2012年9月23日
礼拝メッセージ


「一書説教 申命記」
−いのちを選びなさい−
  聖書
申命記30章15〜20節

30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。
30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
30:17 しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、
30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
30:20 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。


  メッセージ
 人の本質は、何をもって幸せとするかに表れると言われます。もし「幸いな人」とはどのような人かと問われた時、皆さまはどのように答えるでしょうか。どのような人を思い浮かべるでしょうか。自分自身、何をもって幸いと言い、どのような人になることを目指すでしょうか。
 お金か、名誉か、地位か。ご馳走を頬張ることか、豪邸に住むことか、見目麗しいことか、権力を持つことか。家内安全か、商売繁盛か、無病息災か。願った学校に合格か、などなどと。どのような人が、本当に幸せな人なのか。
 旧約の詩人はこのように告白していました。

 詩篇119篇2節
「幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」

 聖書に記された神様の教えを守り行うこと。どのように生きるべきか、聖書に答えを見出すこと。これこそ「幸い」との告白。この聖書に従って生きることが人間にとって最上の生き方であるというのは、聖書のあらゆるところで何度も告白され、教えられているメッセージです。
 その通り。頭では分かります。この世界を創り支配されている神様の言葉が、他のあらゆるものよりも重要であること。その神様が私に願われている生き方をすることがどれ程幸いなのか。これは頭では分かります。しかし、私たちの本音はどうでしょうか。私たちの本質はどうでしょうか。このような旧約の詩人の言葉とともに自分の生活を振り返ると、聖書の教える幸いな人の生き方をしているだろうか。いや、そもそも、御言葉に親しむことを願っているだろうかと考えさせられます。
 今は一書説教を行っています。私たち皆で聖書に親しむこと。四日市キリスト教会の皆で、少しずつでも聖書全体を掴む作業に取り組むことを願ってのことです。しかし、これは大上段に構えて、「聖書を読むことは大事。」「聖書を読みましょう。」と言いたいわけではありません。私自身、聖書を読むことがまだまだ未熟。幼稚な読み方しか出来ないと自覚しています。
 そのようなわけで、皆さまにお願いがあります。私たち皆で聖書に親しむために、皆で祈りながら聖書を読み進めることです。私たち皆に御言葉の宝を見る目が与えられますように。私たち皆が神の言葉に感嘆する心を持てるように。私たち皆に他の人に知らせざるをえない感動を頂けますように。私たち皆が三位一体の神様のご人格に触れる味わい方を身につけることが出来ますように。私たち皆で、そのように祈りながら、一書説教で扱う書を実際に読むことをお願いいたします。

 今日扱うのは旧約聖書第五の巻、申命記です。
 神の民として選ばれていたイスラエル民族が、エジプトを脱出し、神様が与えると約束していたカナンの地へ向かう。さあ、カナンに入るという時、それまで散々神様の力を経験しながらも、「その地の住民は強く、私たちでは勝てない」と怖気づく。これは神様の約束を信じないことであり、神様の怒りを買うことになります。結果として、この時、(二人の者を除き)二十歳を越えていた者たちは、カナンに入ることが許されず、イスラエルの民は荒野で計四十年の生活を送ることになる。こうして、不信の罪に問われた者たちは荒野で絶え、その子どもたちの世代が、再度カナンに向かうことになります。これが申命記の場面設定です。
 申命記は、大指導者モーセの最後の時。出エジプトを果たした時ですら、高齢であったモーセが、この時百二十歳。出エジプトの時成人していた者たちで生き残っているのは、モーセを除き、ヨシュアとカレブのみ。これからカナンの地に入るのは、出エジプトの時に子どもだったか、荒野で生まれた者たち。第二世代が中心となる。その第二世代に対して説教をするのが、この申命記となります。

