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メッセージ
神学校の授業に「説教学」があります。説教について、様々な視点から学ぶのですが、その授業の中で紹介された説教のスタイルで、非常に難しそうであるけれどもいつか取り組んでみたいというものがありました。「一書説教」です。聖書は六十六巻が一つとなって出来ていますが、その六十六の巻から一つを選び説教する。例えば創世記であれば、五十章全部を。マタイの福音書であれば二十八章全部を扱い説教するというものです。
通常、礼拝での説教で扱うのは、聖書の中でも数節です。時には一節だけ選んで説教ということもあります。それから比べると、一書まるごと扱うというのは無謀とも暴挙とも感じるところ。しかし、細かく見てメッセージを汲み取ることが有益であれば、一つの書全体で、どのようなメッセージがあるのかを見ることは当然と言えます。ある一つの書が、全体としてどのような書であり、どのようなメッセージがあるのか知った上で、一章、二章と読み進めていく方が良いとも言えます。また一書説教であれば、六十六回行えば、一通り聖書を見ることが出来る。愛する四日市キリスト教会の皆さまと、聖書全体を味わうことをしてみたい。
このようなことを考えまして、私が説教を担当する際、(ウェルカム礼拝や教会歴に沿った日でなければ)創世記から順に一書説教に取り組みたいと思っています。果たしてやり通すことが出来るのか。お祈り頂けたらと思います。
また、一書説教をする際、皆さまにも取り組んで頂きたいことがあります。それは一書説教で扱った書を、実際に読むということです。今日は創世記ですので、是非、皆さまにも創世記を丸ごと読んで頂きたいと思うのです。礼拝後、教会でも。自宅に戻ってからでも。場所はともかく、一気に一つの書を読むことをお勧めします。一書説教が皆さまの聖書を読む助けになることも願いの一つです。
以上を前口上としまして、創世記に入りたいと思います。聖書の冒頭に置かれた書。全五十章の大著。大創世記です。
創世記1章1節
「初めに、神が天と地を創造した。」
文章の冒頭部分の重要性は文章論でしばしば強調されること。創世記の最初の言葉となれば、聖書全体の最初の言葉となり、一章一節の重要性はいくら強調しても過度とはならないでしょう。
「初めに、神が天と地を創造した。」として、私たちの世界の成り立ちを宣言します。「むかしむかし、あるところに」と始まるのではない。自分とは関係の無い、どこか遠くの話というのではなく、ここに記されるは私たちの世界の話。私たち自身の話なのだと宣言されるのです。
創造主なる神がいること。この世界は神の目的に沿って創造されたこと。私たちの存在意義は、この神様を前にして明確になること。善悪はこの神様が判断すること。短い言葉ですが、この言葉を信じて生きるのか、この言葉を無視して生きるのか。それによって、私たちの人生は大きく変わります。
皆さまの中にも、この言葉で人生が変わったという方、多くいらっしゃると思います。他の生物から進化した。私たちが生きているのは偶然による。そう教えられて漫然と生きてきたのが、創造主を知り、自分が生きていることがしっくりきた。自分がどこから来て、どこに向かうのかが分かった。これで落ち着いて生きていくことが出来るようになった。そのような証は、多く聞くところです。
「初めに、神が天と地を創造した。」この冒頭の言葉によって、創世記という書物、聖書という書物は、創造主と被造物の話、神と私たちの話であると宣言するのです。これ以降記されるのは、あなたと無関係の話ではない。あなたと神様との話なのだと言われ、身が引き締まるのです。聖書を「創造主と被造物」についての書物。神様と私のことが記されているとして受け止める時、聖書を読みたいと思うようになる。皆で聖書に親しみたいと思うのです。
「初めに、神が天と地を創造した。」この宣言によって開かれた聖書は、続いて地球がどのような経緯で造られたのか。いかに、人間にとって良いものとして造られたのか記されました。ところが、非常に良かった世界に大きな問題が起こる。人間の堕落です。
人の堕落。人間は何をなしたのかと言えば、次の神様の命令を守らなかったということ。
創世記2章16節〜17節
「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」
神様の命令は極々簡単なもので、一つの木の実を食べないというもの。それだけでした。ところが、人間はこれを守らなかった。その意味は、被造物が創造主を無視した。創造主から離れたということです。この結果、この世界に死という問題が入りこみます。
こうして、創世記の冒頭三章において、人間が堕落したところまで描かれ、これ以降は罪ある者の悲しい歴史の記録となります。最初の人アダムとエバ。その子、カインとアベル兄弟において、兄弟殺しが起こります。罪、死という問題が色濃く出てくる。
