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メッセージ
私たちは先週、総会会議を無事に終えることが出来ました。過ぎし一年の報告、これからの一年の計画が承認されました。長老、執事の選挙も行われ、今年度の役員の体制も整いました。新年度が明けて一ヶ月ほど経ちましたが、気持ちを新たに教会形成に励みたいと思います。皆様とともに、この地で教会形成を出来ることを大変嬉しく思いますし、教会として良い歩みが出来ることを期待しています。
総会会議の中で決められたことの一つに、今年度の年間聖句があります。週報の表面に印刷されている聖句ですが、今年度はローマ書12章10節となりました。
ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
聖書は分厚い書物。その中に様々な教え、戒めがあります。聖書の教えの一つだけ守れば良い、それ以外は無視して良いというのではありません。私たちは聖書全体の教えに忠実でありたいと思いますが、一つの御言葉に誠実であれば勢い全体に影響するということがあります。一つに集中すると、あとはついてくるということがあります。
また、教会の皆で一つの御言葉に取り組むということにも良い意味があります。御言葉に従うことの困難さを一人で味わうのではない。皆で体験し、皆で励まし合い、支え合い、祈り合いながら、取り組むこと。これはまさに教会のあるべき姿の一つ。特に、今年度の聖句のように、その教えの中に「互いに」それを取り組むようにと言われているものは、そもそも一人で取り組めるものではありません。聖書に従う思いのある者たちで、この御言葉に従うのです。
今年度はローマ書12章10節の聖句に皆で取り組みたい。この聖句で教えられている生き方に挑戦したいと思います。
そこで今日はこの年間聖句の言葉に焦点を当て、この御言葉に従うのは具体的にどのようなことなのか。この御言葉に従うのには、どのような意味があるのか。確認していきたいと思います。
この聖句はパウロという人が記したローマ人への手紙の後半にある言葉です。牧師、宣教師にして、大神学者であるパウロの記したローマ書。大きく前半と後半に分けることが出来ます。簡単に言えば、前半は主に救いに関する教理篇。後半は救われた者が具体的にどのように生きるのか、その実践篇となっています。
前半の教理篇は11章まで。パウロによる講義。パウロ神学校の授業です。私たち人間が、神様の前でどのような存在なのか。罪ある者が救われるために、神様が何をして下さったのか。長らく語られるのが前半になります。この前半部分により、キリストに救いにあずかることがどれ程大きな恵みなのか確認された後、だからこそ救われた者はこのように生きるべきだと実践篇へと突入するのです。
ローマ書の後半、実践篇の冒頭はこのように始まります。
12章1節〜2節
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
キリストによる救いがどれ程素晴らしいものか。あなたがたはその救いを受けた者でしょうと確認した後、「そういうわけですから」と続きます。キリストを信じる者、救われた者としての生き様が語られるところ。
「キリストを信じる者の生き方」はどのような生き方なのか。皆様でしたら、それをどのようにまとめるでしょうか。クリスチャンはどのように生きるのか。
パウロはここで「生きた供え物」として生きるようにと勧めています。キリストを信じた者は「生きた供え物」であると。皆様は「生きた供え物」としての自覚はありますでしょうか。「生きた供え物」として生きるのは、具体的にどのような生き方なのでしょうか。
実践篇と言うわりに、抽象的に感じます。そもそも、「生きた供え物」という言葉は矛盾しています。一般的に「供え物」は命のないものか、命があるものであればそれは殺してささげます。聖書の中に供え物としてささげられるものが出てきますが、それが牛や羊、山羊、鳩などの命あるものであれば、その動物は屠られて供え物とされます。ですので、供え物であれば生きていませんし、生きたままでは供え物ではないのです。「生きた供え物」がいかにおかしな言葉か。似たような言葉がないか色々と探してみました。例えば「黙って話す」とか、「そこの十字路、右に左折する」とか、「私の将棋、王将がとられてからが強い」とか。どうにも、不可思議な言葉なのです。
「生きた供え物」とは何か。この言葉をどのように考えたら良いのか。私は、「生きた供え物」という言葉を使ったパウロ自身が別なところで記した言葉に、この「生きた供え物」として生きる心構え。「生きた供え物」としての信仰者の姿があるように思います。
ガラテヤ2章20節a
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
私が生きているのではない。私のうちにいるキリストが生きている。確かにこれであれば、「生きた供え物」であるという言葉が、しっくりきます。
