2012年7月8日
礼拝メッセージ


「受けるよりも与えるほうが幸い」
  聖書
使徒の働き20章34,35節

20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。

20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


  メッセージ
 今お読みした聖書の箇所は、使徒パウロが愛するエペソ教会の兄弟姉妹と別れる際口にしたことば、自身の生涯を振り返ってなした告白ともなっています。
 当時教会の働き人といえば、教師、長老監督等、特定の教会に仕える人々がいました。他方、パウロのように、福音が未だ届いていない町に出かけて行き、そこで伝道し、教会の土台を形成。すると、また別の地方に出かけるという宣教師もいたのです。
 また、宣教師にも、教会の支援を受けて活動する者もいれば、自分の手で働いて生活を支えつつ、伝道の働きをなす「テントメーカーミッショナリー」と呼ばれる者もいました。「テントメーカーミッショナリー」とは自活宣教師という意味ですが、もともとパウロがテント作りの仕事をしながら伝道したことに由来します。
 残された惜別の辞を一読して、私たちの心に残るのは、イエス・キリストの教えとされる「受けるよりも与えるほうが幸いです。」ということばでした。
 これは、パウロが神と教会から多くのものを受けてきた幸いを覚えながらも、私はそれにまさる、与える喜びを味わうことが出来たという、感謝の告白でしょう。と同時に、エペソの兄弟姉妹よ、あなたがたもその様な生き方をし、与える幸いを経験することが出来たらという勧めとも思われます。
 さて、今私たちは礼拝堂をもち、常に礼拝をささげることができます。自由に聖書を購入し、これを読む事もできます。60年以上この地に立てられた四日市キリスト教会では多くの兄弟姉妹が洗礼を受け、ともに教会生活を送ってきました。
 しかし、今は当たり前と思われるこれら一切が、150年前の日本にはなかったのです。教会なく、日本語の聖書なく、江戸幕府による禁令のためキリスト教信仰の自由なく、福音を伝える宣教師も存在しませんでした。
 そのような状況のもと、一握りの宣教師たちがアメリカ、ヨーロッパから来日。苦闘しながら日本宣教の土台を築いてくださいました。それら宣教師のひとりが、アメリカ長老教会から派遣されたヘボン。その生涯は、まさにパウロの如く、自分が神と教会から与えられたものを日本人のために与え、ささげつくしたものなのです。
 今日は、ヘボンの生涯を辿りつつ、私たちが宣教師の働きにより、いかに多くの恵みを受けているかを考えてみたいと思います。
 *これがヘボンさんです。*これは、奥さんのクララさんと一緒の写真です。金婚式の時の写真と言われているものです。
 *これは、アメリカの映画スターだったキャサリン・ヘップバーンという女優さんです。数あるスターのうちでも、一人でアカデミー賞を四度も受賞したのはキャサリン・ヘップバーンひとりだそうです。古い世代の方は「慕情」という映画でご存知かもしれません。
 実は、ヘボンの正式な名は、ジェームズ・カーチス・ヘップバーン。ヘボンは自分を「ヘッバーン」と言っていたのですが、日本人にはそう聞こえず、「ヘボンさん、ヘボンさん」と言われている内に、本人もそれで良いとして、自らヘボンと名乗り、「平文」という日本名まで作ってしまいました。女優のキャサリン・ヘップバーンさんは、宣教師ヘボン一族のひとりだそうです。
 さて、1815年信仰心の篤い両親のもと、アメリカペンシルバニア州に生まれたヘボン。少年の頃から教会学校で宣教師についての話を聞くうち、自分もいつか宣教師になりたいと夢見ていたようです。
 ヘボン少年は、とても科学好き。その賜物を生かして大学の医学部に進み、卒業後暫くして、ニューヨークで医師になりました。当時、大量の移民で溢れていたニューヨークは衛生状態が最悪。恐ろしいコレラにかかって死ぬ人が絶えませんでした。
 そんな中、コレラ患者に適切な治療を施し、評判を高めたヘボンの病院は繁盛し、ニューヨークで一、二を争う程の大病院となります。
 しかし、ある時長老教会海外伝道部で披露された手紙で、日本への伝道が開始されること、しかも、最初に派遣される宣教師は医師であることが望ましいと知り、心燃やされたヘボンは、早速日本宣教を願い出て、これを承認されたのです。
 そして、未だ出発時期も、乗る船も決まっていないというのに、病院や別荘など財産を全部売り払い、それによって得た一万ドルという私財を日本伝道のために用いることを決めました。
 けれども、二つの問題が起こります。ひとつは、両親特に父親の反対です。ヘボンの父も熱心なクリスチャンでしたが、息子がアメリカでの名誉と富を捨てて、宣教困難な地、いや宣教できるかどうか分からない国、命さえ危うい遠い国日本に行くことに、大反対しました。これについては、ヘボン同様、宣教の志を強く持っていた妻クララの励ましがあり、乗り越えました。
