2012年4月15日
礼拝メッセージ


「人間、小さくて尊い存在」
  聖書
詩篇8篇

8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。


  メッセージ
 この世界を造りたもう神の前で、私たち人間はいかなる存在か?一方で、人間は神様の前に無力で、徹底的に小さな存在であると説く聖書。他方、同じ聖書が、人間は神様の前に以下に尊く、大切な存在かを教えていました。
 人間の小ささと偉大さ、卑小さと尊さ。この二つの面を印象的に歌い上げているのが、今日の詩篇第八篇となっています。
 先ずは、主なる神の力強さ、その栄光の高さが賛美されます。
 指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌。

 8:1「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。」

 「指揮者のために」とあるように、もともと詩篇は読むものではなく、公の礼拝において歌われたもの、賛美歌でした。「ギテトの調べ」とは、ぶどうの収穫を祝うお祭りの歌と考えられ、「ダビデの賛歌」とあるように、作者はダビデ王です。
 ダビデがイスラエルを統一した偉大な王であると同時に、旧約聖書中最大の讃美歌作者であったことは、皆様もご存知と思います。
 さて、改めて「主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。」と口にすると、ダビデの歌心の雄大さ、スケールの大きさに気がつきます。
 特に「あなたの御名は全地にわたり」とか「あなたのご威光は天でたたえられます」とあるのを見ると、たとえ身は世界の片隅にあっても、私たちもダビデのように、全地上を支配したもう主、大宇宙を創造した主なる神がいますことを、いつも思いながら礼拝をおささげしたいと願わされます。
 しかし、続くダビデのことばは意外や意外でした。偉大で、力ある神がご自身のことを賛美させるために用いるのは、地上のどんな勇士か,偉人か、有名人かと思いきや、何とかわいい口で歌う幼子、乳飲み子だ、と言うのです。

 8:2「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」

 この世界に、キリスト教を否定する人は沢山います。「神等いるものか、たとえ神がいたとしても神など要らない。自分は神なんかに頼らなくとも、ひとりで立派に生きてゆける。」と豪語する大人も大勢いるでしょう。
 そうした大人たちの高慢な心を打ち砕き、静める力を、神は幼子たちに与えられた、と言うのです。
 私たち大人なら、偉大な大統領とか、雄弁な神学者とか、有名人、あるいは「神を信じたお陰で、こんなに成功しました」語る経済人とか、そういう人物こそ、神を否定する人に有効な力を持ち、影響が大なのでは、と考えます。しかし、主なる神様のお考えはそうではありませんでした。
 事実、イエス・キリストも幼子をことの他愛し、尊んでいます。

 マタイ18:2,3「イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの(大人たちの)真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して神の国には、入れません。』」

 大人が集まると一体何が起こるでしょうか?自分を良く見せようとする自己宣伝。「誰がいちばん偉いのか。」という腹の探り合いに口論。グループに分かれて張り合い、対立する邪な心。与えられたものを喜ぶよりも、批判したり、貶したりする厭らしい心。
 それに対して幼子はどうか。神様に生み出されたままの純粋さで喜び、泣きます。与えられた物を他の人の物と比べたりせず、素直に喜びます。お母さんの胸ですやすやと安心して眠る幼子のように、親や神様など大いなるものに自分をまかせきる童心を持っています。
 幼子を見て、大人は自分の虚栄、エエ格好しいや高慢を思わされますし、その純粋さの前に、大人は神に造られたままの人間、人間のあるべき姿を教えられるのです。
 まさに、幼子は大人の教師。幼子には大人の心にある頑固な壁を打ち砕く力が備え得られているのです。どんな神否定論者も、幼子の神信仰、神賛美を前にしては口を閉じ、心静め、自分を振り替えざるを得ないのではないでしょうか。
 「自分がクリスチャンになれたのは、女房の教会への誘い、牧師の説教もあるけれど、何よりも心に効いたのは、『お父さんは、どうしてイエス様を信じないの。イエス様の前で、そんなことしていいの。』と言う子どものことばと、子どもが自分の仕事と救いのために一生懸命祈っている姿だった。」ある男性、お父さんの証しです。
 こうして、人間の中でも最も無力で小さな幼子の存在に目を向けた詩人は、考えてみれば大人だって同じではないかと歌い継ぎました。

 8:3、4「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 月星の輝く夜空を仰ぎ、自分の卑小さを覚える。誰もが経験したことのある瞬間です。
 宇宙は広大無辺、限りなく広く、大きい、と言われますが、それは物のたとえではなく、実際にそうなのです。科学の時代と言われる今日、未だ人間は宇宙の大きさを測れず、おそらくこれからも測定不可能とされます。
 ひとつの表現としては、私たちの星地球のある太陽系が、一千億個以上集まって天の川銀河があり、天の川銀河クラスの銀河がこれまた一千億個以上集まって、宇宙が出来ていると説明されたりします。
 また、望遠鏡で見ることの出来る有名なアンドロメダ星雲の光は、二百万年前にアンドロメダを出発した光でした。一秒間に30万キロという途方もないスピードで二百万年かかるというはるか彼方の星の集まり。しかも、それが宇宙の果てとは限らないと言う。人間の想像や推測を超えたとてつもない大きさ、巨大さです。
 以前、子どもに聞かれました。「パパ、星ってどうしてこんなにいっぱいあるの。宇宙って、どうしてこんなに大きいの。」それに対する答えのひとつは、この詩篇第八篇にあるように思います。
 どういうことでしょうか?人間が、「自分たちは何でもつくれる。どこにでもいける。そんな凄い存在なのだ」と高慢にならぬために。神様の造られた巨大な宇宙の中では、自分たちがチリのように小さく、無力な存在でしかないことを忘れないためにです。
 この4節で「人」と訳された元のことばは、「弱いもの、脆いもの、死すべき者」を意味します。「人の子」は「土から出たもの、土くれ」を意味していました。
 「この無限なる宇宙の沈黙が、私を恐れさせる。」とは、科学者、数学者にしてクリスチャンだったパスカルと言う人の告白です。
 果たして、私たちは、神が創造した宇宙、物言わぬ、計り知れないほど大きな宇宙を前にして、自分の卑小さを思い、神を畏れる、その様な信仰に立っているでしょうか。
 しかし、詩人の心にあったのは、人間の卑小さだけではありません。人間のことを心に留め、顧みる神の存在。宇宙のチリのような人間のことを、創造主の神様は心に留めてくださっている、心から大切に思ってくださっているという驚きでした。

