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メッセージ
牧師が集まると、よく話すテーマがあります。それは説教について。どのようなスタイルか、テーマは何か、連続して読み進めている書があるならば何を選んでいるのか、などなど。どのような説教をするのか、牧師の個性が現れますので、牧師同士では盛り上がる話題の一つです。
先日、ある先輩牧師と説教のことで話した時のこと。私が「一書説教」に取り組み始め、創世記で一度やったこと。今後も続けていきたいと言ったところ、「凄いねぇ」「大胆だねぇ」「興味深いねぇ」「チャレンジだねぇ」と、言われました。これはつまり「無謀」とか「暴挙」という感想を、少しオブラートに包んだものだと思うのですが、そう言われて果たしてやり通せるのかと不安に感じた次第です。とはいえ、一つの書全体でどのようなメッセージがあるのか掴もうとする姿勢は聖書を読む上で重要なこと。全体のことが分からずに闇雲に読み進めるより、どのような書なのか知った上で、一章、二章と読み進めていく方がより良いことなどを考えると、一書説教の意義を十分にありますので、なんとかやり通したいと感じます。お祈り頂けたらと思います。
また、前回も申し上げたことですが、一書説教をする際、皆さまにも取り組んで頂きたいことがあります。それは一書説教で扱った書を、実際に読むということです。今日は出エジプト記ですので、是非、皆さまにも出エジプト記を読んで頂きたいと思うのです。一気に一つの書を読むことをお勧めします。一書説教が皆さまの聖書を読む助けになることも願いの一つです。
前置きは以上としまして出エジプト記に入りたいと思います。旧約聖書第二の巻。エジプト脱出の記録です。
出エジプト記1章1節〜5節
「さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。」
出エジプト記の冒頭は創世記の終わりの復習にあたります。
非常に良く造られた世界。その世界が悲惨な状態になったのは人間が罪を犯した結果でした。ひどい状態になった世界を良くするために神様は何をしたのか。神様が、人間一人一人に話しかけ、罪を糾弾することも出来たと思います。しかし、実際に神様がとった基本的な方針は、神の民を通して、神から離れた人間にどのように生きるべきか教える。全人類の中から神の民を選び出し、神の民が人間のあるべき生き方、神様との関係を指し示す働きをするというものでした。
この神の民として選ばれたのがアブラハムとその子孫。創世記に主に出てきた人物名で言えば、アブラハム、イサク、ヤコブとその子たちです。紆余曲折ありながら、当時の強国エジプトで大臣になったヨセフのもとに、このヤコブ一家が集まり、神の民総勢七十名がエジプトにいた。これが創世記の終わりであり、出エジプト記の冒頭にあることです。冒頭で総勢七十名がエジプトにいたことを確認した後、そこから時代は一気に下ります。
出エジプト記1章6節〜7節
「そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。」
ヨセフが大臣であった時から、約四百年後。七十名であったヤコブ一家がエジプトでおびただしく増え、イスラエル民族として形作られる。エジプトの王朝も変わり、新たな支配者はイスラエル民族を恐れるようになり、奴隷として過酷な労働を強いるようになります。このエジプトで奴隷状態であるイスラエルの民が、エジプトから脱出し、神様が与えると約束していた地に向かい始めるというのが、出エジプト記の前半。簡単に概観すると、二章から四章までが「モーセ、指導者へ」。五章から十一章までが「パロとの対決」。十二章から十九章までが「過越と出エジプト開始」となります。
まずはイスラエル民族を束ねて、出エジプトを果たす指導者となるモーセの登場です。モーセの生涯は百二十年。丁度三分割出来まして、四十年は王子として育てられ、四十年は砂漠での生活に慣れ、最後の四十年で指導者として活躍する人物。人生の三分の二が準備期間であったというのは、励まされるところ。この準備期間、八十歳になり、指導者として立てられるまでのモーセが記されているのが、二章から四章となります。
イスラエル民族を迫害するために、男の子が生まれた場合は、ナイル川に流すよう、エジプトの王パロから命令が出されます。結果、赤子のモーセは、パピルスのかごに入れられてナイル川に流されますが、丁度、パロの娘が水浴びに来ており、赤子を養子とします。死ぬはずのところが、王女の息子として育てられることに。エジプトで王子として育てられるというのは、当時の最高の学問を身につけたという意味。このことの背後に神様の導きを感じますし、指導者となるための備えであったと読むことが出来ます。
モーセという名は、引き出すという意味。水から引き出されたので、「引き出しちゃん」と名付けられたわけです。この「引き出しちゃん」が、やがてイスラエルをエジプトから引き出す人物となる。面白いところです。
王子として育ち大人になったモーセですが、奴隷として扱われている同胞を見た時に、怒りに任せて、エジプト人を殺してしまう事件を起こします。結果、エジプトにいることが出来なくなり、王子から一転して荒野での羊飼い生活。これが四十年。しかし、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、神様が与えると約束した土地まで荒野で生活をすることを考えると、この四十年も指導者となるための備えであったと読むことが出来ます。
