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メッセージ
三月の末ブラジル長老教会の大会に参加するため、私はブラジル・サンパウロに出かけてきました。九日間の旅でしたが、サンパウロ滞在は正味五日と半分。三日と半分は飛行機か車に乗って移動した時間ということで、地球儀で言えばちょうど日本の裏側にある国の遠さを改めて感じました。
そんな長い旅の中、行きの飛行機の中で、退屈しのぎもあり、付け焼刃でポルトガル語を覚えようと、会話の本をぱらぱらとめくっていました。
「今日は」は「ボンジヤ」、「ありがとうございます」は「オブリガード」。キリスト教の言葉では、「教会」が「イグレージャ」、神が「デウス」など、何となく聞き覚えのある言葉を覚える中で、ひとつ、とても良い言葉が見つかったのです。
「はじめまして」という挨拶の言葉でした。ポルトガル語では「はじめまして」を「ウ〜ント・プラゼール」と言います。「ウ〜ント」は「とても」、「プラゼ〜ル」は「喜び」。「ウ〜ント・プラゼール」、「あなたにお会いできて、私はとても嬉しい、あなたに会えたことが私の喜びです。」と言う意味になるでしょうか。
日本語の「はじめまして」という味気ない挨拶に比べると、ウ〜ント気持ちがこもっている様に思えます。事実、ブラジルでは長老教会に属する多くの兄弟姉妹に出会い、「ウ〜ント・プラゼール」を何度も繰り返し、クリスチャンの交わりの喜びを味わうことができました。
さて紀元30年頃の春、十字架事件から三日後の日曜日の夕方のこと。エルサレムの都が未だ騒然とする中、弟子達の前に現れたイエス様は、出会いの喜びを隠しきれず、「シャローム、平安あれ」と語り、彼らを祝福されたと聖書は語ります。
20:19「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」
「平安があなた方にあるように」と訳されたシャロームは、現在イスラエルの人々の生活で、「おはよう」「今日は」「お元気ですか」など、日常の挨拶のことばとなっています。聖書の中でも、人々の日常的な挨拶の言葉として多く訳されていました。
しかし、ここで復活の主イエス・キリストが語られたシャローム、その元々の意味は「平安、平和」ですが、これは神が人間に対してなした宣言と考えられています。つまり、人の救い主となられた神、平安の源である神が権威を持って語られたということ、事実弟子達に平安そのものが与えられた、ということなのです。
一方、この時弟子達はどんな状況、どんな状態にあったのでしょうか。平安とは程遠い状態にあったと思われます。
19節には「弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあった」とあります。思い返せば三日前、彼らは主イエスを見捨て、十字架の場から逃げ去りました。
「ユダヤの王になってくださる」と期待を抱いていたキリストが、最も悲惨な十字架刑で処刑されるという衝撃。十字架は彼らの希望を打ち砕きました。
また、愛する主を裏切ったという情けなさに悩み、無力な自分を責める思いもあったでしょう。さらに、イエス様と同じ運命が自分たちを襲うかもしれないと、世間を恐れていたとも考えられます。
イエス・キリストに対する失望。自分の行いを責め続ける苦しさ。世間から離れ、心を閉ざし、人々と交わろうとしない恐れ。将来に対する不安。平安とはかけ離れた中にある弟子達の姿です。しかし、私たちもまた同じことを人生において経験しては来なかったでしょうか。
けれども、そのような弟子達を一言も責めず、それどころか自ら進んで彼らの中に入り、出会い、交わり、平安・シャロームをもたらすためイエス・キリストは復活されたと聖書は言うのです。
イエス様ご自身、失望や苦しみ、不安や恐れに満ちた世に生きる私たちに平安をもたらすことこそ、生涯の目的と語っておられました。
ヨハネ14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
「わたしの与える平安はこの世が与えるものとは違う」とイエス様は言われます。
「お金があるから安心」「心配事や問題がないから大丈夫」。この世の与える平安とはこういうものでしょう。すなわち、自分を取り巻く状況や環境に左右される平安、状況や環境が変われば消えてなくなってしまう、脆い平安です。
しかし、わたしの平安はそれとは違うとイエス様は言われた。それならば、イエス様が与えてくださる平安、復活の主しかもたらすことのできない平安とは何でしょうか。
シャロームには様々な意味があります。何度も言うように「平安、平和」というのが根本的な意味です。旧約聖書に登場する有名な王様ソロモンも、元の言葉ではシェロモン。シェロモンはシャロームから出ていて、ソロモン王は平和の王とされました。
しかし、その他に「完全」という意味がありますし、面白いことに「支払う」とか「和解のいけにえ」と言う意味もあるのです。
完全、支払う、そして和解のいけにえ。全く関係がないように見える三つの言葉が、どのように結びつくのでしょうか。もう皆様、お分かりでしょう。イエス・キリストと言うお方において、全部が結びつくのです。
イエス様は罪人のために和解のいけにえとなって十字架にかかり、その尊い命を私達の罪の代価として支払い、私達を神様との完全な関係に回復してくださいました。
この十字架の愛によって実現したシャローム、ことばだけでなく本当に実体のあるシャローム、平安がもたらされたことを弟子達の心に刻み付けるため、イエス様は「シャローム」を宣言するとともに、ご自分の手とわき腹を指差して見せたのです。
20:20「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子達は、主を見て、喜んだ。」