罪の中にいた時。何が正しいことなのか分からない。自分にとって何が良いことなのかも分からない。そのような私たちが、キリストに救われました。自分が中心でないといられない。自分の考えこそ最上と生きてきた。そのような私たちはキリストとともに十字架につけられ、代わりに新しい命、永遠の命、キリストの命を頂いた。これからは、キリストの命を持つものとして生きる。聖書の教えを最上とし、神様中心でないといられない生き方をしていく。これが、「生きた供え物」としての生き方、「生きた供え物」としての信仰者の姿と言えます。
キリストを信じるとは、大きな変化がある。自分自身が大きく変わることなのだと再認識させられます。
それはそれとして、「生きた供え物」としての生き方とは、キリストの命を持つ者としての生き方。聖書の教えを最上とし、神様中心として生きることだとして、それは具体的にどのような生き方になるのでしょうか。
この「生きた供え物」の生き方は、具体的にどのようなものなのか。そのことが、12章の3節以降に出てくるわけです。つまり、今年の年間聖句、ローマ書12章10節は、「生きた供え物」としての具体的な生き方の一つとなっているわけです。
ローマ書12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
「生きた供え物」としての生き方。キリストの命を持つ者としての生き方。聖書の教えを最上とし、神様中心の生き方。具体的な一つのことは「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことでした。ある人がキリストを信じる者となったのは、「互いに人を自分よりもまさっている」と思う者になるよう、神様より選ばれたということです。
いかがでしょうか。皆様は「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことが出来ているでしょうか。
よくよく考えてみると、聖書の中でも、これほど難しい教えはなかなかありません。何しろ、罪赦された「罪人」である私たち。まだ罪の性質を持っている私たちは、人を自分よりもまさっていると考えることが大の苦手です。どうしても自分を高くしたい。自分の名をあげたい。自分を正しいとしたい。自分の業績を称えたい。あいつよりはマシと思いたい。他の人々を見下したい。そのような思いがフツフツと沸いてきます。
クリスチャン生活を送るにつれ、聖書知識は増え、様々な奉仕も出来るようになった。それは素晴らしいこと。しかし、それが仇となって、高慢になることがある。これだけやっているのだから、神は私を祝福すべきであろう。私はこれだけやっているのに、あいつはいったい何なのだと。
「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことがどれだけ大変なことなのか。しかし、これを今年のテーマと掲げ、皆で取り組みたいと思うのです。
そこで今日は「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことについて、なぜそれが私たちにとって重要なのか。そのように思うことは、具体的にどのようなことなのか。いくつかの視点で確認していきたいと思います。
一つ目の確認は、「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことは、自己卑下の勧めではないということ。他の人と自分を比べて、自分はダメだ。自分は役に立たないと思うことではない。そうではなく、キリストの救いは自分だけが受けたのではないことを覚えるための教えです。
つまり、教会の仲間を見る時に、その人のために神様が何をされたのかを覚えるということです。私たちは、自分自身も他の人を見る時に、何をなしたか、何が出来るのかで優劣をつけようとします。何年教会に来ている、どのような奉仕をしている、どのような能力があり、どのような性格なのか。しかし、そのような視点で人を見て判断する前に、まず、神様はその人のために何をしておられるのか。それを覚えるということです。
それでは、神様は私たちに何をしてくれたのでしょうか。パウロはローマ書の中で、神様が私たちに何をして下さったのか記してきました。
例えば、ローマ4章25節では
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
と言われます。そしてキリストによって義とされた者は、神の子であり、天国の相続人だと宣言されます。
ローマ8章16節〜17節
「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
皆様、今ともに礼拝をささげている近くの方を見て下さい。神様はその方のために何をなしたでしょうか。キリストを死に渡して贖い、神の子としたのです。皆様の前後左右にいるのは、この世界の造り主の子。神の王子、神の姫君。天国の相続人です。これ以上、素晴らしい存在は、この世界にいないのです。
考えてみますと、私自身もそうです。私自身、神の子とされた。神様の目に、私ほど素晴らしい存在はないのです。
