2012年7月29日
礼拝メッセージ


「一書説教 レビ記」
−聖なる者と−
  聖書
レビ記19章2節

19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。


  メッセージ
 聖書を読む上で大切なことの一つは、文脈に沿って読むこと。全体を見据えた体系的な読み方をすること。言葉を換えると、つまみ食いや飛ばし読みをしない。行き当たりばったりのような読み方をしないことです。
 神学校の授業で聞いた話。聖書のつまみ食い、行き当たりばったりのような読み方が、良くないことを教える「例え」を紹介します。適当に聖書を開け読んだ場合、例えば次の箇所が出てきたとします。

 マタイ27章5節
「それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」

 更に続けて適当に開いた箇所が、次のものだったとします。

 ルカ10章37節
「あなたも行って同じようにしなさい。」

 イスカリオテのユダが、キリストを裏切ったことを後悔し、自ら首をくくった場面と、良きサマリヤ人のたとえの後、このサマリヤ人と同じようにしなさいと言われたイエス様のことば。少しきつい例ですが、適当に開いた聖書の箇所をつなげて読むとしたら、ひどいメッセージを読み込むことも出来てしまう。文脈を抜きに読むことが、いかに良くないかという話です。
 これに対して、文脈に沿って読む。全体を見据えた体系的な読み方というのは、一つの書を最初から最後まで読み通すこと。細かく見ていくのは、その書がどのような書か理解してからです。
 私たち皆で聖書に対して、全体を見据えた、体系的な読み方をしていきたい。自分の好きな書や、好きな箇所だけでなく、聖書全体を読み進めていきたいと考えまして、今は一書説教に取り組んでいるところです。
 説教の始めに、これまでお勧めしてきたことと同様ですが、皆さまにお勧めがあります。一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書を読んで来て下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
 旧約聖書第三の巻。一書説教を始めてまだ三回目ですが、今日は一書説教を続けていく上で最大の難関と思われます、レビ記に取り組みたいと思います。
 いかがでしょうか。聖書の中でも格別にレビ記が好きという方はいらっしゃるでしょうか。一般的に多くの人がレビ記を難解だと感じていますが、いくつか理由があると思います。
 一つはストーリー性が殆どないこと。誰が何をした、このような出来事が起こったということは殆どなく、儀式やきよさに関する規定が延々と記されます。これは読みにくい。
 また、儀式の行い方や、様々な規定にどのような意味があるのか。なぜ、それを守らなければならないのか。丁寧に記されていません。我々読者の立場からすると、不親切に感じるところ。しかも、レビ記に記される儀式や規定は、キリストの到来以降、そのままは行わなくて良いと理解されます。そのため、今の私たちにどのような意味があるのか、理解することが難しいとも言えます。
 さらには概観しづらいという特徴もあります。例えば、全焼のいけにえについて、レビ記の一章と六章に出てきます。ある事柄について、一つのところにまとめて書かれているわけではないということも、読みづらさの一つの理由です。
 難解と評されるレビ記。しかし、それでは読まないと結論づけるわけにはいきません。そこで、レビ記を概観する前に、レビ記を読む手助けとなる考え方を確認したいと思います。
 レビ記を読むにあたって覚えておきたいこと。その一つは、この書がどのような目的で記されたのか、意識しながら読むこと。それでは、レビ記はどのような目的で記された書でしょうか。
 今、私たちは旧約聖書三番目の書をレビ記と呼んでいますが、もともとは「そして呼び寄せ」という書名でした。これは、レビ記の冒頭にある聖句から付けられた名前です。

