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メッセージ
イエス・キリストは神のお心を伝える「ことば」。その神のことばが、「神とはいかなるお方か」「神の愛はいかに深いものか」を私たちに親しく伝えるため、天からくだり、人の姿を取り、人の仲間となられた。そう紹介したのがヨハネの福音書の序文です。
そして、先回から、私たちはイエス・キリストの教えと活動のあとを辿っていますが、最初に登場したのはバプテスマのヨハネ。ヨハネは罪の悔い改めを説いて、自分の後に登場するイエス・キリストから罪の赦しを受けるよう、ユダヤの人々に勧めました。このヨハネの教えが国中に広がり、人々の心が神の救いへと向けられるようになった頃、いよいよイエス・キリストの登場となります。
1:35〜40「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。」
どんなに大きな川も、その源をたどれば、山深く静かに湧き出る小さな泉であることを、皆様はご存知と思います。イエス・キリストの活動も同じでした。
今でこそ、世界中にクリスチャン、イエス・キリストを信じる者が存在します。しかし、二千年前イエス・キリストの活動は、アンデレと、恐らくこの福音書を書いたヨハネ自身と思われる「もう一人の弟子」、つまり、たった二人の青年との出会いから始まったと言うのです。山深く静かに湧き出る泉の如く、世間の目に隠された、ささやかな出発でした。
イエス・キリストなら、ユダヤの都エルサレムで大勢の人を集めて説教する事も、世界の都ローマで奇跡を行い、世間の注目を惹く事も出来たでしょう。それなのに、むしろ一つの魂を救いに導くことに全力を注がれたというそのお姿は、キリスト教がいかなるものかをよく示しているように思われます。
ところで、バプテスマのヨハネから「神の小羊」、つまり、人の心から罪を取り除くため、神が用意した犠牲の小羊のような救い主と紹介されて、あとについて行った二人の青年は内気な性質だったのでしょうか。それを察して後ろを振り向くと、「あなたがたは何を求めているのですか」と、イエス様は尋ねました。
仕事の成功、病気の癒し、名誉、安定した生活。様々なものを求めて、人々はキリスト教に近づいてきます。しかし、ふたりはそのどれでもなく、「先生は、今どこにお泊まりですか」と聞き返しました。
これは、「イエス様。私たちはあなたのおられるところにゆきたいのです。あなたとともにいて、ゆっくりと交わりたいのです。私たちの心の思いをあなたに聞いていただき、私たちもあなたのおことばをお聞きしたいのです。そのための時間をくださいませんか」という願い、求めです。
この願いを喜ばれたイエス様は、ふたりを招くと、彼らと一緒に行き、親しく交わる、またイエス様を知り、自分たちのことを知ってもらう、幸いなひと時を過ごすことができました。
そんな交わりのうちに、イエス様が、昔から旧約聖書で預言されていた救い主であることを確信したアンデレは、喜びを抑えきれず、さっそく兄弟シモンのところに駆けつけるや、こう声を上げたのです。
1:41,42「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
メシヤはイスラエルのことばへブル語、キリストは当時の共通語ギリシャ語。ことばは違いますが、意味はともに「神に油注がれた者」で、全く同じでした。
旧約聖書の昔、王様が即位する時、祭司がその頭に油を注いだことから、メシヤは神がイスラエルの国に立てた王のことを指していましたが、いつしか、神が遣わす救い主を意味するようになり、人々が心から待ち望む存在となったのです。
「私はメシヤ、キリストに会った」とは、待望の救い主に出会い、交わり、喜びに溢れたアンデレの信仰告白でした。
実は、アンデレとシモンとは仲の良い兄弟、ともにガリラヤ湖の漁師でした。ヨハネの福音書を読み進めてゆくと、アンデレがいかに他の人をイエス様のもとに連れてゆくことを喜びとしていたか、よく分かります。
ここでは兄弟シモンを、やがて一人の少年を、次に心迷う一人のギリシャ人をイエス様のみ前に連れて行ったアンデレ。アンデレは言葉巧みにイエス様のことを説明する、そんなことばの人ではなかったようです。しかし、イエス・キリストとの出会いを自分ひとりの心にとどめておくことができず、人々をイエス・キリストに連れてゆく。そんな伝道精神に溢れる人。私たちもアンデレに倣う者となりたく思います。
ところで、アンデレの兄弟シモンに目を留めたイエス様は、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」と語りました。これは、「今あなたはガリラヤ湖の漁師ヨハネの子どもですが、後にわたしの教会、キリスト教会を支える岩のようなリーダーになりますよ」という預言です。ケパもペテロも、「岩」を意味することばでした。
平凡な漁師の子どもシモン。そんなシモンが、キリストの恵みにより、預言どおり、岩のようなリーダーと変えられるのを、私たちは見ることとなります。
さて、アンデレとシモン兄弟が、早速同じベツサイダの町出身の人、ピリポにイエス様のことを話したのでしょうか。翌日、道の途中イエス様はピリポを呼んで弟子とすると、このピリポも救い主に出会えた喜びを自分ひとりのものにしておけず、親友ナタナエルに紹介したというのです。
1:43〜45「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて『わたしに従って来なさい。』と言われた。ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。』」
「モーセが書いた律法」、「預言者が書いたもの」というのは旧約聖書のことです。つまり、ピリポは「旧約聖書で神が約束してきた救い主に私たちは本当に会った。それがナザレの人、ヨセフの子イエスだ」と証言しました。
しかし、ナタナエルは抜きがたい偏見を宿していました。それは、ナザレのような田舎の村から、旧約聖書に一度も登場してこないような重要でない所から、何の良いものが出るか、まして救い主など出るはずがない、という偏見です。