もともと神様は、人が増え広がることを願っていました。神のかたちを持つ者が増え広がり、この世界を正しく治めていく。それが神様の願いでした。ところが、堕落した人間が増え広がった結果は、悪の増大でした。
創世記6章5節
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」
人の悪が増大した。その結果、神様は具体的な裁きをもたらすことを決意し、実行に移します。大洪水の場面です。創造主は、ご自身の造りたもう世界を愛する。それと同時に、義なる神は、罪悪を厳しく裁く方であることが分かります。世界の歴史が記されてまだ間もない。創世記の十章にもいかない段階で世界は終わるのかというところ。
私たちは、不幸に出会う時、悲劇を見聞きする時、神様はなぜこのようなことが起こることを許されるのか。愛なる神がいるのだとしたら、何故このようなことが起こるのかと嘯きます。しかし、本当に考えるべきは反対のことでした。つまり、何故罪ある私が未だに生きていることが出来るのか。なぜ決定的な裁きが下されていないのか、だったと気付かされます。
それはそれとしまして、悪が増大する世界にあって、神に従うノアとその家族は、命じられた通りに箱舟を造り、大洪水より救い出されます。その結果、ノアとその家族から人間の歩みは再出発となります。現在、全世界の人口は約70億人と言われていますが、もとはノアの家族でした。聖書にはこのように記されました。
創世記9章19節
「この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」
大洪水以降、再度増え広がった人間が次に起こした問題は、バベルの塔の事件。神様は人間に対して、「生めよ、ふえよ。地を満たせ。」と言われたのに対して、人間はこのように言って巨大な塔を立て始めます。
創世記11章4節
「そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
ここにも創造主と被造物のテーマが見えます。巨大な塔を立てること自体が問題なのではなく、神様の思いに逆らうことが問題となるのでした。全地に満ちよと言われているのに、「全地に散らされるといけない」と言う人間。神はこのような人間に対して言葉を混乱させ、それぞれ言葉が通じないようにされた。結果として、人間は地の全面に広がることになります。こうして、全世界に様々な言語を話す人間がいる状態になる。今の世界の成り立ちがこのようなものであったと知ることになります。
ここまでが創世記十一章。出来事で概観すれば天地創造、人間の堕落、大洪水、バベルの塔。全五十章からすれば、五分の一ですが、一般的にはここまでが創世記の前半となります。
バベルの塔の事件以降、全世界に様々な言語を持つ者として増え広がった人間。これ以降、神様はアブラハムとその子孫たちを選び、特別な関係を持つことにします。人間はどのような存在なのか。どのように生きるべきなのか。本来あるべき創造主と被造物の関係はどのようなものか。おもに、神の民として選ばれたイスラエル民族を通して示される。神の民は、啓示の器でした。
そのため創世記の後半、十二章以降は、神の民の形成がテーマとなります。人物で言えば、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフに主に焦点が当てられ、イスラエル民族が七十人となっているところで創世記は幕を閉じます。
まずはアブラハムから。主に創世記十二章から二十五章の中盤までがアブラハムの記事となります。アブラハムと聞いて、皆さまは何を思い出すでしょうか。イスラエル民族の祖。偉大な信仰者。神の友。確かに信仰者として素晴らしい決断、行動が多く記されています。高齢にして神の約束を信じ故郷を離れること。親類が捕虜にされた時は、戦士として勇敢に戦う。ロトとの土地の選択では、年下に譲る度量を見せ、ソドムとゴモラの町に対するとりなしの祈り。そして、息子イサクをささげよとの命に応じる神信仰。どれも一等星のような信仰者の姿です。
ところが一気に読み通してみますと、優れた信仰者の姿の合間に、驚くほど弱い姿も出てきます。子を得たいがために、奴隷のハガルと交わる。その結果の家庭内不和を治めることも出来ず。美しい妻サラのため自分が殺され妻が奪われるのではないかと思うと、妻を妹と言い難を逃れようとすることが二回。特に二回目は、翌年サラが男の子を生むと約束が与えられている状態でのこと。強い決意、強い信仰の直後に、凄まじい不信仰。あのアブラハムをして、上がり下がり、浮き沈みの信仰生活と見えます。
続くイサクは分量としてはやや少なく、創世記二十五章から少しです。イサクにも信仰者として多くの美点がありました。子が与えられるように祈った期間は二十年。父アブラハムがしたように、妻が子を産まないので奴隷より子を得ようとすることもなく、祈り通した人。井戸のことでその地の住民と争いが起こると、平和裏に解決する。イサクは祈りの人、平和の人でした。