 レビ記1章1節
主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。

 この「(そして)主はモーセを呼び寄せ」という言葉は、この書が前の出エジプト記の続きであることを示しています。前回確認したように、出エジプト記は、エジプトで奴隷だった神の民が、助け出され、人間の本来あるべき生き方へと導かれていくというもの。この、人間の本来あるべき生き方については、出エジプト記の後半にも記されていましたが、レビ記ではより詳しく記されることになります。イスラエルの民が神の民として、聖なる国民として、どのように生活すれば良いのか、イスラエルの民を指導するために記されたのがレビ記です。
 このことを意識してレビ記を読むと、神様が聖いとはどのようなことなのか。聖い神様の前で、私たちはどのような存在なのか確認することになります。もう少し一般的な言い方をすれば、神様がどのような方か、神様の御性質が示された書として読むことが出来ると言えます。
 私たちの神様は変わらないお方です。このレビ記が記された当時と全く同じ聖いお方であり、当時と全く同じく罪に対しては厳しいお方であり、当時と全く同じように定められた贖いの方法を信じる者には、あわれみ深いお方。神様を知ることは、私たちが人生をかけて取り組むべきことですが、その一つの方法としてレビ記を読むことがあると覚えておきたいと思います。
 難解なレビ記を読む際、覚えておきたいこと。その二つ目は、当時の規定に含まれた、普遍的な真理、一般的な教えを見出すことです。レビ記で定められた様々な教えは、キリストの到来以降、そのまま私たちが守る必要がなくなったものが多くありますが、普遍的な真理、一般的な教えを見出すことが出来ます。
 レビ記の冒頭は、礼拝所が完成し、神様がモーセを呼び寄せられたところから始まります。礼拝所が完成し、レビ記の前半で語られるのは礼拝の仕方です。例えば、私たちが礼拝に臨む姿勢とはどのようなものかを考えながら、レビ記を読むというのはどうでしょうか。
 当時の礼拝の中心はいけにえでしたが、そのいけにえは「家畜」で傷の無いものでなければならないとされました。その辺りで捕まえた獣をささげることは許されません。自分の財産であり、大切に育てたものでなければ、ささげることが許されませんでした。いけにえによっては、神様にささげる部分と、自分が食する部分とに分けるものがありますが、その場合、最上とされる脂肪の部分は神様にささげる部分として定められていました。自分が当時のイスラエル人の一人だと想像します。レビ記に記された通りに礼拝をささげる、いけにえをささげるとしたら、家畜の中から細心の注意を払いいけにえを選び出し、礼拝所に行ったと思います。礼拝をささげて自分がどう思うかよりも、自分のいけにえは受け入れてもらえるだろうか、神様は私のいけにえを喜んで下さるだろうかと考えたと思います。
 このような自分の中にある最上のものをささげる。私が中心の礼拝ではなく、神様が中心の礼拝をささげようと考えているだろうかと問われるところ。一つの例ですが、このようにあるべき礼拝の姿、私たちの礼拝の姿勢を、レビ記から考えることも出来ると思います。
 更にもう一つ。難解なレビ記を読むに当たって、「予型」という考え方を確認しておきたいと思います。予めの型と書いて、「予型」という字ですが、皆さま、聞いたことありますでしょうか。
 予型は、神様が私たちにメッセージを伝える方法の一つで、預言の一種です。旧約聖書に出てくる、出来事や事物、人物や制度で、イエス様がどのようなお方か、どのようなお働きをされるのか指し示すものを、予型と呼びます。
 具体的な一つの例は、前回確認した出エジプト記に出てきた過越の小羊です。神様が下される裁きを避けるために、神様が用意して下さったのが過越の小羊。その血を門柱と鴨居に塗った家は裁きが起こらなかった。これが、イエス様の働きを示すもの、予型の一つです。このようにキリストを指し示す予型が、レビ記には多くあります。レビ記は予型の宝庫。そのため、レビ記を通してイエス様がどのようなお方なのか、その働きがどのようなものか、より知ることが出来ます。
 以上、いくつかレビ記を読むにあたって覚えておきたいことを確認しました。このようなことを意識して、レビ記を読んで頂けたらと思います。
 最初に記されるのは、供え物に関する命令。一章から七章になります。備え物には種類があり、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえの五種類。それぞれに意味があり、イエス様の働きを指し示すもの。また私たちのあるべき礼拝への姿勢を教えてくれるものとなります。
 聖なる神様の前で、私たち自身聖なる者となる。そのために必要なこととして、何度も教えられるのがいけにえのこと。何故、私たち自身が聖なる者となるために、いけにえが必要なのか。最もよくまとめられているのは、新約聖書のヘブル書にある言葉だと思います。