愚かで、鈍くて、卑怯な弟子達。自分たちの足で十字架の場から逃げ去ったのですから、見捨てられても当然の者達。それなのに、イエス様ときたら、ご自分の方から弟子達のいるところに親しく近づき、それでも足らぬとばかり、釘の痕が残る手と槍の痕も生々しいわき腹をも示してくださったというのです。
「ほらご覧。わたしがあなた方のために十字架に死んだので、あなた方の罪は全部赦されましたよ。神様との関係も回復したのですから、安心して神様と交わることができますよ。」
最初のうちは責められるか、叱られるかと、内心びくびくしていたであろう弟子達にも,漸くそんなイエス様の捨て身の愛が届いたのでしょう。彼らは主を見て喜んだ、と聖書は語ります。
しかし、イエス・キリストが与えたシャロームは弟子達に喜びをもたらしただけではありませんでした。失望と苦しみ、恐れと不安。その様な状態から立ち上がる者、新たな力をいただいて、この世に出てゆき、尊い働きを成す者へと彼らは変えられたのです。
20:21「イエスはもう一度、彼らに言われた。平安があなた方にあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
弟子達がこの時、本当に復活の主に出会ったという証拠はどこにあるでしょうか。彼らがイエス・キリストのシャローム、平安を事実もらい、受け取ったと言う証拠はどこにあるでしょうか。
それは、この後の彼らの生涯、喜びと力に満ちたその歩みにあります。この時、家の中に閉じこもり、シャロームからは程遠い、後悔と恐れの崖っぷちにあった彼らが、打ちたたかれても、投獄されても、キリストの復活の証人として生き抜いたという事実。
それどころか、キリストのゆえに苦しみを受けることさえ喜びとしたと言う生き様が、何よりも雄弁に彼らが本当の平安の中に生かされていたことを物語っているでしょう。
そして、それから二千年にわたるキリスト教宣教の歴史も大いなる証拠です。弟子達と同じく、復活のイエス・キリストに出会い、その赦しと愛によりシャロームを経験した人々がキリストの証人となったこと、それが繰り返され、繰り返され、今日日本にいる私達も、イエス・キリストの平安のうちに生かされている事実も、あげねばならないと思います。
今、イスラエルの人々が「ご機嫌いかがですか」と相手に尋ねる時、「マーシュロムハー」と語ります。「マーシュロムハー」、真ん中の部分にシャロームという言葉が入っているのがお分かりでしょうか。
文字通りに訳せば、「あなたのシャロームはいかがですか?」という意味でした。「今日、あなたのシャローム、神様との関係はどうですか。神様とシャロームですか。神様の愛と赦しを受け取っていますか。それを喜んでいますか。そこから力をいただいていますか。」こんな風に聞かれたら、皆様はどう答えるでしょうか。
たとえ戦争があっても、お金が十分なくても、病気であっても、疲れていても、神様との間にシャロームがあるなら、自分は大丈夫、平安の中に生かされていると言えるでしょうか。
また、心に恐れがあり、失望があり、不安があっても、神様との親しい交わりの中で力を頂き、もう一度立ち上がることができると信じておられるでしょうか。
今日の礼拝において、私達がひとりひとり、「はい、その通りです。私はキリストからシャロームを受け取りました。」そうお答えして、この世における成すべきつとめへと遣わされたいと思います。
最後に、キリストの平安のうちに歩み続けるため、私たちは何をなすべきでしょうか。それは、主の日を喜びとすること、全力を尽くして主の日の礼拝を守り続けるということです。
聖書において、日曜日は主の日とか聖日と呼ばれますが、もうひとつの言い方は安息日というものです。旧約聖書では、金曜日の夕方から土曜日の夕方にかけての一日が安息日と定められ、人々はともに集まり、神を礼拝しました。
キリスト教では、イエス・キリストが日曜日に復活されたことを記念して、早い時代から日曜日に公の礼拝を行うようになり、土曜日から日曜日へ安息日は移行しました。
しかし、たとえ曜日は移行しても、その精神は変わっていません。一つの事をお話しますと、安息日をシャーバトと言いますが、その意味は「休む、やめる。」でした。
イエス・キリストの時代、ユダヤ人たちはやめることばかりに腐心し、何を、どうやって、どの程度やめたらよいのか、外面的なことばかり気にしました。ために、穴に落ちた動物を助けるとか、病人を癒すなどの愛の業さえも仕事とし、これを禁じ、これを守らない人をさばいたのです。人を愛し、人に安息、平安を与えようと安息日を定めた神様のお心を履き違える、本末転倒でした。
それでは、安息日の本来の意味は何でしょうか。それは、神様との関係を修復するために、自分のことをやめる、たとえそれが仕事のように良いことであっても、それをやめる。キリストの十字架と復活を思い、神様の愛と赦しを受け取ってシャローム、平安を味わうために休むこと、自分のことをやめることでした。
言葉を変えて言えば、それ位昔も今も、私たちの生活には神様との関係を妨げるものが多く組み込まれていると言うことです。朝起きたら、先ず携帯のメールをチェックする、テレビをつける、パソコンを立ち上げる。日曜日の朝にまで、そのようなことが及んでいるのが、私たちの日常です。
そのような中、人間の魂が滅びてしまわないように、キリストの平安を受け取り、本来の自分を取り戻すことができるように、天の力を心一杯に受け取って、この世を生きられるようにと、神様が定めてくださった安息日、主の日の礼拝を、私たちみなで尊び、喜び、守り続けたいと思うのです。今日の聖句です。
ヨハネ14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
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