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メッセージ
今日から、私が礼拝の説教を担当する際は、主にヨハネの福音書を読み進めてまいります。「福音書が全聖書の完成であるように、ヨハネの福音書は福音書の完成である。」と言われます。
福音書は聖書の主人公イエス・キリストの生涯の記録、伝記であるがゆえに聖書の完成であり、福音書の中で最後に書かれたヨハネの福音書は、他の三つの福音書には無い事を補っていると言う点で、福音書の完成という意味でした。
勿論マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つの福音書には各々特徴がありますし、各々が様々に描く救い主のお姿を通して、私たちはより豊かにイエス・キリストを知ることが出来ます。
中でも、取分け広く全世界の人にキリストの福音を知ってもらいたいと願って書かれた第四の福音書は、ユダヤの文化や歴史にあまり馴染みのない私たち日本人にとって、最初に読むのに良い聖書、入門用の聖書とされてきました。
また、江戸時代のこと、愛知県の知多半島に住む漁師、音吉、岩吉、久吉の協力を得て、カール・ギュツラフという宣教師が翻訳、出版した、プロテスタントによる最初の日本語訳聖書がこのヨハネの福音書となります。
その冒頭、一章一節のことば「はじめにかしこきものござる。」−今の訳では「初めに、ことばがあった。」−を含め、これを翻訳するため彼らがいかに苦労したことか。この辺の経緯は三浦綾子さんが「海嶺」という本に詳しく書いていました。そのようなわけで、このヨハネの福音書は私たち日本人向きの聖書、日本人に馴染みの深い聖書と言えるでしょう。
ところで、この福音書を書いたヨハネという人はどんな人だったのか。元々ヨハネは「ボアネルゲ=雷の子」という仇名を頂戴する程、気性激しく、血の気の多い人でしたが、キリストに従ううちに感化され、ついには親切、柔和、愛の人となりました。
所謂十二弟子の中でも、ヨハネはペテロ、ヤコブとともにキリストの信任を受け、特にみ傍近く侍ることを許された弟子でした。あの最後の晩餐の時には、イエス様の胸に寄り添っていたとされます。また、イエス様が捕われて十字架にかけられたもう時には、大胆にその傍らに立ち、キリストの母マリヤの扶養を託されました。
これ程イエス・キリストに愛され、信頼されたヨハネその人が自分の名を名乗らず、ただ尊い主の愛を記念して、「イエスの愛したもう弟子」として福音書に登場してくることも、覚えておきたいことです。
事実、ヨハネが切に願っていたのは、これを読んだ人がイエス・キリストの愛を知ること、ヨハネの表現によれば永遠のいのちを得ることでした。
20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
この福音書を読み進むうちに、私たちも著者ヨハネの如く、イエス・キリストをより知る者、これを喜ぶ者、永遠の命を得、これを味わう者になれたらと願わされます。
さて、昔の人が苦労して「はじめにかしこきもの−優れたもの、畏れるべきもの−ござる。」と訳した、一章一節です。
1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ここに「ことば」とあるのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストが、神のみこころを人に告げる「ことば」であり、神のみこころを実現する「ことば」であるから、と考えられてきました。
また、「初めに、ことばがあった。」と言う表現は、聖書の最初のことば、「初めに、神が天と地を創造した。」という創世記1:1を彷彿とさせます。
同じ福音書でも、マタイとルカの福音書は、イエス様の誕生からその生涯についての筆を起こし、マルコの福音書はイエス様の宣教活動開始から書き始めたのに対し、ヨハネは世界の初めから、イエス・キリストのことを語り出すのです。
この世界が創造された初めの時、ことばなるキリストはもうすでに存在しておられた、つまり、キリストは永遠の存在、昔いまし、今いまし、とこしえにいます神である、との宣言でした。イエス・キリストは、人間としてはおよそ二千年前ユダヤの国のナザレ村に赤ん坊としてお生まれになったけれど、神としては世界の初めから生きて、働いておられたというのです。
この事から、マタイ、マルコ、ルカ、三福音書の描くイエス・キリストが歴史的、地上的なのに対し、ヨハネの描くイエス・キリストは、永遠的、天上的等とも言われます。
それならば、この世界が誕生する前、イエス・キリストは何をしておられたのでしょうか。皆様の中にも、子どもにこんな質問をされたことがあるかもしれません。「神様って、世界を造る前何をしていたの?」その答えは、一章二節にありました。
1:2「この方は、初めに神とともにおられた。」
よく見ると、同じことが既に一節でも言われています。「ことばは神とともにあった」と。イエス・キリストが神、父なる神とともにあった、愛の交わりのうちにあったと二度繰り返されているのは、これがとても大切な真理であることを示しています。
イエス・キリストご自身地上に来られてからも、父なる神との親しい交わりの中を歩んでおられたことを、祈りの中で語っていました。
17:1,5,24「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。・・・今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。・・・父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」とか、「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光」等。 これらのことばは、世界が存在する前から、父なる神とイエス・キリストとの間に愛の交わりがあったこと、その交わりが罪人のため十字架の死へと進まれたイエス様の歩みをどんなに深く支えていたかを示しています。
