2012年4月22日
礼拝メッセージ


「神と人とを愛する教会」
  聖書
マタイの福音書22章34〜40節

22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


  メッセージ
 「瓢箪から駒」と言うことわざがあります。駒と言うのは馬のこと、意外なところから意外なものが出てくることを意味します。先程お読みした聖書、マタイの福音書22章34〜40節は、まさに「瓢箪から駒」と言う箇所でした。
 何故なら、ひとりの律法の専門家がイエス様を試そうとして、あわよくばそのことば尻を捕らえ、キリストの名声を地に落とそうと考えて発した、そんな意地悪な質問から、聖書の中でも最も大切な戒めが出てきた、明らかにされたからです。

 マタイ22:36〜40「『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』そこで、イエスは彼に言われた。『“心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”これがたいせつな第一の戒めです。“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」

 私たちの教会は、2020年までの長期計画のビジョンとして、「神と人とを愛する教会」を掲げました。これは、その元になっているみことばでもあります。
 「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」神である主を愛すること、隣人を自分自身のように愛すること、これらがいかに大切か。そのことをイエス・キリストは、「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている。」と言い表しました。この二つの戒めが聖書全体の心臓部、扇の要だということです。
 神を愛すること、人を愛すること、どちらも聖書においてその意味するところは実に多様でした。とても一言で言い尽くすことのできるものではありません。
 そこで、今日は教会の使命との関係で、神を愛することと、人を愛することの意味について考えてみたいと思っています。
 神が教会をこの世に置かれた理由、すなわち教会の使命のひとつは、礼拝を通して、神への愛を表すと言うことです。
 皆様にとって、一回一回の礼拝が神の愛を受け取り、神への愛を表す時となっているでしょうか。そのような礼拝をささげるために、私たちは何が出来るでしょうか。
 ひとつ誰にでもできるのは、礼拝とは何かを理解し、それを心に覚えて礼拝に臨むことです。
 それでは、そもそも礼拝とは何でしょうか。これもまた様々に説明されますが、私自身が大切にしているのは、「礼拝は神と私たちの交わり」という考え方です。
 実は、聖書の中には「主はこう仰せられた」、「神はこう告げられた」、「主なる神のことばが誰々にのぞんだ」、こういう表現が非常に多く出てきます。
 ことばをもって、私たちに臨んでくださるのが神様というお方なのです。E・ヤングと言う人が、旧約聖書の中だけでも、そのように神が人に語りかけるところが6800回もあると数えました。
 神様は絶えず人を求め、そのことばをもって臨んでくださるお方。それを聞き、受け取るところに私たちの造られた目的があるということです。

 イザヤ43:1「・・・イスラエルよ。あなたを形作った方、主はこう仰せられる。恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

 「わたしはあなたの名を呼んだ。」私たち普段あまり意識しませんが、聖書において名前はとても重要なもの。名前は、その名によって呼ばれるその人自身、その人の存在のすべてを意味していました。
 ですから、「わたしはあなたの名を呼んだ。」と言われる時、覚えたいのは、この世界を創造した神が、私たち一人一人、個々の存在をいつも心にかけ、求め、慕い、愛しているということなのです。そして、私たちの名を呼ばれる神が、特別に親しくみ言葉を語り、私たちと交わるために招いてくださった時と場所が主の日の礼拝でした。
 礼拝のプログラムの冒頭に招詞、招きのことばとあるのは、神が私たちを求め、礼拝に招いておられることを示しています。
 はたして、私たちはこのことをどれほど意識して、礼拝に臨んでいるでしょうか。自分が神に愛され、礼拝に招かれた者であること、神が聖書から語りかけてくださるみことばを聞くために造られた者であること。このことを覚えて、一回一回の礼拝を守ることが出来たら、どんなに幸いかと思います。

 ネヘミヤ8:1〜3「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」

 イスラエルの民が、苦しめられた捕囚の地バビロンから帰ってきて、久しぶりに故郷エルサレムでささげえた礼拝の様子です。
 町の広場に民がみな集まり、祭司エズラが朗読する律法の書、聖書のうちに神のことばを聞く。しかも、それが夜明けから真昼まで、みなが耳を傾け続けたという、すさまじい集中力。その心には、本当に久しぶりに兄弟姉妹相集う礼拝に招かれた喜び、神の語りかけるみことばを聞くことのできる喜びがあったと思われます。
 そして、です。神の招きと語りかけを心に受け取った人々は、どう答えたのでしょうか。

 8:6「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン。」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

 エズラが大いなる神、主をほめたたえたことは賛美を、民がみな手を上げながら、「アーメン」と答え、ひざまずいたことは祈りを、地にひれ伏したことは、神に従う姿勢を示すものです。
 私たちはここに、古の時代の信仰者たちが、いかに神と親しく交わる礼拝、生き生きとした礼拝をささげていたか、その様子を垣間見る思いがします。
 礼拝プログラムはきわめて簡素。礼拝の時間の長さなど気にするものもいない。場所は礼拝堂ではなく、太陽の下、土埃の舞う広場。座り心地の良い椅子などひとつもない礼拝。しかし、その礼拝がいかに霊的で、喜びに満ちていたことか。
 語られる神のみことばに耳を傾けること、主なる神を心からほめたたえること、ひざまずいて祈ること、ひれ伏して神に服従すること。彼らの礼拝には神への愛があふれていました。
 たとえ、時代や場所が違っても、又プログラムが整えられても、私たちもこのような礼拝の精神を受け継ぎ、神への愛を表す教会となりたいのです。
 次は、人への愛です。教会はこの地上にあって、兄弟姉妹互いに交わり、仕える者となることで、神様から頂いた愛を表すべきところでした。
 先程の、旧約聖書時代の礼拝の様子を描いた箇所の続きには、このようにあります。

