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メッセージ
私たちは生まれながらにして失っているものがあります。聖書は言います。人は生まれながらにして罪を持っている。これはつまり、本来ならば持っているものを、持たずに存在しているということです。何を持っていないのでしょうか。何を失っているのでしょうか。
この失っているものについて、色々と表現することが出来ますが、簡単にまとめると「神を愛し」「人を愛する」こと。私たちは生まれながらにして、本当の意味で「神を愛し」「人を愛する」ことが出来ない存在でした。この問題の解決は、キリストのみ。イエスキリストを罪からの救い主と信じることによってしか、解決出来ない。キリストを信じる者には、「神を愛し」「人を愛する」ことが出来る命が与えられる。このような聖書の教えについて、皆様はどのように思われるでしょうか。
昨晩、キリストを信じる前の自分を思い返してみました。どのようなことを考えていたのか。どのような行動をしていたか。そして、本当に悶絶しました。自分が良ければそれで良い。非常に自己中心的であったと思います。大きな劣等感を持ちながら、同時に自分は世界一素晴らし人間だと考えていました。自分で振り返っても不思議です。何故、劣等感と優越感が混在するのか。しかし事実、大きな劣等感と優越感をもった状態で生きていたことを思い出します。それは教会の中でも同様で、神様を愛するためにとか、人を愛するために何かをすることが果たしてあったか。全て、自分にとってどのような意味があるのか。それでしか、物事を判断することが出来なかったように思います。結局、そのような生き方は、本当の意味で「自分を愛する」ことも出来ない。本当に「愛の無い」「愛の分からない」存在だったと思います。
今の私にも、このような性質はあるのですが、しかし確かに変えて頂いたことを自覚します。「神を愛する」ことが本当に嬉しい。「人を愛する」ことが、どれ程の喜びであるのか。それを味わえている自分がいることに気づき、神様から頂いた恵みの大きさを心から嬉しく思います。
この礼拝に出席している方で、まだキリストを救い主と信じてはいないという方に、心からお勧めいたします。本当にイエス様を信じることは素晴らしいことです。イエス・キリストこそ私の罪からの救い主であると信じることを、心からお勧めいたします。
ところで、キリストを信じた者たちを、神様は教会に集められると聖書で教えられています。教会という言葉はもともと、「呼び出された者たち」「集められた者たち」という意味です。
私たちは様々な理由で教会に来ました。四日市キリスト教会の場合、幼稚園や英会話をきっかけとして、教会に来るようになった方が多いでしょうか。その他、家族、友人に誘われて。トラクトを見て。インターネットで知って。生まれた時から来ている。あるいは悩み、苦しみ、教会に電話した、などなど。それぞれ、異なる理由で教会に来ましたし、私たちの視点からすれば、自分で選んで教会に来たわけです。
ところが聖書によりますと、私たちの視点だけでなく、神様からの視点もあることが教えられています。
ヨハネ15:16
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
私たちはそれぞれに理由があって教会に来たのですが、それだけではなかった。神様の視点で言うと、私たちは神様に集められているのだということ。私たちは集められたのです。何故、神様はキリストを信じる者たちを教会として集めるのか。
それは、「神を愛し」「人を愛する」ことが出来る命を頂いた者たちが、その命を味わうことが出来るためにです。私たちは「神を愛し」「人を愛する」ために、教会に集うのです。
いかがでしょうか。このような自覚はありましたでしょうか。皆様、今日、教会に来ましたが、「神様を愛そう」「教会の仲間を愛そう」と決意を新たに来られた方はいらっしゃるでしょうか。何も考えずに、習慣だからというのではなく、「神を愛し」「人を愛する」ために教会に集うという意識を皆で持ちたいと思います。
ところで、「神を愛し」「人を愛する」とはどのようなことでしょうか。一つ確認しておきたいのは、「神を愛し」「人を愛する」ことは、密接な関係があるということです。
Tヨハネ4章20節〜21節
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」
明確な言葉。「神を愛する」ということは「人を愛する」ことであり、「人を愛する」ことは「神を愛する」こと。「神を愛し」「人を愛する」というのは表裏一体。どちらかだけなされるということはないと教えられます。