1:46「ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」
偏見の人ナタナエルも、「来て、実際にイエスを見よ」と勧める親友の熱心なことばには逆らえず、イエス様に近づいてゆきます。
すると、百聞は一見に如かず。イエス様に出会ったナタナエルの心は、その存在と御力に圧倒され、180度の方向転換。「先生、あなたは神の子、イスラエルの王です」と告白していました。
1:47〜49「イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。』ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか。』イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』ナタナエルは答えた。『先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』
イチジクの木は、ユダヤではどこでも見られるもの。幹が捻じ曲がっているため、材木としては役立たずと言われます。イチジクの良い点はその美味しい実と、よく茂り、木陰を作る葉でした。
そのイチジクの木陰で、一体ナタナエルは何をしていたのか。昔からよく言われるのは、ナタナエルはイチジクの木陰で神に祈っていた、神のことばを黙想していたのではないか、ということです。
当時、人通りの多い道で、これみよがしに大げさな祈りを捧げる偽善の宗教家たちが横行していました。そんな中、人目を避けて、イチジクの木の下で神と一対一、神に祈り、神のことばを味わうナタナエルの姿に、本当の信仰、うそ偽りのない誠実さを、イエス様は見ておられたのです。
自分の心の奥底のあり方まで知っておられるイエス様との出会いと交わりにより、頑なな偏見は打ち砕かれ、ナタナエルはイエス様を神の子、また我が王とする信仰に導かれました。
それだけではありません。「あなたは、さらに大きなことを見ることになります」として、イエス様はやがてナタナエルがもっと豊かな信仰の世界を味わうことになると約束し、この生まれたてのクリスチャンを祝福されたのです。
1:50,51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」と言うのは、当時の人々が良く知っていたことで、旧約聖書の人ヤコブに起こった出来事です。
故郷を離れ、ひとり寂しく旅を続けるヤコブが石を枕に野宿した時のこと。夢の中で、一つの梯子が天にまで届き、神の御使いたちがそれを上り下りするのを見ます。この出来事を通して、ヤコブは天の神が本当に自分を愛し、見守り、祝福してくださるお方であることを知り、交わり、天の神の存在を親しく、身近に覚えることができました。
これは、同じ祝福が人の子、つまりイエス・キリストと、キリストを信じる者にも起こることを教えることばと考えられます。人の子であるイエス様が天の神を父として深く交わり、支えられたように、イエス・キリストを信じる者は、誰でも天にいる神を父と呼ぶ親しい交わりの恵みに入れて頂けるという祝福です。
こうして、イエス・キリストの活動の最初、キリストと出会い、弟子となった人々の姿を見てきた私たちですが、今日特に覚えたいことが三つあります。
一つは、イエス・キリストは、私たちがそばに行くことを待ち望み、私たちと親しく交わることを、心から喜んでくださるお方だ、ということです。
あのアンデレたちが、「あなたは何を求めていますか」と聞かれ、そうしたように、私たちはイエス・キリストのもとに行き、親しく交わり、イエス・キリストともに人生を歩むことを、他の何物にもまさって第一に願い、実行しているでしょうか。
イエス・キリストについて知りながら、実際に交わることが無いとしたら、それは、御在所についてガイドブックを読み、御在所についての知識はあるけれど、実際に登って、歩いていないので、本当の良さを体験したことの無い人と同じでしょう。
イエス・キリストとの交わりのうちに慰めがあり、癒しがあり、平安がある。私たちを正しい生き方へと促す励ましがある。このことを覚え、日々イエス・キリストと交わる者となりたく思います。
二つ目は、イエス・キリストの愛は、私たちに期待し、私たちを造り変える愛の持ち主だということです。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」。そう言われた時、シモンは無学な漁師の子。直情径行型で、ちょっとおっちょこちょい。我が強くて、自信過剰。肝心要の場面で、人を恐れ、自分がイエス・キリストの弟子であることを否定し、裏切るという弱さを曝け出しもしました。
そんなシモンの性格、欠点、弱さをすべて知りながら、イエス・キリストは、ペテロ(岩)のような力強いリーダーになって欲しいと期待し、長い時間をかけ、実際にそのように彼を造り変えたのです。
同じ、イエス・キリストの愛が私たちにも注がれていること、こんな罪人の私たちを愛の人、寛容と親切の人、誠実と忍耐の人に造りかえるため、今日もイエス・キリストの御霊が仕えてくださっていることを覚え、感謝したいのです。
三つ目は、イエス・キリストの愛は、私たちの欠点をさばかず、むしろよい点、美点を見出し、励ましてくださる愛だということです。
ナタナエルを思い出してください。彼は、ナザレという出身地で人を判断し、決め付ける偏見の持ち主でした。イエス・キリストはその欠点を知りながらも、それをさばかず、ナタナエルの心にある信仰と誠実さに眼を留め、それを誉め、彼を励ましたのです。
とかく、人の裁判官になりがちな私たちは、人の欠点や足らざるところに眼が行き、これを責め、批判します。それでいて、人の成功を認めたがらず、人の美点を見出そうと努力することをしません。イエス・キリストが私たちを見てくださるように、私たちも人を見る、人と接する。この様な生き方を実践してゆけたらと思います。
Uコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
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