 8:9〜11「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」

 礼拝に集った人々が、「悲しんではならない。泣いてはならない。」と二度も教えられたほど悲しんでいたのは、語られたみことばによって、自分たちの罪を知ったゆえであり、その為の涙でした。
 しかし、罪ゆえの悲しみは必要な悲しみであっても、そこにとどまるのは、主の日にふさわしくないことだったのです。主の日は、私たちが罪赦されたことを喜ぶ日、神の子とされたことを喜ぶ日、そして神によってひとつにされた兄弟姉妹お互いの存在を喜ぶ交わりの日でした。
 聖書には、教会の交わりが何度も何度も食事の交わり、食卓の交わりとして登場してきます。天国も宴会、食事を共にする喜びの交わりがある場所として描かれていました。
 食事の交わり、食卓の交わりは、相手の存在を喜び、相手に仕え、相手を赦し、相手を祝福する。そのような兄弟愛の強力なシンボルだったのです。
 ここに描かれた古の教会の交わりで、私が特に心惹かれるのは、「何も用意できなかった(貧しい)者にはごちそうを贈ってやりなさい。」と言うことばでした。貧しい者、弱い立場にある者を辱めてはならない、むしろ彼らに配慮し、彼らに仕えよという勧めは今も有効であり、必要と思われます。
 当時社会の嫌われ者だった罪人や収税人とも分け隔てなく食卓の交わりをなし、ともに喜びを分かち合ったイエス様。そうかと思うと、旅に疲れ、汚れ果てた弟子達の足元にひざまずくと、その足を洗うというしもべの仕事を進んでなしたイエス様。
 喜びも労苦もともにする。自分のことだけでなく、人のことを顧みる。そんなイエス・キリストの姿からも、教会の交わりの大切さとその心を学ばせていただき、私たちの交わりを豊かなものとしてゆきたいのです。
 さらに、私たちが愛し合う交わりを築くことは、この世の人々に対して強力な影響を与え、大いなる証しとなることを覚えたいのです。

 使徒2:46、47「そして毎日、心をひとつにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

 初代教会が地域社会の人々に好意を持たれ、救われる人々が次々に加えられたのは、教会の交わりの麗しさの故だったという事実。これも心にとめたいところです。
 最後に、教会がこの世に置かれた理由、使命の三つ目は、伝道をなして、この世の人々を愛してゆくことでした。
 神学生の時、私が奉仕していた教会の伝道師の方が外出から帰ると、時々教会の講壇の下で祈っておられました。しかも、涙を流しながらです。
 私が「どうして泣いているのですか」と聞くと、「道を歩いていたら、こんなに沢山の人が神の愛を知らずに生きているのかと思うと、悲しくて仕方がなくなってきた。」と言われるのです。
 神を知らない人のことを思い、涙を流すクリスチャンを、私ははじめて見ました。衝撃でした。今まで、自分はどういう思いで伝道してきたのか、と省みました。
 その時思い出したのは、イエス・キリストの姿です。

 マタイ9:35〜38「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 「彼らをかわいそうに思われた」とある「かわいそうに思う」には、「腸が引きちぎれるような痛みを覚えること」と言う意味があります。イエス・キリストが神を知らないこの世の人々に、いかに深い同情心を抱いておられたかが分かります。
 宣教100年を優にこえる日本のプロテスタント伝道。しかし、残念なことに、クリスチャン人口は全体の1%をこえることが出来ていません。
 また、2001年のギャロップ調査によれば、日本人の85%は「自分が何のために存在しているのか分らない」と答えています。「今の自分に満足していない」と答えた人が45%。生まれて来なければ良かったと感じている人30%。さらに、自殺者の数が毎年3万人以上という。本当に霊的に大変な状況です。
 エアコンは部屋を暖めるため、洗濯機は物を洗うため、パソコンはインターネットをするため。私たち人間は自分たちが造ったものついては存在理由、価値を説明できる。それなのに、肝心の自分自身の存在理由が分からないと言うのは悲劇でしょう。
 これら日本人同胞のことを、腸がちぎれるほどの悲しみを覚え、深い同情心を抱いて見ておられるイエス様の姿が思い浮かびますし、私たち思うべきでしょう。
 「教えてやろう」「伝えてやろう」という上から目線ではなく、イエス・キリストの思いを我が思いとして、世の人々への伝道につとめ、様々な機会、プログラムを通して多くの人を神の愛に招く教会となりたく思います。
 礼拝によって、神の愛を受け取り、神への表す教会。兄弟姉妹の交わり、また神を知らない人々への伝道によって、人を愛することを実践する教会。私たちみなでこれに取り組みたいのです。

 マタイ22:37〜39「そこで、イエスは彼に言われた。『“心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”これがたいせつな第一の戒めです。“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。』


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師