2012年8月26日
礼拝メッセージ


「婚宴にて表されたキリストの栄光」
  聖書
ヨハネの福音書2章1〜11節

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。


  メッセージ
 今から三年前、私たちの教会に結婚ラッシュが起こりました。一年余りの間に七組ものカップルが誕生。二ヶ月に一度のペースでの結婚式に恵まれ、教会が結婚式独特の喜びに彩られた年であったことを思い起こします。
 さて、今日のお話は結婚式を巡ってのことです。ヨハネの福音書は、前の一章でヨハネとアンデレ、ペテロにピリポ、そしてナタナエルと、最初の弟子五人を召したイエス・キリストの姿を描きました。
 第二章からは、イエス・キリストの救い主としての公の活動が記されますが、その最初が、小さな村の結婚式における奇跡、水をぶどう酒に変える奇跡だったのです。
 第一章で、弟子が召しだされたのはヨルダンの荒野、第二章の結婚式は風光明媚なガリラヤの村カナ。場面も大転換します。

 2:1、2「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。」

 今でもそうですが、ユダヤの昔も、結婚式と婚宴は当人たちにとって人生の一大事、晴れの舞台、家族、友人にとっては格別な喜びの時でした。
 通常、結婚式は水曜日に行われ、若い二人は村の道を練り歩いて多くの人の祝福を受けます。新居に到着すると、一週間そこにとどまり、これを開放し、少なくとも二日、長ければ一週間程人々のために婚宴を開いたと言われます。そして、このカナの婚宴にはイエス様の母マリヤもいたし、イエス様とお弟子さんたちも招かれていました。
 婚宴に快く列席されたイエス・キリスト。「私は伝道に忙しいのです。」と披露宴出席を断らなかったイエス・キリスト。むしろ、気さくに招きに応じ、新郎新婦を祝福し、喜びを共にする。人々との交わりや食事を楽しむ。
 そんなお姿に、本当に神が人となり、私たちの仲間となったこと。雨の日だけでなく晴れの日も、苦しみの時だけでなく喜びの時も、イエス・キリストがともにおられ、私たちと心を一つにしてくださることを確認したいと思います。
 しかし、順調だった宴に一つの問題が起こりました。パーティーに欠かすことのできないぶどう酒が切れてしまった、というのです。

 2:3、4「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』と言った。すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』」

 列席者が予想より多かったのか、それとも貧しい家族であったためか、その両方が重なったためか。とにかく、ぶどう酒がなくなってしまうというのは一大事でした。
 イエス様の母マリヤは客というより、世話役の一人であるかのように気を揉んで、イエス様に向かい「ぶどう酒がありません」と言った、とあります。
 このことから、これはマリヤにとって親しい家、親戚筋の婚礼だったのではないか。その関係でイエス様も御呼ばれしていたのでは、と考えられています。古くからの伝説によれば、これはマリヤの姉妹サロメの息子つまり、この福音書を書いたヨハネ自身の結婚式ともされます。
 いずれにしても、ここに伺われるのは普段のイエス様親子の様子です。披露宴の責任者でもないのに気遣い、人の助けになろうとするマリヤ。息子にも声をかけ、話し合う母と子。手伝う心、人の助けになろうとする心。こういったものがイエス様の育った家庭には満ち満ちていたのでしょう。
 それにしても、『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません』という、イエス様の返答は一見他人行儀、冷たくも聞こえます。
 しかし、このことばには、イエス様が世の救い主、キリストとして歩みを進めて行く時期に来たこと自覚し、それをマリヤに告げるという意味がありました。
 それが証拠に、「わたしの時はまだ来ていません」とイエス様は言われました。「わたしの時」、これはヨハネの福音書に何度も繰り返し出てくる表現で、イエス・キリストが十字架に罪の贖いの死を遂げ、復活し、父なる神から栄光を受ける時のことを指しています。
 つまり、イエス様は救い主としてこの出来事を見ておられるのに対し、マリヤの方はイエス様を救い主と信じる信仰は芽生えているものの、未だ「我が息子」という意識から抜け出してはいない、一種の公私混同の状態といえるでしょうか。
 ですから、あえてイエス様は「お母さん」と言わず、「女の方」との一般的な尊敬表現で呼びかけ、「女の方、それはあなたが気にされなくても良いことです。わたしは、わたしの時がきたら、救い主として為すべきことを実行しますから」。そう穏やかに答え、もはやご自分が母親の指示で動く者ではないことを説明されたのです。
 そして、マリヤの方も、その気持ちを読み取りましたので、イエス様を救い主と信じる信仰に立って、しもべたちにこう言いました。

 2:5「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』」

 一方、イエス様の方は、これを救い主としての栄光を表す良い機会と思われたのでしょう。家の外に置かれた大きな水がめに眼を留めると、しもべたちにこう命じたのです。

 2:6〜10「さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。『水がめに水を満たしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。『さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。』彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。』」