ところが、生まれた双子に対して特別に兄を愛することをします。偏愛の問題。それも、双子が生まれる前に、「兄が弟に仕える」と神様から言われていたにも関わらず、なんとか兄をたてたいとするイサク。この偏愛の問題は家族をばらばらにし、しかもその子ヤコブの家も偏愛の課題を抱えることになり、大きな影響を残します。アブラハムにしろ、イサクにしろ、課題を抱える人間でした。
イサクの次はヤコブ。主に創世記二十六章から三十六章までとなります。アブラハム、イサクからすると、ヤコブはより人間味が強い人物。母親の進言により、父と兄を騙す。結果、家族のもとで暮らすことが出来なくなり、叔父のもとへ。そこで自分も騙され、叔父の元で奴隷のような生活をしながら、妻を迎えます。しかし、一夫多妻の家族となり、家族間の問題も噴出。やっとの思いで故郷に帰る際には、かつて騙した兄を前に、震え慄く。
しかし、ヤコブの人生におけるクライマックスは、徹底的に弱くさせられたその時に迎えます。天の御使いと夜通しの格闘をし、「あなたは神と戦い、人と戦って勝った。」との言葉とともに、イスラエルと命名される場面。ヤコブの姿は勝利者とは思えない。それが神に勝ったと言われ、人と戦っていたわけではないのに、人に勝ったと言われる。どこか謎めいているのと同時に、全く無力になりながら、力を尽くして祈り抜く先に、信仰者の勝利があるという印象的な場面です。
ヤコブのことでもう一つ言えるのは、クライマックスと言える場面を経て、イスラエルと名を頂いた後、苦しみ、不幸、絶望の連続となります。信仰者として成長した後、大きな試練をくぐり抜けた後、幸せな歩みがあるかと思いきや、ヨセフとの再会まで不幸の連続となる。「信仰を持てば万事うまくいく」わけではないことを、如実に表した人生です。
創世記の最後にくる中心人物はヨセフ。三十七章から五十章まで、主にヨセフのことが記されます。その人生は実にドラマティック。父の偏愛を受け育ったヨセフは兄弟からの妬みを買い、奴隷として売られます。さらには冤罪により囚人にまでなる。ところが囚人になったことに意味があり、そこから大臣となる。大国エジプトにおいて、奴隷、囚人から大臣へ。そして、ヨセフが大臣になったことで、アブラハムの子孫、神の民として選ばれた者たちが飢饉から助かることになります。ヨセフの勤勉さ、誠実さは非常に優れていたと思いますが、それ以上に神様の導き、摂理が確認出来るところ。
起こった出来事一つ一つに意味があったことを知ったヨセフが、兄弟に向かって言った言葉が記されています。
創世記50章20節
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」
この言葉によって、人間の犯す罪が正当化されるわけではありません。しかし、人の罪、悪に少しも妨げられない神様の働き、いやむしろ、それらを良いことの計らいとされる神様の御業を確認出来ます。この言葉は、ヨセフ自身が自分の人生を振り返り確信したことを告白した言葉です。しかし、創世記を一つの書として見た時、これはまさに創世記のまとめとして記されている言葉に読めます。
何度も神に背き、罪を犯す人間。それは一人の人生の中にも見出せ、また創世記全体を通しても言えること。しかし、それらを越えて、人を愛し、救おうとされる神様の計画、御業が前進してきたのだと確認出来るのです。
以上、大創世記を概観してきました。全体を見て確認したことをお分かちしたいと思います。
創世記は初めから、ここに記すのは創造主と被造物の話だと宣言していました。この宣言を真正面に受け聖書を読む時に、人間がいかに罪深く、神様に背く存在なのか。それにも関わらず、いかに神様が人を愛するのか。繰り返し、繰り返し教えられます。人間の歴史は神に背き、それにも関わらず神に愛されるというものでした。特にアブラハム以降、神の民に対する神様の取り計らいは、微に入り細を穿つものとして読めます。創世記に記されているこの神様が、私たちの神様。何度も背く人間を愛し、導く方。日々の生活の中で、関わりを持って下さる方。罪や悪によっても妨げられることなく、その御心を成し遂げられる方。この神様が私の神となって下さったので、今日まで信仰者として生きて来られたのだと確認出来ます。この神を知る者、信じる者となれたこと。この神の民であることを、本当に嬉しく思います。
最後に、新約聖書に出てくる麗しの教会、ベレヤ教会の姿を見て、終わりにしたいと思います。今日の聖句です。
使徒の働き17章11節
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」
この教会の人たちは、パウロが説明したことが、本当にその通りか聖書を確認した人たち。聖書研究のベレヤ教会。愛する皆様。どうぞ、このベレヤ教会に続く者となって下さい。つまり、今日私がした説明が、本当にその通りなのかどうか、ご自身で創世記を確認して下さい。私たち皆で、聖書を読む者でありたいと思います。
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