つまり、「互いに人を自分よりもまさっている」というのは、自己卑下の教えではありません。ダメな自分よりも、あの人の方が優れていると考えるのではありません。「私は神様にあって尊い存在であるけれども、この方はその私よりもまさっている。」そのような思いを互いに持つように勧められているのです。
この視点で四日市キリスト教会を見た時、私は本当に嬉しくなります。何しろ、世界の造り主が命がけで救った方が、わんさかいる。創造主の子、天国の相続人が、ごろごろいる。これ程素晴らしい存在はないという方々が、こんなにいる。そして、その輪の中に自分も入れてもらっている。それが嬉しいのです。この喜びを、皆様とともに味わいたいと思います。
さて、「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことの重要性。確認の二つ目は、「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことは、クリスチャンの最大の特徴であるということです。
神から離れている状態。罪の性質の最大の特徴は、自己中心です。自己中心というのは、「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことが出来ないということ。
最初、人間が神様に対して罪を犯した時。それは、神様が禁じた善悪の知識の木の実を食べるということでしたが、この時、エバに対して蛇の誘惑の言葉はこのようなものでした。
創世記3章4節〜5節
「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。なたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」
「神のようになる。」これが誘惑の言葉でした。人が善悪の知識の木の実を食べた結果、どうなったのか。神のようになるどころか悲惨な状態に陥るのですが、ところが自分自身では自分を神であるかのように考える存在となりました。自分を神であるかのように考える。これはまさに自己中心でした。
私たちが救われたのは、この罪の状態からです。自分を神であるかのように考えるところから、神様を神とする者へとなったのです。そしてこの変化は、「人を自分よりもまさっている」と思えない、思いたくもないという者が、私よりもまさった者が多くいることを喜ぶ変化として現われるのです。この意味で、「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことは、クリスチャンの最大の特徴でした。
私たちがこの年間聖句に取り組むというのは、クリスチャンらしい生き方に取り組むこと。罪から解放されたことを実際に味わうことを意味します。「互いに人を自分よりもまさっている」と思う関係を築くことが出来たら、それは他では味わえない、キリストを信じる者ならではの喜びを味わうことになるのです。
「互いに人を自分よりもまさっている」と思うことの重要性。確認したい三つ目は、この聖句を実行することは、教会がキリストの体であることを味わうことを意味するということ。教会とは何か。どのような特徴がるのか。聖書は様々な特徴を挙げていますが、パウロが好んで使う表現の一つに、「教会はキリストの体」というものがあります。実は、このローマ書12章の中でも、パウロはその主張をしていました。
ローマ12章4節〜5節
「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」
教会はキリストの体であり、私たちは各器官である。それはつまり、教会に集められた私たちは、それぞれに能力や働きが与えられているということ。それぞれの器官は、自分のために存在しているのではなく、体全体のために力を発揮するということ。目が自分の力を誇り手を馬鹿にするとか、頭が自分を誇り足などいらないというのは、おかしなことです。
自分は他の人のために存在し、他の人は私のために存在する。この教会についての教えを本当にその通りと受けとめる時、「他の人を自分よりもまさっている」と思うことが出来ますし、それが喜びとなります。何しろ、自分よりもまさっている人は、一つ体の仲間であり、自分よりもまさっている人によって自分は助けられていることが分かるからです。
この意味で、「互いに人を自分よりもまさっている」ことに取り組むことは、教会がキリストの体であるということを体験する取り組みでもあるわけです。
以上、年間聖句として決められたローマ書12章10節を見てきました。この聖句に取り組むということは、互いに、キリストが命をかけて愛した存在として接することであり、罪から解放された実感を味わうことであり、教会が聖書の教える通りキリストの体であることを体験することでした。
私たち一同で、この聖句に取り組み、このような恵みを味わっていきたいと思います。
年間聖句を今日の聖句としました。皆で読み終わりにしたいと思います。
今日の聖句
ローマ人への手紙12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
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