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メッセージ
人間は何のために存在するのか、生きているのか。こう聞かれたら、皆様はどう答えるでしょうか。
私たち人間は身の回りにある物、テレビやパソコンや冷蔵庫に車などについては、「何のために」と答えることができます。しかし、肝心の自分の存在目的については「分からない」「分からないので不安だ」と答える人が実に多いのです。
毎日一生懸命生きているのに、根本的な人生の目的を見出せないとしたら大変な問題。それは、神に背を向けて生きる人生が、いかに悲惨であるかを示しています。しかし、それに対して、聖書は明確に教えています。私たち人間は、神を愛し、神を礼拝するため神に創造され、罪から救われたと。
今、大竹先生が一書説教をされていますが、旧約聖書の神の民イスラエルが、エジプトでの奴隷状態から救い出されたのは、何のためだったでしょうか。彼らが自由に神を礼拝する民となる為であることを、私たち確認したことと思います。
イスラエルの民は礼拝を通して、神に造られた人間らしく生きることを学び、神の存在とその栄光、すばらしさを周りの人々に示すため選ばれた民でした。けれども、その神の民の礼拝が腐敗、堕落し、その宮は崩壊の危機に瀕していたというのが、イエス・キリストの時代であったのです。
そのためでしょうか。イエス様の取られた行動は実に激しく、厳しいもの。普段柔和なイエス様からは想像もできないような苛烈な行動を起こされたのです。
先回カナの村において、婚宴の交わりを祝福するため水をぶどう酒に変えるという、平和な奇跡をイエス様がなさったとすれば、今日都エルサレムの宮においては、人間の罪を明らかにするための激しい、戦いのわざをなしたと言えるでしょうか。
実に対照的。しかし、救い主の愛の現れとしてどちらも心に留めたいと思います。
さて、カナでの祝宴が終わった後、近くのカペナウムで母や弟、お弟子さん達と休息の時を取ると、イエス様は過ぎ越しの祭りに参加するため、都エルサレムに上りました。
2:12,13「その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。」
過ぎ越しの祭りは、出エジプトを記念するユダヤ最大のお祭り。国の内外から、ユダヤ人、外国人が押し寄せ、祭りの期間中、都は人波でごった返していたと言われます。
中でも、人々の関心は宮に行き、礼拝にあずかること。イエス様も一直線に宮に足を運ばれたようです。そして、イエス様が眼を留めたのは、神殿の壮麗さでも、人の多さでもなく、そこが、神にとってどれ程悲しむべき場所になってしまっていたかでした。
2:14〜16「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
牛や羊や鳩というのは、礼拝の際人々が捧げる罪の為の供え物です。多くの人々、特に遠方からの旅人は動物を運んでくるわけにはいきません。また、供え物には傷が無いことや年齢などの規定がありました。ですから、人々は宮に来て、規定どおりの牛や羊、鳩などを買う必要があったのです。
また、宮に入る者には神殿税が課されましたが、これも人々が普段使用している通貨ではダメで、神殿のシェケルという通貨に両替し、納める必要がありました。
礼拝のために牛や羊、鳩が売られていたこと、神殿税納入の為に両替所が設置されていたこと。これらの制度自体は必要なものでした。ですから、イエス様がこれ自体に怒りを発したとは考えられません。
だとすれば、縄でむちを作って羊と牛を追い出す。両替人の金を散らし、台を倒す。鳩を売る者には、即刻出てゆくように命じる、その間、誰一人ことばを挟むことも、手出しをすることもできなかった程の怒りと行動、これは一体何故だったのでしょうか。
二つのことが考えられます。第一は、宮で売られていた羊、牛、鳩の値段が、宮の外、一般の世界よりも不当に高く、また、両替の際の手数料も法外で、商人が暴利を貪っていたのに、宮を管理する宗教指導者はそれを黙認、自らも収益を得ていたという事です。
このために、貧しい礼拝者の中には、供え物の購入も、税金支払いも叶わず、神殿に入ることができなかった者がいたと言われます。
「わたしの父(神)の家を商売の家としてはならない」というイエス様のことばは、この腐敗を突くものでした。同じ出来事を記すマタイの福音書には、「あなたがは宮を強盗の巣にしている」という、さらに凄まじいおことばが残っています。
第二に、犠牲の動物を売る施設と両替所が置かれていた場所の問題です。
当時の宮は、神殿を中心として、その周りに庭が配置されていました。先ずユダヤ人男子が入ることのできた庭、次にユダヤ人女子が入ることのできた庭、そして一番外側に異邦人、外国人の信仰者が入ることを許された異邦人の庭がありました。
動物を売る施設と両替所が置かれていたのは、この異邦人の庭です。しかし、外国人にとっては、ここが唯一神を礼拝し、神にお会いできる大切な場所でした。それを、羊や牛の鳴き声、商人の叫び声、銅貨の鳴る音、人込みの喧騒などで、誰も礼拝できないような場所にしてしまった。ここにイエス様の怒りが向けられたのです。
当時、制度それ自体は必要であったとはいえ、これを悪用、乱用して、貧しき人々や異邦人、外国人の神礼拝を妨げていた商人や宗教指導者。それでいながら、この宮こそ、神礼拝のための最高の場所、これある限り私たちは神に守られて安心として、人々は偽善と高慢に陥っていたという有様でした。
「わたしの父(神)の家を商売の家としてはならない」。宮は神が特別に親しくご臨在される場所、神を礼拝することが人の造られた目的とするイエス・キリストが、こんな酷い状況を黙って放っておくはずがなかったのです。
そして、このことばを聞き、行動を目撃した人々の間に、全く異なる二つの反応が現れました。弟子達は、イエス様を神を愛するがゆえに宮をきよめる救い主と見たのに対し、宗教指導者らは、反感と敵意を示したのです。