 8:5〜8「 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」

 私たちは普段、人間としてこの世に生まれてきたことの有難さを思うことはなはだ少ない者です。むしろ、「猫のように自由気ままに暮らせたらなあ」等と思ったり、「自分は道端の石ころのように、詰らない存在だ」と寂しく感じることもあるでしょう。
 しかし、聖書は、神様にとっていかに人間が尊く、大切な存在であるかを教えてやみません。創造主は私たち人間を特別な栄光と栄誉のうちに造り、他の被造物を治めるという重要な仕事を人間に与えたのです。私たちはこのことをどれほど自覚しているでしょうか?
 とりわけ、心を惹くのは「人を、神よりいくらか劣るものとし」という表現でしょう。何度も繰り返しますが、宇宙のチリのように小さな人間が、この大宇宙を創造した神ご自身よりも、いくらか劣るものとして造られた者という事実が、私たちを驚かせます。
 ことばを変えて言えば、私たち人間はこの世界に存在するあらゆるものの中で、最も神に近い存在だということ、宇宙に限りなく輝くどの星よりも大切で、地球上に生きるどの生き物よりも重要な、神の作品であり、愛の対象だということなのです。
 思い返せば、聖書創世記は同じことを、このように言い表していました。

 創世記1:26「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。と仰せられた。』」

 「われわれ」すなわち「神に似るように、神のかたちに」造られ、他の被造物仲間を支配する仕事を仰せつかった私たち人間の尊さ。
 人間は宇宙のチリにして、宇宙の冠。神の創造の大きさと自分の卑小さを思って神を畏れることと、神にとって最も大切な存在として造られ、生かされていることを思い、神を喜ぶこと。私たちこうした二つの思いを心に刻み、告白しつつ、日々生きる者となりたく思います。
 こうして、1節の賛美が繰り返されます。

 8:9「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

 チリのようなものだから、自分の存在には何の意味もないと、塞ぎ込んでしまう虚無的な生き方ではない。かといって、自分は最高の存在だからと高慢になり、思いのまま生きようとする、神を畏れぬ生き方でもない。
 神の眼から見た自分を知る。神の眼から見た自分をわきまえる。神の眼から見た自分を喜ぶ。そんな生き方が出来たらと思わされるのです。
 最後に覚えたいのは、神よりもいくらか劣る者、神に似たものとして、尊く、人格的に造られた私たち人間の使命についてです。
 ダビデは元羊飼いらしく、治めるべきものの筆頭に「羊や牛」と言った家畜をあげていましたが、神の造られたものを治めるとは、ひとことで言えば仕事、働くこと、労働、奉仕を意味します。
 創造のはじめ、仕事は人間にとって神の祝福であり、神からの賜物、喜ばしいものでした。しかし、人間が神を離れ、罪人となって以来、仕事本来の意味や目的は歪められてきたのです。
 ひとつは、仕事の中心的な、時には唯一の目的が、生活を支える手段となってしまったことです。もちろん、聖書は仕事を通して収入を得ること、それで生活を支えてゆく権利が人間にあること、その権利を守ってゆくことの大切さを教えていました。
 しかし、金銭的報酬を得ることだけが仕事の目的であり、多くの報酬を得る仕事こそ価値があると言う見方は罪によって歪められたものです。少し前に、家庭の主婦の仕事を金銭に換算するといくらになるかという記事が新聞に載っており、そこでは月にして20万円弱とされていました。果たして、仕事の価値を報酬のあるなし、その多少によって判断することは正しいのでしょうか?
 仕事を祝福として与えてくださった神の意図は、全く別でした。神様が評価されるのは、その仕事によって収入があるかどうか、収入が多いかどうかではありません。
 むしろ、その仕事、働き、奉仕を通して、私たちが神様に与えられた賜物や能力をいかに誠実に発揮しているか、又、他の人々を愛し、助けるためにそれをなしているかどうか、ということなのです。
 二つ目に、私たちに与えられた仕事は、それが社会的に大きなものであれ、小さなものであれ、神様を喜ばせるわざとして行うべきものだと言うことです。
 それが社会における職業であれ、教会における奉仕であれ、家庭での家事、育児、看病であれ、地域でのボランティアであれ、どれもみな等しく神様におささげする聖なるわざであることを意識して、私たちがこれを行うなら、私たちは祝福と喜びを受け取れるでしょう。
 私たちクリスチャンは天国が来ることを、この地上でただ待っているだけの者ではありません。日々の仕事を通して、神とこの世界とに仕える者として生かされているのです。職場を、家庭を、地域を、そして教会を、少しでも神の喜ばれるものへと変えてゆくために仕事、働き、奉仕が与えられている、そのことを皆で覚えたいのです。

 Tコリント15:58「ですから、愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師