2012年6月10日
礼拝メッセージ


「まだ一つ欠けたもの」
  聖書
ルカの福音書18章18〜23節

18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。


  メッセージ
 今日のお話の主人公は役人。それも若くして、富にも恵まれるという、エリートを絵に描いたようなお役人です。しかし、この人には「いかにもエリートでございます」というような嫌味が全く無い。むしろ心根はさわやか、真面目な人柄で、きっと周囲の人をも魅了したに違いない。そんな人物でした。
 しかし、この様な人がイエス・キリストと交わす問答を通して、私たち宗教というものの怖さを知る。そんなエピソードとなっています。

 18:18「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 主人公の登場です。ここの「役人」ということばは、彼が「サンヘドリン」という、当時ユダヤの最高議会の議員であることを示していました。現在の日本で言うなら、国会議員で、政権与党の若きホープ兼最高裁判事というところでしょうか。
 マタイの福音書は、この役人が「青年」であったことを告げています(マタイ19:20)。マルコの福音書は、「走り寄ってみ前にひざまづいた」と、この人の行動力を描きました。
青年らしく走り寄り、礼儀正しく跪いた役人。一体、この若者はそのようにしてまで、イエス・キリストに何を尋ねたのでしょうか。「私は何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と、その願いは明白でした。
  永遠の生命を願い、求めるその姿勢。見上げた志です。それも、「何をしたら」と具体的で行動的、つまり真剣そのもの。気合が入っていました。並大抵な覚悟ではないことが伺えます。
 普通、「役人」といえば、昔も今も何を考える人でしょうか。少しでも上位の椅子を狙うこと、権力の階段を上がって、この世の権力を握ることでしょう。
 しかも、この人は青年でした。青年だったら、青春を謳歌して楽しみにふけるのが普通でしょう。永遠の生命どころか、今の生活の繁栄を求める人が大方でしょう。
 ところが、この若者は、「今」ではなく「永遠」を思っていた。今日、明日の生命にしばられず、永遠のいのちのことを考えていた。いい年になっても、今日、明日を虚しく過ごして、永遠のことなど思わぬ人が多いのが世間であるのに、この人は違っていました。
 それも、永遠の生命について「論じよう」というのではありません。永遠の生命を得たい。永遠のいのちを自分のものとしたい、と言うのです。単なる教養でなく、永遠のいのちそのものを自分のものにしたいという見上げた志でした。
 昔も今も、目の前のことだけで毎日をやり過ごし、この世での安定、この世での立身出世を求める人ばかりが多い中で、永遠を思う人は何人あるでしょうか。永遠のいのちを得たいと切望する人がどれだけいるでしょうか。
 それを思うと、この人は本当に見上げた人物。百点満点の青年ではないかと賞賛したくなります。少なくとも、こんな人に重大な欠点、欠けたところがあるなどと考える人はいないでしょう。
 ところが、です。宗教というものは恐ろしいものです。それも、イエス・キリストの前に立つということは、その人の本当の姿があらわになることであり、この青年の場合も例外ではありませんでした。
 世間的には善い人、道徳的には善人であっても、心の奥底にある思い、願い、動機までも見通されるイエス・キリストの前に立つと、それがかえって欠点となるという宗教の恐ろしさです。
 実は、この若き役人の欠点は、その立派な質問の中に既にあらわれていました。質問をもう一度見てみましょう。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」でした。イエス様は、先ずこの人が余りにも気軽に「尊い先生」と呼びかけたことを指摘しています。