このことを意識した上で、「神を愛し」「人を愛する」とは具体的にどのようなことなのか。今日の箇所から確認していきたいと思います。
Tコリント12章26節〜27節
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
パウロという人が書いたコリント人への手紙。この手紙は、コリント教会にある様々な問題に解決を与えるべく記されたものです。読んで頂ければと思いますが、コリント教会には多種多様な問題がありました。しかし、その根底にある問題は、コリントの教会が「教会とは何か」ということを理解していなかった。教会の本質、教会とは何かということを知らないことが原因となり、様々な問題が起こっていると考えられます。
そのためコリント人への手紙には、教会とは何か、教会とはどのようなものか、様々なことが語られます。この十二章に出てくる「キリストのからだ」という表現は、特にパウロが好んで使う表現。特愛の表現と思われます。「教会はキリストのからだであり、一人一人は各器官」であるとの宣言です。
ところで教会というのは、建物のことではなくキリストを信じた人のこと。普段、私たちは「教会に行く」と言い、この場所に来ますが、正確に言うならばこの場所は「教会堂」で、教会とは私たちクリスチャンのことです。そして最初に申し上げたように、キリストを信じる者とは、「神を愛し」「人を愛する」ことが出来る命を頂いたもののことです。
ですので「教会とは、キリストのからだであり、一人一人は各器官である。」というのは、「神を愛し、人を愛するということは、キリストのからだとして生きること、各人キリストの各器官として生きること」とまとめることが出来ます。
それでは、キリストのからだとして生きるとはどのような生き方でしょうか。いくつか具体的なことを確認出来ます。
キリストのからだとして生きること。一つの側面は、イエス様がこの時代、この場所にいたら、行うであろう生き方をしていくこと。聖書の教える生き方に従って生きていくこと。神様の喜ばれる生き方をすること。そのように神様を愛していく生き方です。何故なら、私たちがキリストのからだであるというのは、キリストを頭とするという意味だからです。
コロサイ1章18節a
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」
私たちは、今の時代、この地域にイエス様がいるとしたら行うであろうことを、実現する者。頭であるイエス様の意思を、実現に移す者。文字通りキリストのわざを行う手であり足であり、キリストの言葉を語る口として生きなければなりません。
ある人は(ウィリアム・バークレー)、「教会がキリストのからだであるというのは、キリストの再臨までの間、神様が私たちを当てにしておられるという意味である。」と言いました。私たちが本当に御心に沿いキリストのからだとして行動する時、それはこの地上で出来る最大の働きであり、そのような働きが私たちに託されているというのは、神様の大きな期待を感じます。「あなたがたはキリストのからだである」と言われる時、私たちはキリストの意思を行動に移す者であることを思い出すべきでした。
キリストのからだとして生きることの別な側面。それは、自分はキリストのからだの一器官であることを認め、喜ぶことです。
皆様は、自分はキリストのからだの一器官であると認めているでしょうか。一器官ということは、からだ全体のために有益な、何かしらの賜物を神様から頂いているということです。しばしば、自分には何も能力がない。自分が教会で仕えることなど出来ないと言われる方に出会います。そのように思われる気持ちは分かるのですが、それは間違いです。何故なら、次のように聖書に書いてあるからです。
Tコリント12章7節
「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」
ここで言われている「おのおの」というのは、キリストを信じ、教会に集められた者たちのこと。クリスチャンのことです。「御霊の現われ」とは、他の人に仕えることが出来るための賜物のこと。「おのおの」「一人一人」に、皆の益となるための「御霊の現われ」「賜物」が与えられている。その「賜物」は人とは違う、自分に最も合っている、自分らしいものです。
皆様は自分にどのような「御霊の現われ」「賜物」が与えられているのか、考えたことがありますでしょうか。(自分にどのような賜物が与えられているのか、確認する方法として、一般的に良いと言われるのは、自分の興味のあることや、教会で必要と思われていることについて奉仕をしてみるという方法です。その奉仕が楽しく、充実したものであれば、その分野で賜物が与えられていると確認出来ると言えます。)キリストのからだとして生きること。具体的にはどのような生き方かと言えば、自分に与えられた賜物がどのようなものか考え、その賜物を用いて皆に仕えていくこと。そのように、「人を愛して」いく生き方です。