父なる神とイエス・キリスト。人格の異なる神が愛し合い、仕え合う交わりを、世界の始まる前から今に至るまで最も大切にしておられること。それは、私たち人間も、互いの違いを認め、受け入れつつ、愛し合い、仕え合う交わりをなすために造られた者であることを教えていました。
夫婦、親子、教会の兄弟姉妹、会社の同僚、そして地域社会にあって、私たち神様に人間として創造され、生かされているこの尊い目的を自覚しつつ、日々歩む者でありたいのです。
そして、続く3節。この世界はキリストによって創造されたという大宣言です。
1:3「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
自分がそこに属し、生きている世界をどのように見るのか。少し固いことばを使うなら、世界観と言いまが、皆様はこの世界をどのようなものと見ているでしょうか。
この世界は偶然の産物で、自分の存在には意味もなければ、価値もないと考えているでしょうか。それとも、聖書が言うように、この世界はイエス・キリストが父なる神との交わりの中で溢れるほど持っていた愛により創造した世界と考えておられるでしょうか。
振り返ってみれば、私たちの人生とこの世界には、自分の力ではどうにもならない事、人間の力をこえた出来事が思いのほか多いことに気がつき、驚かずにはいられません。
例えば、私が男に生まれた事も、1950年代後半という特定の時代に生をうけた事も、日本人として生きている事も、私自身の意志には関わりなく与えられた事実です。
また、親から譲り受けた体質や能力、守り育てていただいた家庭や学校、今結んでいる夫婦、親子に加え社会での人間関係も、その大部分は個人の意志や能力を超えた、大きな力の下にあることを、ひしひしと意識せざるを得ません。
さらに、桜の花や新緑によって代表される春の美しさ等四季の移り変わりも、人間の力を超えた自然の悠々たる営みです。もし、それら一切が偶然であり、何の意味もないことだとしたら、その様な世界に生きることの虚しさは耐え難いものとなります。
これに対して、私たちは人間を含めてこの世界のすべてのものは、イエス・キリストの愛のうちに創造されたもの、良いもの、意味あるものとして存在していることを信じています。そのような大胆な世界観に立って生きるのがクリスチャンなのです。
創世記1:31「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。こうして夕があり、朝があった。第六日。」
ここで「良かった」と訳されていることばには、「上出来な」「美しい」「喜ばしい」など様々な意味があります。神様はご自身が心を注いで創造したこの世界を上出来、美しいと見られ、喜んでおられる。特に、神のかたちにお造りになった私たち人間の存在を喜んでくださっている。このことを覚えたいのです。
神から見たこの世界と人間とは、本来「上出来で、美しく、喜ばしい」ことを確認しましたが、この世界にはもうひとつの面があることも、忘れてはならないでしょう。それは、人間の心に宿る罪であり、その世界に及ぼす影響、即ち本来あるべき所から離れてしまった状態です。ヨハネはこれを闇と呼びました。
1:4、5「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
少しばかり困難に会うと、瞬く間に不平不満の山を築きあげる。ちょっとした努力や善行で天狗になり、人に見せびらかしたくなる。救いがたいねたみ、むさぼりの心。癒しがたい自己中心。私たちの心の罪、闇は巨大です。
さらにそれが外に現れての家庭崩壊、社会的犯罪、国と国との紛争に戦争。自然の世界における天災。これらも、私たちの眼には如何ともし難い強大な闇と見えます。
しかし、聖書は語ります。闇は確かにこの世界に、人の心にも、人間社会にも、自然界にも存在している。被造物は皆闇の中で苦しんでいる。しかし、この世界を覆う闇の力は、いのちの源にして、人の光なるイエス・キリストに打ち勝つことができないと。
何故でしょうか。この世界を創造したイエス・キリストが光となって、罪に満ちた私たちの心と社会の闇に届き、輝いてくださったからでした。
このキリストの光がその生涯、特に十字架の死と復活において輝きを放つこと、また、ついに闇の力に勝利することを、この後ヨハネの福音書は私たちに教えてくれるのです。
最後に、今日私たち覚えたいことがあります。それは、人生にいかなることが起ころうとも、また、この世界がいかにひどい状態になっても、神様がこの世界を、特に私たち人間の存在を心から喜んでおられることを忘れずに生きるということです。
この世界を愛のうちに創造した神様が私たちの人生を導き、守ってくださると信頼して生きることです。今日の聖句です。
ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
幸いも災いも、喜びも悲しみも、成功も失敗も、起こり来るすべての事を用いて、私たちをキリストに似た者へと造り変え、この世界を元の良い状態へと回復して行く。それが神様のやり方であること、私たちの魂も、体も、この世界この神様の御手に固く握られていること。皆様は、このことを信じているでしょうか。
人間の努力で心の闇も、社会の闇も解決できるという楽観主義を、私たちはとりません。かといって、闇の深さに失望して、自分には何も出来ないという悲観主義にも立ちません。イエス・キリストを信じ、キリストの光をうちに宿して、キリストと交わり、キリストに助けていただきながら、闇に勝利してゆく。そんな生き方を目指したいと思います。
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