こうして八十年かけて整えられたモーセですが、モーセ自身は自分が指導者として相応しいとは考えません。話すことが苦手だと言い、神様から指導者になるよう求められても何度も渋ります。及び腰のモーセに対して、神様が説得するかのような場面は興味深いところ。最終的に、モーセの兄、アロンが助っ人として就くことになり、モーセとアロンがエジプトの王パロのもとに向かいます。
パロとの対決場面は、五章から十一章まで。イスラエル人がエジプトを出て行くことを良しとしないパロに対して、モーセを通して下される神様の裁きがあります。「十の災い」と言われるもの。パロは、災いが下ると、イスラエル人がエジプトを去ることを許可するが、災いがおさまると許可を取り消す。これを何度も繰り返します。このパロのかたくなさには、神様の意図があり、聖書にはこのように書かれていました。
出エジプト記7章3節〜5節
「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」
このように出エジプトというのは、ただ奴隷であったエジプトから脱出する話ではなく、神様の力強さ、素晴らしさが現わされる出来事でもありました。
ところで十の災い。具体的にどのようなものか、覚えていますでしょうか。「水が血になる」「蛙」「ぶよ」「虻」「疫病」「腫物」「雹」「蝗」「暗闇」「初子の死」です。どれも過酷な災いでしたが、特に十番目の災い、「初子の死」は悲惨なものとなります。それまでの災いは、災いが過ぎればそれで助かるというものが、初子の死はその時だけの問題ではなく、この災いをもって、パロはついにイスラエル人のエジプト脱出を認めることになります。
また、この初子の死という災いは、「過越」という出来事として聖書の中で強調されていきます。この災いによって、エジプトにいる人間の子も、家畜の子も、初子は全て死にますが、助かる道が一つ用意されました。それは、小羊を殺し、その血を門柱と鴨居に塗る時、その家に関しては、この災いが過越というもの。裁きが起こること。その裁きを免れる道を神様が用意して下さったことを信じた者は、小羊の血を門柱と鴨居に塗ることになります。
この出来事には重要なメッセージが込められていました。神様の裁きが下る時。その裁きを免れるためには、身代わりが必要であるということ。その身代わりは、神様が指定したものであること。
このメッセージは、私たちとキリストとの関係でも同様です。私たちが罪の裁きを免れるためには、身代わりが必要であり、その身代わりとなり得るのはイエス・キリストのみでした。新約聖書でイエス・キリストを「神の子羊」と表現しているのは、この過越の出来事が、キリストの十字架と復活を指し示すものだからです。
それはそれとしまして、十の災いを通して、イスラエル人はエジプトを出ることが認められ、出エジプトを開始します。ところが移動開始して間もなく、パロはイスラエル人を手放すことをもったいないとし、軍勢を整えて後を追いかける。前に海、後ろにエジプトの軍勢。絶体絶命と思える場面で、イスラエル人は海が割れてそこを通過していく奇跡を体験します。
出エジプト記14章21節〜22節
「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。」
壮観、雄大、大迫力、大スペクタクルな場面。しかも、イスラエル人を追いかけてきたエジプトの軍勢は、陸に上がる前に海が元通りになり、全滅となる。イスラエル人は、十の災いと過越、海が割れる奇跡を通して、明確に神様によって助けられたことを経験します。
ところが、これ以降、約束の地に入るまでイスラエル人は事あるごとに、不平不満をぶちまけます。水がない、パンがない、肉がないと。これだけの神様の助けを経験しても、神様を信頼することが出来ない。イスラエル人のつぶやきは、出エジプト記だけでなく、続く民数記でも度々出てくるもの。おそらく、皆さまが読み進めると、イスラエル人の不従順さにうんざりすると思います。しかし考えてみますと、私たち自身、不信仰であり、不従順。それにも関わらず、今日までキリスト者の歩みが出来ているのは、イスラエルを導いた神様が、私たちをも導いているからと気付くことにもなります。
こうして、エジプト脱出を果たし、約束の地に向かって旅をスタートさせるのが出エジプト記の前半になります。
さて出エジプト記の後半は二十章から。ここで有名な十戒と、細かな規定が付与されます。イスラエル人は神の民として召された民族。神の民の役割は、人間のあるべき生き方、神様との関係を指し示す働きをすることでした。その人間のあるべき生き方とはどのようなものか、ここに記されていきます。
ところで非常に大切だと思うのは、十戒や細かな規定が、この二十章になって出てきたことです。エジプトで奴隷だった時に付与されたものではなかった。つまり、このような生き方が出来たら、エジプトから助け出してあげますよ、神の民としてあげますよ、ではなかった。エジプトから助け出し、不平不満にも応え、その上で、神の民としての生き方を伝える神様。ここも私たちに通じます。聖書にある生き方を出来たら救います、ではない。私たちは救われた者として、聖書にある生き方をしていくのです。
十戒は出エジプト記二十章の前半に記されます。原理原則、どの時代、どの地域、誰にでも当てはまる、より普遍的な内容として十戒が与えられ、より具体的、より細かな規定が二十章の後半から二十四章まで続きます。
二十五章からは読み進めるのが難しいところ。聖書を通読する際に、最初の難関となる箇所と思われます。エジプト脱出を果たしたイスラエルの民に対して、礼拝所の作り方を定めた命令が出てきます。契約の箱、贖いのふた、机、燭台、幕、板、祭壇、香、祭司の装束や任職など。細かな規定が三十一章まで続きます。