また自分はキリストのからだの一器官であることを認め、喜ぶということは、同じ教会員を信頼し、尊敬すること。他の人と共に教会生活を送ることで、自分の力も他の人の力も発揮されることを認めること。自分とは異なる賜物をもった人と手を取り合って教会を建て上げて行くことです。
私は四日市教会に来て六年半ですが、この期間でよく分かったことがあります。それは、私よりも牧師としての力を持っている人が、四日市教会にはたくさんいるということ。私よりも話すことが上手は人。私よりも牧会的配慮に満ちた方。私よりも上手に人を励ます人。私よりも的確にキリストのことを伝えることが出来る人。私よりも会議を導くのがうまい人。私よりも祈りの情熱がある人。私よりも事務作業、教会管理が優れている人。一般的に牧師として必要と思われる能力について、自信をもって私より勝っていると言える方がたくさんいます。年上の方だけでなく、年下の方にも。教会に来て、さほど時間の経ってない方にもいます。
そのような方々と共に教会のことをする時の私の気持ち。皆様分かりますでしょうか。最高に嬉しいのです。心の底から喜びが出てきます。自分はなんて幸せな牧師なのだろうと感じます。
非常におかしな仮定ですが、もし私が、キリストによる新しいいのちを頂いていないとしたら。自分よりも能力がある人を前にしたら、悔しい、妬ましい、劣等感を抱き、牧師を続けて行く気力がなくなったと思います。しかし、キリストによる新しいいのちを頂いていますと、これ程素晴らし人たちと共に、教会形成が出来ることがどれ程の喜びとなるか。
いかがでしょうか。皆様は、教会の仲間の賜物を認め、信頼すること、尊敬しているでしょうか。そのことを喜んでいるでしょうか。皆で互いに尊敬し合い、信頼し合う関係を築いていきたいと思います。
最後にもう一つ、キリストのからだとして生きることの別な側面を確認します。それは、お互いのことを知ることです。今日の箇所には、このように記されています。
Tコリント12章26節
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
一つからだであれば、当然のこと。当たり前のこと。「」私たちがキリストのからだとして、このように生きるためには、お互いに知り合う必要があります。ある人の苦しみ、悲しみを、共に苦しみ、悲しむためには、どのような状況なのか知る必要があります。ある人の喜び、感謝を、共に喜び、感謝するためには、何を喜び、何を感謝しているのか知る必要があります。
一つの部分が苦しめばからだ全体が苦しみ、一つの部分の喜びが全体の喜びとなる。一つからであれば当然のことですが、これを私たちが具体的に実行するためには、お互いを知り合う必要がある。しかし、お互いを知り、共に苦しみ、共に喜ぶ。そのように「人を愛する」ことが出来るのは、私たちクリスチャンの大きな特権でした。
以上、「神を愛し」「人を愛する」ことが具体的にはどのようなことか。今日の箇所から考えてきました。まとめたいと思います。
キリストを信じる者は「神を愛し」「人を愛する」ことが出来るいのちを頂いた者。そのいのちを私たちが存分に味わうために、神様は私たちを教会として召しました。教会とはキリストのからだという特徴がありました。つまり「神を愛し、人を愛するということは、キリストのからだとして生きること」とまとめることが出来ます。
そして、キリストのからだとして生きるというのは、イエス様がこの時代、この場所にいたら、行うであろう生き方をしていくこと。自分に与えられた賜物について考え、その賜物を用いて皆の益となるよう仕えること。仲間を尊敬し、信頼し、共に教会形成に取り組むことを喜ぶこと。お互いのことを知ることでした。
最後にお勧めをして終わりたいと思います。
まだキリストを救い主と信じてはいないという皆様へ。本当にイエス様を信じることは素晴らしいことです。イエス・キリストこそ私の罪からの救い主であると信じることを、心からお勧めいたします。
キリストを信じている皆様へ。イエス様から頂いた永遠のいのちを、皆で楽しむこと。教会はキリストのからだであり、私たちは各器官であるということを、体験すること。そのように教会を味わうことを、心からお勧めいたします。
今日の聖句を皆で読みたいと思います。
ローマ人への手紙12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
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