 二つ目は、息子を教育のためアメリカに残さざるを得ず、我が子との別れという悲しみです。妻のクララは既に三人子どもを産んでいましたが、いずれも病のため幼くして亡くなり、為に息子サムエルは夫妻にとって、たった一人の子どもでした。
 後ろ髪を引かれる思いで夫妻は日本へ出発することになりますが、ヘボンは弟への手紙で、その時の心境をこう綴っています。
 「かわいそうなサムエルは、学校に通うため、昨日友人の家に引き取られました。私が遭遇する最初の別離、最も耐え難い試練です。殆ど胸も張り裂けるばかりです。しかし、私は神を信じています。神は父なき子どもの父であると約束してくださっています。いつか近い将来、日本において再び家族が一緒に住めるという希望を抱いています。そうなれば、どんなに喜ばしいことでしょう。たとえ、それが果たせなくとも、天において再会することが出来ます。・・・」
 こうして、1859年10月、日本の神奈川に到着したヘボンは、幕府の役人から要注意人物として警戒され、剣もほろろの扱いを受けながらも、*一軒の古いお寺、成仏寺を住まいとしてあてがわれ、ここで医療活動を開始しました。
 公然とキリスト教を伝えることは禁じられていましたし、そもそも日本語が分からない。日本語を習得しようとしても、役人に妨害され、見張りがつく。そんな状況の中、日本の本や家にくる患者との接触を通して、何とか日本語を学ぼうとしたのです。
 その頃、普通の日本人は外国人を恐ろしい存在と感じていましたし、外国人と親しくしたら役人から目をつけられてしまうと恐れて、最初なかなかヘボンの所にやって来ませんでした。
 しかし、当時日本もコレラが大流行。多くの人が命を失い、苦しんでいましたから、ヘボンがニューヨークでの経験を生かして、何人かの日本人患者を見事に癒したのを見て、徐々に人々が訪れるようになります。
 医療技術の高さ。患者からお金を取らない無料診察、無料医療。加えて、苦しむ人にも、女性にも、子どもにも親切で、誠実な態度。瞬くうちに、様々な病気を持つ患者でヘボンの家は一杯になり、一日平均100人を診察。手術なども行ったため、休む暇もない忙しさとなりました。
 しかし、日本人伝道のためには是非日本語の聖書が必要であり、日本語聖書を作るためにはどうしても辞書が必要だと考えていたヘボンは、この大きなビジョンに向かって、努力を惜しみませんでした。
 医療活動を続けながら、熱心に日本語研究とことばの蒐集に取り組んだのです。毎日人々に「これは何ですか?」と質問し、それをノートにしるす。本などで漢字を確かめる。さらにその意味を調べ、人に聞き、考え、整理する。
 こうした気の遠くなるような、地道な作業を続けた結果として、出来上がったのが、この*「和英語林集成」という、日本初の本格的な辞書でした。一番左に日本語の単語が、ローマ字で書かれていますが、これはヘボンが、日本人が英語を聞き取りやすいようにと工夫を重ねたもので、今でも用いられるヘボン式ローマ字です。
 この辞書の出版に際して、ヘボンが気落ちしたことと喜んだことがありました。気落ちしたのは、出版費用を母国アメリカの教会に願ったところ、「一体、ヘボンは日本で何をしているのか。」「伝道に関係のない辞書の出版などに、献金は出来ない。」と、日本宣教の難しさを分かってもらえない無理解の声が帰ってきたことです。この問題は一人の理解者が与えられ、その人による多額の献金により解決しました。
 逆に、ヘボンを喜ばせたのは、その活動を警戒し、時に妨害してきた幕府や様々な藩が、ヘボンの日本語理解の深さ、辞書のすばらしさを認めたのか、高価なものであるにもかかわらず、大量に購入したことです。敵も脱帽の出来栄えだったわけです。
 しかし、辞書の成功でヘボンは満足しませんでした。休む間もなく、日本語聖書、それも旧約、新約すべてを含む聖書の完成、出版に向けて、活動を開始します。
 聖書は神聖な書であると同時に、すべての人に親しまれる書でなければならない。神のことばは、解説がなくても理解されるような、分かりやすい文章で伝えたい。これがヘボンの願いでした。
 事実、聖書をドイツ語に訳したルターや、英語に訳したティンダルは、町の商人やおかみさんにも分かることばで訳すことを心がけ、まず庶民に読んで聞かせたと言われます。
 そのために、ヘボンは来日している様々な教派の宣教師、日本人クリスチャンと協力しながら、一つチームとして翻訳を進めましたが、これが本当に、困難な長い道のりとなりました。
 ようやく、*新約聖書が完成したのが明治12年。旧約聖書の完成はさらに遅れて、明治20年の大晦日です。それまでも日本語聖書は存在しましたが、ごく一部分であったり、極端な方言であったり、ことばも正確さを欠き、意味も混乱していたり。その様な聖書しかなかったわけです。