この幕屋がどのような意味があるのか把握しておくことは、これから聖書を読み通す上で非常に大切なこと。神様と私たちの関係を指し示すものですが、とはいえ文字だけで実際のものをイメージすることは難しく、聖書辞典や註解書と合わせて読むこともお勧めです。
二十章から三十一章まで、神の民が守り行うべき命令が語られます。この命令はまずモーセに与えられ、モーセからイスラエルの民に語られる予定でした。ところが、モーセが神様から命令を頂いている間、イスラエルの民が問題を起こしていました。
出エジプト記32章1節
「民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。『さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』」
この結果、モーセの兄アロンが、金の子牛を作り、これがエジプトから私たちを連れ出した神だと言って礼拝をはじめます。これが神の民の姿。目を覆いたくなります。この時、イスラエルの民は、別の神様を信じようとしたわけではありません。自分たちをエジプトから連れ出した聖書の神を、神としていました。ところが、天地の作り主を金の子牛で表現した。偶像による礼拝を望んだのです。これはまさに十戒の第二戒で禁じられていたことでした。人間がいかに目に見えるものに弱いのか。目に見えないということが、不安に感じるのかという場面。
このイスラエルの民に対して、モーセが執り成しの祈りをします。これがまた大変印象深い言葉となります。
出エジプト記32章32節
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
「あなたの書物から、私の名を消し去って下さい。」とは、命がけの執り成し、それも永遠のいのちをかけての執り成しの祈りでした。私は口下手で、パロの前に立ちたくないと言っていた人物とは思えない、必死に神に祈る姿が印象的です。同胞のためにこれほどの思いを持つ人物だったため、指導者としてモーセが選ばれていたのかと納得のいくところ。この一連の出来事が、三十二章から三十四章まで続きます。
出エジプト記の最後、三十五章から四十章は先に定められた礼拝所の作り方に従って、礼拝所が作られたことが記されます。ここまで、イスラエルの民は不甲斐無い姿をさらしてきましたが、礼拝所を作る場面では模範的、見習いたい信仰者の姿を見せます。礼拝所を作るのに必要な材料と奉仕を進んで行う者が、必要以上にいた。あり余る材料、あり余る奉仕であったといいます。
こうして、喜んでささげられた物、奉仕によって作られた礼拝所。それも、神様の定めた通りに作られた礼拝所が完成した時に、感動的なことが起こります。
出エジプト記40章33節〜34節
「また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」
この礼拝所は人間が作ったもの、人間の業です。しかし、神様の御心に沿ってそれがなされる時、神様が栄光を現わして下さる。人間のなす働きであっても、神様の願われる通りにする時、神様の素晴らしさが現わされる。感動的、印象的な場面です。
以上、簡単にですが出エジプト記を確認してきました。エジプトで奴隷だった神の民が、助け出され、本来あるべき生き方へと導かれていく。十戒が与えられ、礼拝所が作られた。この礼拝所でどのように礼拝をしていくのかということは、続くレビ記になります。
この出エジプト記全体を通してテーマを絞るとしたら何になるでしょうか。大変悩むところですが、私は次のところが、出エジプト記全体のテーマとして挙げることが出来ると思いました。
出エジプト記19章4節〜6節
「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
イスラエルの民がエジプトから助け出された。それは奴隷状態で可哀そうだったからというだけではなかった。神の民として、使命を果たせるために、助け出されたのです。一時的に緊急避難として行ったはずのエジプトでの生活にどっぷりと浸かっていた民を、苦難をきっかけに、約束の地へ連れ戻し、神の民として使命を果たせるようにする。単なる奴隷からの解放ではなく、神の民として使命を与えること。これが出エジプトという出来事にある神様の目的と読めます。
この出エジプト記の話は、今より三千年以上前の話。しかし、私たちと関係の強い話です。何しろ、神の民というのはキリストの到来以降、キリストを信じる者たち、クリスチャンのことだというのが聖書の主張だからです。
つまり、私たちが罪の奴隷から救われ、助け出されたのには神様の目的があります。それは、私たちに神の民として使命を与えること。人間のあるべき生き方、神様との関係を指し示す働きを託すことです。皆様、このような使命が自分に与えられていると感じて生きてきたでしょうか。自分が神の民、神の宝、祭司の王国、聖なる国民であるという自覚はあるでしょうか。
自分自身の姿、自分の信仰生活を見ると、自身を持って神様の民として使命を果たしているとは言えないところ。しかし出エジプト記では、従順と不従順を繰り返すも、神様に導かれ、神の民として整えられていくイスラエルの姿を確認出来ます。この神様が私たちの神様。私も神の民として整えられていくことを願い、皆で信仰者の歩みをしていきたいと思います。
最後に今日の聖句を皆で読みたいと思います。
ペテロの手紙第一2章9節
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
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