 18:19「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」

  本当に尊いお方と言ったらひとり神様のみ。真実、完全に尊いと言えるのは、ただ神様のみ。それを気軽に「尊い先生」と、人に対して口走った若者の軽さを、イエス・キリストは暴露しました。
 この若者は、まだイエス様が人となって来た神であることを知っていたとは思えません。この世の賢人、知者、偉い先生のひとり位に思っていたのです。なのに、その程度で、神に対してのみ使うべき「尊い」ということばで人を呼んだのでした。
 私たちも、唯一の神を知らない時には、何ともお手軽に神という言葉を使っていたでしょう。野球が上手いと野球の神様。偉い学者のことを学問の神様、芸術に秀でていれば芸術の神様・・・。
 ちょっと優れた能力を持つだけで、その人を神様と呼び、あるいは人並み以上に道徳的な人を指して、「きよい」とか「正しい」ということばを連発していました。
 しかし、聖書の神を知ってからは、人間に対して神とは言えないとわきまえる様になりました。また、簡単に「きよい」とか「正しい」と口にすることを控えるようになったのです。神を知る、神のきよさを知るというのはそういうことでした。
 それを、この役人は、気軽に「尊い先生」と呼びかけた一言で、まだ本当には神を知らないこと、神の尊さをわきまえていないことを、暴露してしまったのです。
 さらに、イエス・キリストは、若者に語りかけます。

 18:20、21「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』すると、彼は言った。『そのようなことはみな、小さい時から守っております。』」と。

 これも、思わず眼を蔽うような答えではないでしょうか。「十戒ですか。十戒なら、もう小さい時から知っています。守っています。」 何とも大胆な物言い。十戒を定めた神さまもお心を少しも考えていない人のことばと思えます。
  「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。」
 イエス様は、なぜ十戒をあげられたのでしょうか。それは、この役人が18節で「私は何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができましょう。」と、尋ねたからです。
 「何をしたら永遠の生命を獲得できるのか。」自分が何かをしたら、何かをしさえすれば、永遠のいのちを得ることができるはずという口ぶりです。
 自分の行い、自分の努力、自分の能力に対する自信、いや過信でした。それも、人間社会で通用するような善いことならともかく、神聖な神の御前に心の中の動機、思いから結果にいたるまで、永遠の生命に価するような努力や善行を自分は為しうる、出来るはずだという、浅墓な自己信頼でした。
 おそらく彼としては、「姦淫するな」といって、「自分は一度も娼婦のところに行ったことはない。」くらいに考えていたのでしょう。要するに低いのです。世間的な道徳の基準で、神の聖なる十戒を考えていたのです。
 「殺すなかれ」にしても、自分は今日まで人間社会の法律に定められた殺人罪を犯したことはない、「盗むなかれ」にしても、一度だって警察の御厄介になったことはない、くらいに思っていたのでしょう。
 しかし、神の十戒はただに私たちの行動を律するだけでなく、心の奥底に潜む思い、願いをも、その聖なる光で照らしだすものだったのです。
 ですから、「姦淫するな」にしても、神の前には、すべて情欲をもって異性を見る者は、その心、その眼で姦淫を犯しているとされました。
 「殺すなかれ」にしても、凶器をもって人の血を流すことはなくとも、心の中では人を憎み、見下し、馬鹿にして、神の前では数え切れないほど人を殺している、ということをわきまえるべきでした。
 以下「盗んではならない」にしても、人のお金には手を付けずとも、人の評判を盗んだり、人の時間を盗んだりする自分に、私たち気がつきます。
「偽証を立ててはならない」にしても、裁判の席で嘘の証言をすることはなくとも、神の聖なる眼から見たら、なんと、心の中はウソだらけかと思わされます。「絶対に約束を守る」と口にしながら、何度それを忘れ、それを破り、尤もそうな言い訳を繰り返してきたことか。
 「父と母とを敬え」でも、心からの親孝行なのか。それとも遺産相続とのかねあいがあってのことか。
 つまり、この若者は世間ではエリート、あるいは、評判の良い人であったかもしれませんが、残念なことに神を知らなかったのです。聖なる神を前にして、自分の内面を顧み、その罪の酷さを思い、悲しむという世界を知らなかったのです。
 たとえ十戒を知っていたとしても、それは単なる宗教的知識、社会的知識であって、残念なことに十戒の背後におられる生ける神、聖なる神を思うこと、畏れることがなかった、だから、人間相手で結構自分は善人だと思っていられたのでしょう。
 その証拠に、彼はイエス様に向かって「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」と言い放ちました。
 イギリスの賛美歌作家、有名なホレイショウス・ボナーは、ある日一つの夢を見ます。彼の心が天使によってはずされて、化学分析にまわされたゆめでした。
 とりはずされた彼の心は、分解、蒸留、濾過されて、おのおのの要素が量られます。すると、何とその殆どが自分の利益のため,賞賛を欲する心,肉欲、名誉欲,単なる習慣ばかりで、真の純粋な愛ときたら、ほんの微量でしかなかった、という夢だったそうです。
 ボナーはイギリス、英国の聖者と言われた人です。ボナーにしてそうだとすれば、私など神の前で認められる愛など全くないと思わされます。ましてや、神の前に永遠の生命に価するような善行などできやしないと感じます。
 それを、「そのようなことは、みな小さい時から守っています。」と答えたこの若き役人は、真に畏れるべき神を知らなかった。そして、イエス様は、人格的な真の神を知らないという、この人の致命的な欠点を見抜いておられたのです。
 しかし、イエス様は見抜いていても、当の本人は未だ気がついていなかったようです。ですから、この模範的青年に一言告げました。