 しかし、ヘボンが中心となって翻訳したこの日本語聖書は、ことばが簡潔で、リズムがよい。意味も正確。しかも、日本語として美しいということで、クリスチャンではない人々からも、「翻訳文学の奇蹟」「日本近代文学の金字塔」と、高い評価を受けている聖書なのです。
 ヘボンがなしたのは、これだけではありません。時代が明治となっても、政府はキリシタン禁令を解かず、むしろカトリック信者を中心に迫害を加えました。心を痛めたヘボンは、涙をもってアメリカ長老教会に手紙をしたため、日本政府とアメリカ政府が条約について話し合う際は、必ず信教の自由を保証する項目を入れるよう要請したのです。ヘボンの生涯、ただ一度の政治的行動と言われています。
 さらに、自宅で奥さんのクララが協力して行っていたヘボン塾からは、後の外務大臣林董、日銀総裁、総理大臣となった高橋是清、三井物産をつくり、日本の貿易を盛んにした益井孝など、多くの人材が輩出しました。彼らは、生涯ヘボンとクララの恩を忘れず、その人柄を慕い続けました。
 また、ヘボン塾が母体のひとつとなって明治10年、東京にこの*明治学院大学が設立され、「Do for others」(他の人の為に力を尽くせ)というヘボンの理念は、今でも受け継がれているそうです。
 最後に、77歳の時、それまでの木造の家では人が入りきらず、横浜に指路教会を建てました。礼拝、伝道集会はいつも多くの人で賑わったそうです。
 明治38年、長きにわたる活動を終えて帰国したヘボン夫妻の家を、日銀総裁・高橋是清が訪問した時、「日本の恩人が、老いてこんな苦しみの中にある」と嘆きました。それは、ヘボンの妻クララが日本滞在中、暴漢に襲われ受けた傷のため、頭痛、不眠、神経痛に苦しみ、脳神経に異常をきたした姿を見たからです。
 しかし、そんな悲劇に見舞われても、ヘボンの日本に対する愛は変りませんでした。日本を離れる時の、送別会でヘボンは語っています。
 「私は誠に、この33年間、日本にとどまって、日本の人を助けることに力を尽くすことができたことを神に感謝します。ああ、私は本国に帰ります。私の仕事は終わりました。本国で私たちが生きる年月はわずかであっても、私とクララは永遠に日本を忘れることはないでしょう。」
 ヘボン宣教師は一つの例です。しかし、有名無名、本当の多くの宣教師の労苦によって日本の伝道、教会は支えられてきました。本当に多くのものを私たちは受けてきましたし、今も受けています。
 私たち日本長老教会もそうなのです。長老教会の源をたどれば、戦後すぐ四日市にやってきた二人のアメリカ人ジョン・ヤング宣教師とフィリップ・フォックスウェル宣教師の伝道活動となります。四日市は日本長老教会発祥の地です。
 後におふたりは東京に移り、そこで日本人牧師を養成する神学校を設立。この東京基督神学校からは、長老派を始め様々な教会の牧師、宣教師が生まれました。私も、大竹牧師も、この学校で学びました。二年前からは、東京キリスト教大学の大学院と形を変えています。
 現在、日本長老教会には、アメリカ人宣教師、韓国人宣教師が、武蔵中会に2人、東関東中会に6人、中部中会には8名いて、主に開拓伝道、教会のないところに教会を立てる働きをしながら、他にも神学教育など、様々な点で協力関係にあります。
 また、私たち四日市キリスト教会においては、18年前から英会話を通して日本人に伝道する志を抱く外国人信徒宣教師が続々ご奉仕してくださり、教会の地域伝道を大きく支えていただいています。
 さて、これほどの恵みを受けている私たちがなすべきことは何でしょうか。目指すべき生き方は何でしょうか。それは、人に自分が与えられているもの、自分自身を与える喜びを味わうということです。
 「受けるよりも与えるほうが幸いです。」これは、生活のすべての面で目指すべき生き方ですが、今日は世界宣教を覚える日ですので、世界宣教というテーマでいくつかのことをお勧めしたいと思います。
 先ず、世界宣教について知ること、書物や世界宣教についての印刷物を読むこと、長老教会などが主催する宣教ツアーに参加してみること、そして、宣教の現場で働く人々の話を聞くことです。
 また、神さまから宣教の働きに召されていると信じたら、それに応えること、四日市教会、日本長老教会、日本の教会から世界宣教に向かう人が与えられるよう、神に祈ることです。
 さらに、今自分が知りうる限りの宣教師の状況を理解し、彼らの困難な働きを祈りとささげもので支えること、許されるなら彼らと交わり、励ましのことばをかけることも大切でしょう。こうしたことに取り組む教会、受けた恵みを感謝するとともに、与える喜びを味わう教会となりたく思います。今日の聖句です。

 詩篇67:7「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師