 ヘブル9章22節
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 いけにえ中心の礼拝の場合、自分の身代わりにいけにえが死ななければならない程、自分は罪に汚れていることを自覚することになります。私たちが聖なる者となるのは、罪の赦しを受ける必要があることを、何度も教えられることになります。
 いけにえについての規定が終わると、礼拝を取り仕切る祭司職についての命令となります。八章から十章まで。八章から印象的なのは、「主がモーセに命じられた通りにした。」という言葉が何度も出てくることです。レビ記には、儀式を行う手順は記されていますが、何故それを行わないといけないのか、その理由が丁寧には記されていません。不親切に感じる程。しかし、八章に来て「命じられた通りにした。」と何度も繰り返されることによって、最も大事なことが示されているように思います。つまり、自分が納得するまで神様に従わない、神様との交わりを否定するのではなく、神様が命じられた通りにすることの大切さです。事実、十章には、命じられた通りにしなかった場合の悲劇が記録されています。
 レビ記の中盤は、汚れときよさに関する教え。十一章から二十二章です。もう少し細かく見ますと、食事、出産、病気(ツァラアト/らい病)、性に関する漏出、習慣やしきたり、服装、道徳、倫理的な事柄、贖罪の日の規定、などが記されます。
 生活の細部に渡るところまで、汚れについて教えられます。神の民として、聖なる者であるためには、これらの定めに準じて、汚れから遠ざかり、汚れてしまった場合にはきよめを回復する必要がありました。この定めに従って、きよさを保つことは、相当大変なことだと思います。
 実際に読んで頂きたいと思いますが、なぜ、これが汚れなのか。よく分からない、理解出来ないと感じる部分が多々あると思います。内容によっては、衛生的な教育のためではないかとか、周辺諸国の異教文化と区別を持つためではないかと考えられているものもあります。
 しかし、全般的に言えることは、この教えに従って自分が聖なる者として生きるためには、生活のあらゆる分野で、神様を意識する必要があること。礼拝の時だけ、神様を意識し、自分は聖なる者であると自覚するのではなく、一週間のあらゆるところで、聖なる者として生きる訓練のために与えられた規定と言えます。
 後半は祭りに関する規定、二十三章から二十四章と、主に土地に関する事柄、二十五章から最後となります。
 先に定められていた、毎日の事柄だけでなく、一年に一回の祭りのこと。あるいは土地について定められているヨベルの年は、五十年に一回のこと。このような長い期間に関わる事柄も、聖なる者としてどのように生きるべきなのか定められます。
 祭りに関することも、土地に関することも、この律法が与えられてすぐには意味のないものもありました。何しろ、この時のイスラエル人は、エジプト脱出して間もない段階。土地も所有していなく、収穫もありません。しかし、聖なる者としてどのように生きるべきなのか。これからのことも定められていました。
 このようなレビ記全体を通してテーマを絞るとしたら、どこになるでしょうか。私は次の箇所を選びました。

 レビ記19章2節
イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

 神様が聖であるので、神の民として選ばれ、贖われた者も聖なる者でなければならない。この主張は同じ言葉で何度かレビ記に出てくるものです。そして、レビ記の内容は、神の民が聖なる者として生きるとは具体的にどのようなものか、非常に細かな規定となっています。
 なぜ、イスラエルの民は、このような細かな規定をもって、聖なる者となるよう求められたのでしょうか。それは、これまで創世記、出エジプト記で確認してきたこと。神の民として、人間のあるべき生き方を、神を知らない民に示すためです。
 神様の願われるように礼拝をささげ、生活のあらゆる場面できよいことを心掛ける。生活全てを通して、神様に従う。これが聖なる者となることです。
 神などいない。自分の好きなように生きる。そのような人たちの中に、聖なる者がいた場合、大きなインパクト、大きな影響力を与えることになると思います。神様が、神の民に願われているのは、まさにこのこと。神を知らない民に、聖なる者として生きることを通して、神様の素晴らしさを現わすことでした。
 今や私たちキリストを信じる者が神の民。聖書は確かに、私たちにも聖なる者であることを求めていました。今日の聖句を皆で読みたいと思います。

 第二コリント7章1節
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

 今の私たちが聖さを全うするというのは、レビ記にある生き方をそのまま送ることではありません。今の私たちが聖なる者として生きるというのは、キリストを信じる信仰を持ち、人生のいたるところで、最も聖書的な判断をし、行動をしていくことです。
 私たちはキリストを信じ、永遠のいのち、神様に従うことを喜ぶいのちを頂きました。最も聖書的な判断が出来るように、聖霊なる神様も与えられ、自分で読める聖書も手元にある。自分一人で聖なる者となるよう取り組むのではなく、仲間とともに取り組むことが出来るよう教会があります。こうして、神の民として整えられている私たち。
 神様に、聖なる者となるための備えをここまでして頂いて、その意味も理解しながら、取り組まないというわけにはいきません。自分の人生を振り返り、罪にまみれている、汚れていると思うところがあれば、悔い改めたいと思います。神様のことを考えない、何が聖書的か判断しない。そのような時間や場所があるならば、悔い改めたいと思います。私たちの生活の全てで、人生のいたるところで、神様の喜ばれる生き方をなしていく。聖なる者として生きていきたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師