 18:22,23「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『』あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」

 「あなたは、まだ一つだけ欠けたものがあります。」と言われて、若者は不思議に思い、いぶかしんだことでしょう。「一体、自分に何が足りないのか?」と。
 自分が百点だと思っているから、小さい時から欠点のない、評判の良い自分だと自負していたからです。
 しかし、イエス様は、一つのことをズバリ言われました。
 「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」
 永遠の生命を得たいと言う若者。そのために何かを出来ると思っているエリート。永遠の生命のためにと意気込んでやって来た役人。
 そのような人に対して、「あなたは持ち物を全部売り払うことができるか。そして、貧しい人たちに分けあたえることができるのか。 おそらく、全部でなく一部でも、貧しい人に施すことさえ出来まい」と、イエス様は語られたのです。
  すると、若者は、一文一円を惜しむ根性をあらわしました。

 18:23「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」

 自分の財布の紐一つゆるめられないのに、「永遠の生命」に価する何事かができると思い上がっていた若き役人。イエス様のおことばは「持ち物を打って施せば、その行いによって神に救われる」という意味ではありませんでした。
 むしろ、道徳的には百点満点で、世間的には模範的なこの人物の中にある、自己過信の心を打ち砕くための、ハンマーのような強烈なことばだったのです。この人自身が、自分の罪に気がつくこと、自分が善行に対して弱く、無力であることを悟るための荒療治とも言うべき、痛烈な一言でした。
 最後に、もう一度確認したいと思います。この若き役人に「ただひとつ欠けていたこと」とは何だったのでしょうか。
 それは、神の聖さを思い、自分の罪の酷さを知ること、自分が罪に対していかに無力で弱い存在であるかを悲しむことでした。しかし、この悲しみは神の恵みです。
 重病人が自分の病の重さを知って、初めて医者に頼ることが出来るように、私たちは自分の罪の酷さを悟ることで、初めてイエス・キリストに頼る信仰に進むことが出来るからです。むしろ、病人にとって悲惨なのは、病の重さを知らず、悟らず、健康だと思い込んで生活している状態でしょう。
 そして、イエス・キリストは、私たちが罪を悲しむままに放っては置かれません。「あなたが自分の罪を悲しむなら、そのうえで、そのままで、わたしについて来なさい。わたしを頼りなさい。」そう言って、罪に悩む者を優しく招いてくださるイエス様のみ声を、今日私たちも聞きたいと思うのです。今日の聖句です。

 ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師