2012年8月19日
礼拝メッセージ


「一書説教 民数記」
−咎を負う−
  聖書
民数記14章26〜39節

14:26 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
14:27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
14:28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
14:31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
14:32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
14:35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。
14:36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
14:37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
14:38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。
14:39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。


  メッセージ
 「人は死んだらどうなるのか。」人間にとり最大の課題、本来ならば全ての人が真剣に向きあうべき課題でありながら、多くの人が答えを持たず、向き合うこともしないテーマです。「人は死んだらどうなるのか。」何しろ、この答え次第でその人の生き方が大きく変わる。
 私は偶然により存在する者で、死ねばそれで終わりとすれば、現世主義、刹那主義となり、いかに自分がこの世で楽しめるかが最大の関心となるでしょう。片や聖書の教える通り、キリストの復活を事実と受けとめ、やがて私たちも復活し永遠に生きることを信じるならば、この世は永遠の世界への準備として過ごすことになります。「これで終わり」ではなく、「さあこれから」として、生きることになる。自分の人生を八十年と算段するのか、それとも永遠と見るか。これは大きな違いです。
 いかがでしょうか。皆様はこれから私たちが永遠に過ごすことになる世界への準備として、今を生きているでしょうか。「人は死んだらどうなるのか。」この問いに明確な答えを持っている。これは実にクリスチャンに与えられた大きな恵み、大きな特権でした。この世は、永遠の世界の備えと知らなかったら、私などは欲望に振り回され、獣のように生きることしか出来なかった。今のいのちは永遠の世界の備えと知ったからこそ、人間らしく生きられると思います。もう一度お聞きします。皆様はこれから私たちが永遠に過ごすことになる世界への準備として、今を生きているでしょうか。
 ところで永遠を生きることの備え、天国への備えとは、具体的にどのような生き方でしょうか。色々と挙げることが出来ますが、私たちが取り組むべき最大のことの一つは、聖書を読むこと。聖書を通して、神様のことを知ること。永遠の世界、天国でも間違いなく通用するもの、それは神のことばだからです。

 マルコ13章31節
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 私たちクリスチャンは、聖書を読みながら天国への旅路を進む者。最初から最後まで聖書を読み通すことを繰り返しながら、生きていく。許されるならば、天国へ召されるまで、何十回、何百回と聖書を読み通していきたいと思うのです。
 このような願いを胸に、今は一書説教に取り組んでいるところです。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。今日は一書説教の四回目となります。これまでお勧めしてきたことと同様ですが、皆さまにお勧めがあります。一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書を読んで来て下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 今日扱うのは、旧約聖書第四の巻。民数記となります。まずはこの書の背景にあることから確認いたします。
 非常に良く創られた世界。この世界が悲惨な状態になるのは、人間が神から離れる、神を無視して生きるようになってからでした。このような人間に対して、神様がとられた基本的な方針は、神の民を通して、神から離れた人間にどのように生きるべきか教える。全世界の中から神の民を選び出し、神の民が人間のあるべき生き方、神様との関係を全世界の人に示していくというもの。この神の民に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。神様は、アブラハムに、子孫がおびただしく増えることと、カナンを(地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地方)所有地として与えることを約束されました。これが旧約聖書第一の巻、創世記に記されていたこと。
 第二の巻、出エジプト記では、神の民であるアブラハムの子孫が、エジプトで奴隷となっていたこと。その神の民が、神様が与えると約束されていたカナンへ向かうべく、エジプトを脱出する記録が記されていました。この時、ただ奴隷状態から助け出されたのではなく、人間のあるべき生き方を示す働きに就くため、十戒に代表される様々な規定を授かります。
 第三の巻、レビ記では、神の民としていかに神様を礼拝すべきなのか。毎日の生活をどのように生きるべきなのか。様々な規定が記されていました。
 これに続くのが第四の巻、今日取り扱います民数記です。エジプトを脱出し、神の民として整えられていったイスラエルの民が、いよいよ約束の地へと突入するのか、という場面。出エジプト記は救い。レビ記は礼拝。民数記はこの世との戦いが記されているとまとめることが出来ます。
 民数記。民の数の記録と題されていますが、しかし、ヘブル語原典では、「荒野で」という名前。どちらかと言えば、「民数記」よりも、「荒野で」という名前の方が、この書の内容に適していると思います。エジプトを脱出し、約束の地カナンへ入るまでの期間は四十年。本来は数十日で到達する距離ですが、民数記に記されるある事件が原因で四十年となります。この四十年のうち、約三十九年間はこの民数記に記されている内容。荒野の旅の殆どが、民数記に記されています。
 一章と二十六章に人口調査が記されているため、民数記と名前が付けられていますが、数字だけのつまらない書物と思わないで下さい。民数記は旅の記録。教会学校に出席した方は、聞いたことのある話がいくつも出てくると思います。
 それでは実際に民数記の内容を確認していきたいと思います。民数記の概観の仕方はいくつかありますが、旅の記録として見るならば、大きく三つに分けることが出来ます。前半はシナイでのこと。中盤はシナイからカデシュでのこと。後半はカデシュからモアブでのことです。
 まずは前半から。一章から四章にかけて、人口調査がなされ部族毎に軍務につくことが出来る総数が記されます。部族はヤコブの子どもたちの名で呼ばれるため、もともと十二部族。このうち、ヤコブから見れば孫にあたるエフライムとマナセの名をそれぞれ一つの部族とするため、合計で十三部族。ところが、幕屋で専門的に奉仕する部族としてレビ部族が選ばれ、レビ部族は軍務につく者たちから外されますので、結果的に十二部族の登録となります。
 この十二部族は、宿営をする時は礼拝所を中心に、三つの部族毎にチームを組み四方をかためます。三つの部族で一つのチーム。それぞれのチームには、代表となる部族があり、旗じるしも決められていました。エジプトからカナンを目指すならば、基本的に進行方向は東。今回、図の記された紙を週報とともに配布しました。聖書に書いてあることを図にするとそのようになります。
 この時、旗ごとに集まることが指示されていますが、この旗がどのようなものだったのか聖書には記されていません。そのため正確には分からないのですが、伝承では、ユダ部族の旗は獅子。ルベン部族は人。エフライム部族は牛。ダン部族は鷲だったと言われます。
 第一軍は最も人数の多い軍団、ユダのライオンズ。第二軍は、ヤコブの長子ルベン部族を長とするジャイアンツ。第三軍はヤコブ最愛の妻、ラケルから生まれた者たちの集まり、エフライムのブルズ、バッファローズ。第四軍は二番目に人数の多いダンのイーグルス。このように見ていくと少しはイメージが出来るでしょうか。行軍する際には、最強のユダに属する三部族が先頭を進み、二番目に多いダンに属する三部族がしんがりを務めるというのは、一般的な戦術論にも合致します。こうして、会見の天幕が中心。神様を中心にした配置となり、神の民として何が中心なのか、いつも意識されるようになっていました。
 このようなイスラエルの民の宿営を見た者の言葉が聖書に残っています。