2:17,18「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。』と書いてあるのを思い起こした。そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。『あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。』」
「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」とは、旧約聖書詩篇69篇からの引用です。神礼拝を第一とする信仰者が、そのために身近な人、親しい人々からも非難され、苦しめられるのですが、それを喜びとして告白するという内容でした。
弟子達は、この信仰者と同じ、神に対する全身全霊の愛を、イエス様のことばと行動のうちに見出したのです。
しかし、神に対する愛から生まれたこの言動が、イエス様自身を食い尽くす、つまり、人々の手によって殺されるという預言的なことばが、やがて十字架で文字通り実現したことを、私たちは知っています。
前兆はすでにこの場面にありました。自分たちの罪の酷さを悟らず、神殿を誇りとする人々は、目を吊り上げて怒り、「こんなことをするからには、しるし、奇跡を見せてみろ」と叫び声を上げた、と言うのです。
しかし、人々の激しい敵意も反発も、イエス様を恐れさせるには足りませんでした。やがて、十字架に死ぬことを覚悟し、同時に死後の復活を見据えていたからでしょう。イエス様はこうお答えになりました。
2:19〜22「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」
「この神殿をこわしてみなさい」の「この神殿」とは、イエス様ご自身のからだのことを指すと、ヨハネは説明しています。つまり、「もし、あなたがたがわたしを殺しても、わたしは三日後に復活し、わたしを信じるすべての人の心に入り、そこを神殿としよう」というのがイエス様のメッセージということになりましょうか。
しかし、神殿を建物ととった人々は、「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」と、とんちんかんな答えを返しています。
ヘロデ王によって再建され始めた神殿は、この頃46年が経過。人目を惹く豪華絢爛な建物でしたが、完成はさらに先の紀元64年のことでした。けれども、神を礼拝する場所として腐敗、堕落しきっていたこの神殿は、完成間もなくの紀元70年、ローマ軍によって破壊されてしまうのです。
もっとも、この神のさばきを知っていたのはイエス様ただおひとり。人々はおろか弟子達も神殿崩壊など考えることもできず、謎のようなことばに首をひねるばかりでした。
しかし、イエス様は人々の無理解など承知の上。ここで十字架の死と復活を思わせることばを語られたのは、やがて来たる復活を通して、人々がご自分を神の遣わした救い主として信じるようになる、そのためのご配慮だったのです。
ところで、この時都エルサレムでイエス様が行われたしるし、奇跡は他にもあったようです。しかし、奇跡によってご自分を信じた人々の信仰、所謂奇跡信仰の浅さを、イエス様は見抜き、彼らを弟子として信頼されなかったことが記されています。
2:23〜25「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
これらの人々が、やがて手の平を返したように、「イエスを十字架につけろ」と叫び、キリストを嘲る者に豹変したことを思うと、イエス・キリストの十字架への道は宣教の最初からすでに始まっていたと感じさせられます。
さて、今日の箇所を振り返り、何と言っても覚えたいのは、イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊の神が住み、私たちは聖霊の宮となるということです。私たちはこの真理を信じているでしょうか。自覚しているでしょうか。今日の聖句です。
Tコリント6:19、20「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
教会の礼拝に出席はしているものの、聖なる神を覚えて、自分の罪を悲しみ、悔い改め、神の恵みと助けを切に願うことのない頑なで、高慢な心。身は礼拝の場にあっても、思うことは物欲、金銭欲、名誉欲など、まるで化け物屋敷のような心。
かと思えば、この世で生きてゆく上で必要、有用だとしても、仕事や家事、人との約束、趣味、電話、テレビなど自分のスケジュールだけで日々の生活を埋め尽くし、個人的な礼拝、神との交わりに取り組もうとしない、神への愛に欠けた心。
私たちの心という宮も、あのエルサレムの宮のように、いつでもきよめていただく必要があるのではないでしょうか。
聖霊の神様に助けていただいて、頑なな心、高慢な心、物や名誉や金銭を貪る心を焼き尽くしていただきたい。自分のスケジュール最優先で神との交わりを第二、第三いやゼロにさえしてしまう形式的な冷たい信仰を、神の愛で潤していただき、熱心で、充実したものとしたい。そう願わされます。
また、私たちがイエス・キリストを信じて聖霊の宮とされたということは、場所や時間に縛られず、いつでもどこでも、神礼拝をし、神と親しく交わることができるという恵みです。と同時に、いつでも、どこでも、何をしていても、神を礼拝する心、喜んで神に仕える心で生きる責任もあることになります。
クリスチャンとは、教会だけでなく、家庭にも、職場にも、地域にも、学校にも、生活のあらゆる分野に礼拝し、仕えるべき神がおられることを認めて生きる者です。
コロサイ3:23「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい。」
家庭において、私たち夫は妻に妻は夫に、親は子どもに、子どもは親に、主に対してするように、心から仕えているでしょうか。職場において、上司同僚に対し、主に対するように心から協力し、責任を果たしているでしょうか。地域において、隣人、弱き立場にいる人のために、主に対するように奉仕の手をささげているでしょうか。
そのような生き方を通して、神を礼拝して生きる者の祝福がどれほど素晴らしいものであるかを、私たち表してゆく者となりたいと思うのです。
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