 ヨハネの福音書は、世界中の人々に向けて書かれたものといわれます。ですから、水瓶について、それは「ユダヤ人独特のきよめのしきたりによる」と説明を加えています。
 当時ユダヤ人にとって、水瓶の水はふたつの目的の為に必要でした。ひとつは、家に入る時、埃まみれの足をきれいに洗うため、もうひとつは、手を洗うためでした。この手を洗うということが、宗教的なきよめのしきたりに関係しています。
 厳格なユダヤ人は、食前に手を洗い、食事中も、各献立が終わるたび、手首も、指先も、手のひらも、こぶしも、念入りにこれを洗ったそうです。ユダヤ教の律法、宗教のルールでは、そうしなければその人は神の前に不浄、汚れているとみなされました。
 80〜120リットル入りの水瓶が六個も家の前に置かれていたのは、この律法、このしきたりのためだったのです。
 イエス様はこれに眼を留めると、しもべたちに「水瓶に水を満たしなさい」と命じると、一瞬にして水をぶどう酒に変えました。しもべたちが汲んだ水を宴会の世話役が味見をすると、それは見事に最上のぶどう酒であったため、感嘆した世話役が、花婿を呼んで賞賛するという場面で、物語は幕を閉じます。
 一時はどうなることかと危ぶまれた婚礼の宴。しかし、マリヤの心遣いと命じられたとおりを実行したしもべたちの労苦、そして何よりも、イエス・キリストの奇跡によって、とどこおりなく無事進行し、お開きとなったようです。
 事の成り行きを誰よりも心配したであろう新郎新婦は不名誉を負うことなく、むしろ後から良いぶどう酒を出したことで名誉を受け、ささやかな婚宴の席に集まった人々の喜びの交わりも守られたのです。まさに、目出度し、目出度しでした。
 この出来事がイエス・キリストの最初のしるし、奇跡であり、これを通して救い主としての栄光が表されたこと、弟子達の信仰が深められたこと、これがヨハネの結びのことばとなります。

 2:11「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

 最後に、カナにおけるイエス・キリスト最初のしるし、奇跡の意味をふたつの点で確認しておきたいと思います。
 一つ目は、この世界の造り主であるイエス・キリストは、私たちの地上の生活における小さな必要にも関心を抱き、喜んで心砕いて下さるお方だ、ということです。
 実はこの奇跡、昔から一部の人々によって批判されてきた珍しい奇跡です。その理由は、これは病人を癒す、悩む人を救うなどの重大な必要が見られないのに行われた贅沢な奇跡であり、結婚式で最上のぶどう酒を提供して、人々を喜ばせたとしても、それは一時的なことではないか、と言うのです。
 しかし、果たしてそうでしょうか。聖書には、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とあります。
 イエス・キリストは私たちの苦しみを我が事として受け入れ、ともに涙を流してくださるとともに、私たちの喜び、それがたとえ地上の生活における、一時的で、ささやかなものであっても、ともに喜び、それを尊んでくださいます。
 「婚礼でぶどう酒が足りなくなった」というのは、日常生活におけるささやかな必要です。霊的な必要というより物質的な必要、永遠的な必要というより一時的な必要でしょう。
 しかし、イエス・キリストは、私たちの人生におけるそのような必要にも眼を留め、関心を抱き、心砕き、全能のみ力を働かせ、仕えてくださる救い主なのです。それは、生活のあらゆる分野で、私たちがイエス・キリストのすばらしさを楽しみ、その栄光をあらわす歩みをするためでした。今日の聖句です。

 Tコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光をあらわすためにしなさい。」

 ふたつ目は、イエス・キリストがぶどう酒に変えた水が、ユダヤ人の、つまりユダヤ教のきよめのしきたりに用いられていたものであることに注目します。
 聖なる神の前における汚れを外面的にとらえていた当時のユダヤ人は、身に汚れを受けた場合、すぐにきよめの儀式を行って、汚れを洗い清めなければならないと考えていたため、必要な水の量も膨大でした。
 家から外に出る時も、家に帰ってきた時も、食事の時に至るまで、一挙手一投足ごとに汚れを受けたのでは、と細心の注意を払わなければならない日常生活は、人々の心を萎縮させていたのです。
 しかし、それほどきよめのためにしきたりを守り、努力しても、肝心要のあなたがたの心は汚れたままではないのか、とイエス・キリストは語っています。

 マルコ7:14,15,20〜23「イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。みな、わたしの言うことを聞いて悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出るものが、人を汚すものなのです。・・・
 また言われた。人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 私たちの心に出てくる汚れた思い、これらはユダヤ人のようにきよめの水をどれだけ使おうがきよめられないもの。人間がどんなに努力し、修行してもなくならないもの。罪、汚れの問題は、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じるしか解決できない。これが聖書の教え、福音です。
 水瓶の水はきよめのしきたりを重んじても、霊の命と喜びに欠けるユダヤ教のシンボル。変えられたぶどう酒は、イエス・キリストを信じて、霊の命をもらい、すべての罪を赦され、神の子とされた喜びに満ちたキリスト教の福音のシンボルとされます。
 どうでしょうか。皆様の心はきよめの水の状態でしょうか。それとも、イエス・キリストを信じ、ぶどう酒に変えられた心をお持ちでしょうか。私たちがみな、キリストによって罪赦され、神の子とされた喜びを日々味わいつつ、歩むことができたらと願わされます。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師