 民数記24章5節
なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。

 礼拝所を中心とした宿営地を見た者が、「美しかった」と言う。私たちの姿はどうでしょか。私たちの礼拝する姿を見た者が、「美しかった」と言うものであったら嬉しい。私たちの人生の歩みが、神様を中心としたもの、礼拝を中心としたものであったらと思います。
 五章から九章までは、汚れた者が共同体から除かれ、祭壇とレビ人が神様への礼拝のためにささげられ、二度目の過越の祭りが行われ、イスラエルの民が約束の地カナンへ前進するための準備が整えられます。
 中盤は場所で言えばシナイからカデシュでのこと。章で言えば十章から十九章までとなります。
 イスラエルの民がシナイに入ったことが記されていたのが、出エジプト記の十九章。それ以降、出エジプト記の後半、レビ記、民数記の前半と様々な規定が記され、イスラエルの民の姿は、多くは記されませんでした。民数記の十章以降から、具体的な姿となります。
 そして、その民の姿が見事にひどい有様。十章で行軍を開始したことが記されますが、十一章から十二章に、三つの不平の姿。この旅全般に関する不平、食べ物に関する不平、ミリヤムとアロンによる地位に対しる不平。
 久しぶりにイスラエルの民の姿が描かれたと思ったら、不平不満の嵐。しかもこれが民数記の終わりまで続くと言っても過言ではありません。徹底的に神様に守られて約束の地へ向かっている神の民が、不平不満をぶちまける。読む私たちですら、これはひどいと思う姿が出てきます。
 続く十三章から十四章は民数記の山場となる場面。約束の地を前に、斥候が派遣され、神様が与えると約束された地がどのようなところか確認することになります。選ばれる斥候は、十二部族の頭で、四十日間の偵察。この時、斥候が持ち帰った果物が聖書に記されていますが、ぶどう一房を二人が棒でかつぐとあり、今では信じられない程の巨大なぶどうがあったことが分かります。
 斥候は十二人。そのうち十人は、良い土地であったが、その地の住人は強く、攻め上るべきではないと主張します。それに対して、エフライム部族のヨシュアとユダ部族のカレブ。この二人は、神様の約束を信じ、攻め上るべきだと主張します。
 十対二。神様を信頼するように主張する声は小さく、敵は強いとの声が大きい。かくして、イスラエルの民は斥候十人の意見を聞き入れ、ついにはヨシュアとカレブを殺そうとまでします。残念無念な姿。エジプトで見た十の災い。大軍に襲われた時に割れた海。雲の柱、火の柱に導かれて荒野を旅し、食糧も神様から頂く。このような恵みのうちに歩んでいたイスラエルの民が、神様を信じられなかった。本当ならば、ここで約束の地へ入ることが出来たはず。ところが、ここで神様を信じられなかった。その結果、四十年の荒野での旅路となり、この時、神様を信じられなかった者たちは、皆荒野で死ぬことになります。

