたということです。信じられない。全く理解出来ない。しかし、神が罪人を救うというのは、このような愛を神様がお持ちでいるということです。
 私たちはこの神の愛を受けている者です。神を信じない、神を無視する。神様に背く者。罪に染まっていた者。その私たちが、キリストを信じている。キリストを信じることが出来ているのは、私たちの神が、ご自身に背く者にまで救いをもたらそうとする愛をお持ちの方だからでした。パウロの言葉が響いてきます。今日の聖句です。

 ローマ人への手紙5章8節
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 キリストの十字架とは、世界の造り主である方、王の王、主の主である方が、どれほど私たちを愛しているのか、それを明らかにする出来事でした。私たちが、滅びるのは耐えられない。どうしても私たちと永遠に過ごしたい。そう思われた神は、一人子を身代わりにしてでも、私たちを罪から救おうとされた。そして、その救いは今も私たちに届けられているのです。
 私たちは、この神様の愛に気づいているでしょうか。この神様の愛を覚えているでしょうか。この神様の愛に感謝を表しているでしょうか。
 十字架を前にした時、私たちは選択を迫られます。この愛を受け取るのか。受け取らないのか。まさに命がけで愛を示された私たちの神様のその愛を受け取らないのだとしたら、それは自ら神様との関係を絶つ決意をすることにつながります。まだ、キリストを私の救い主と信じておられない方は、キリストこそ私の罪からの救い主と信じることで、神の愛を受け取ることをお勧めいたします。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師