 民数記14章29節〜34節
「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

 この宣言通り、出エジプトを経験したイスラエルの民のうち、成人していた者たちは、約束の地へ入ることが出来なくなります。四十年の荒野での生活は、神様へ反抗することがどういうことなのか、味わう四十年となる。実に勿体ない場面。神様を信頼しない人生がいかに不幸なことなのか。これほど明確に教えられる場面は、聖書の中でも特にこの箇所と言えるところ。もし自分がこの場所にいたら、ヨシュアとカレブの意見に同意出来たでしょうか。神様に対してどのような態度を取ったでしょうか。
 続く民数記十五章からは、再度様々な規定が記されます。十五章はささげ物についての規定。なぜレビ記にまとめなかったのか。民数記に入れるとしても、他に記されているところと、なぜまとめなかったのか。不思議に思うところ。なぜ、この斥候たちの派遣の出来事ののち、すぐさま規定の話となったのか。それは、この言葉に答えがあると思います。

 民数記15章2節
イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり、

 成人していた民は約束の地に入れない。しかし、ここで述べられる命令は、神様がご自分の民を約束の地カナンに入れて下さることを、強く主張しているものでもある。ここで規定が述べられるのは、大人たちは死に絶えるとしても、確かに子どもたちは約束の地へ入ることへの励ましととれます。その他、コラの子たちの反逆、アロンの杖の話など、印象的な場面も中盤に記されています。
 そして後半。場所で言えばカデシュからモアブまでのところ。章で言えば二十章から終わりまでとなります。後半にも多くのことが出てきます。ミリヤム、アロンの死。不平を繰り返すイスラエルの民。メリバでの水や、青銅の蛇、バアルペオルの事件など、聖書の中でも有名な場面が続々と出てきます。
 二十二章から二十四章にはバラムとバラクという人の話が出てきますが、これは面白いところ。バラムの言動は、一見信仰者として正しい者のように見える。ところが、聖書全体からすると、バラムは神に背く者、信仰面で悪人と読めます。メリバの水でもそうですが、行間を読みながら、読み進める必要があります。
 二十六章からは再度人口調査。これは民数記の最初に行われた人口調査から約四十年が経ち、エジプト脱出した世代の子どもたちの世代での人口調査となります。この時の調査で分かるのは、最初の人口調査と比べて全体としては殆ど変わりがないということ。神様の約束は、人間の罪によって実現が遅らせることがあっても、挫折することはないことが教えられます。
 二十七章以降は、またもや様々な規定が出てきます。約束の地に入る前に、今一度神の民としてどのように生きるべきか教えられる。出来事として一つ覚えておきたいのは、約束の地に入る直前、ルベン族、ガド族、マナセ族の半分。これら二部族半が、約束の地の手前で土地を欲しいと主張したこと。約束の地を前に、目の前の土地を欲しがる。これは良しとされますが、敵国に隣接しているため、結局のところ土地の所有者が苦労することになります。
 以上、駆け足でしたが民数記を概観しました。荒野でのイスラエルの民の姿が、今の私たちとどのように関係があるのか。今日の聖句を皆で読みたいと思います。

 ローマ人への手紙15章4節
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

 私たちは新約の神の民。カナンどころではない、神様が与えると約束した天国へ向かって生きている者。その私たちのために書かれた書。民数記は神の民が、神様にどのように扱われるのか記されたもの。神様がどのようなお方で、神の民はどのように生きるべきなのか示されています。
 民数記全体を通して、私たち人間の姿のひどさがよくよく示されます。食欲、色欲、物欲、利欲、名誉欲に振り回され、神様への不平不満を鳴らす民。それにも関わらず、マナは降り続け、雲の柱火の柱は消えることなく、民を導きます。
 神様は人間の罪に目をつぶるだけなのかと言えばそうではなく、確かに裁きをもたらす方。民数記は続々と裁きが執行される記録でもあります。しかし、裁きや審判の時にも、逃れの道が用意されていることも、確認出来ます。モーセの執り成し、青銅の蛇、逃れの町、汚れを除く方法など、救いの道があることも記録される。
 民数記を読むことで、神様がどのようなお方なのか。神の民とはどのように生きるべきなのか。特に神様を信頼しない結果、四十年の荒野の旅となったこと。これは「神様への反抗がどのようなものか思い知るため」のものであり、この出来事が私たちのために記されていることを覚える時、神様を信頼して生きること。本当に聖書の教えを信じ、その通りに生きて行くことに、皆で取り組みたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師