 申命記1章3節
「第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。」

 荒野での旅路の最後。人生の最晩年で説教をしているモーセの気持ちを想像出来ますでしょうか。出エジプトの際に経験した十の災い、海が割れたこと、ホレブの山で十戒を与えられたこと。これらを経験した者たちはいなくなり、あの時子どもであったか、まだ生まれていなかった者たちが目の前にいる。モーセの役割はここまでで、約束の地に入るという一大事業は、第二世代に委ねることになる。
 そこで、神様がどのようなお方か。神の民がどのような恵みを受けてきたのか、そしてこれからも受けるのか。どれ程必死に語ったのか。モーセの握りこぶしが見えるようです。自分が召される前に、何としてでも次の世代に伝えるべきことがある。遺言の重みを感じます。私たちが申命記を読む時に、このモーセの情熱と息吹きを感じながら読みたいと思うところ。
 ところで、この説教を第二世代の者たちに語ったとして読むと、すぐさま違和感を覚えると思います。その語り口が、第一世代に語っているかのようだからです。多くのところで見出せますが、例を挙げると、次のような箇所があります。

 申命記1章20〜21、26節
「そのとき、私はあなたがたに言った。『あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。・・・しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。」

 これは目の前でモーセの説教を聞いている人たちの、親の世代のこと。神様を信頼しなかったため、その世代が死ぬまで、荒野での生活となったのです。つまり、直接説教を聞いている世代の姿ではないはずなのに、モーセは「『あなたがた』は登って行こうとせず」と言うのです。何故でしょうか。
 それは、神様と神の民の関係を、他人事と思わないようにとの願いがあるからです。神の民は、神様の前でどのように生きてきたのか。自分のこととして受けとめるようにと、モーセは迫るのです。
 このような語り口は申命記の様々な箇所で見出せますが、極めつけは次のところだと思います。

 申命記5章2節〜3節
「私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きてる私たちひとりひとりと、結ばれたのである。」

 ホレブで契約を結ばれたと言えば、十戒が与えられた時のこと。今、説教を聞いている人たちからすれば、前の世代が神様から約束を頂いた出来事。しかしモーセは、「きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれた」と言い、それもわざわざ「私たちの先祖たちとではなく」と強調します。
 本来ならば、「先祖たちとも結ばれたし、私たちとも結ばれた」と言うところ。しかし、モーセは大胆にも「先祖たちではない。私たちと結ばれた」と言い切ります。第二世代の民が、「主は私たちのためではなく、先祖と契約を結ばれた」と考えることを、否定するのです。
 聖書の言葉を、神様が今日、ここにいる私に語られた言葉と受け取ること。これは聖書を読む上で最も大切な姿勢と言えます。この極意を身につけて、私たちも聖書を読み進めていきたいと思います。
 さて、申命記はモーセの遺言説教と見ることが出来ますが、その内容から、大きく三つに分けることが出来ます。前半は出エジプトから荒野での四十年間の回顧。一章から九章です。中盤は神と人を愛する具体的な歩み。十章から二十六章です。後半は神様に従うことの幸い。二十七章から最後まで。
 まずは前半から見て行きます。一章から九章までは、荒野での四十年間の回顧。聖書の中には、様々な人の説教が記録されていますが、歴史を振り返るというのはよくある一つのスタイルです。神様が私たちに何をして下さったのか。その時、私たちはどのように応じたのか。その結果がどうであったのか。繰り返し確認されます。
 どうぞ読んで下さい。そして、私たちがどれ程ひどいのか。それにも関わらず、神様が真実な方であるのか。味わって下さい。
 申命記の前半で特に覚えておきたい一つのことは、イスラエルの民がエジプトから助け出されたことの意味です。イスラエルの民は、奴隷であったエジプトから助け出された。何故だったでしょうか。ここまで確認してきたのは、イスラエルの民を、神の民として、使命を果たせるために、助け出された。単なる奴隷からの解放ではなく、神の民として使命を与えること。これが出エジプトという出来事にある神様の目的と考えてきました。
 しかし、別な視点もあることが、モーセの説教で確認することが出来ます。

 申命記9章4節〜5節a
「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させて下さったのだ。』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。」

 イスラエルの民が約束の地に入るのは、そこに住んでいた住人の悪があまりにひどく、その悪に対する裁きである側面があったのです。イスラエルに約束の地を与える。それは、カナンの地の住人に対しては、神様の裁きの意味がある。
 そう考えますと、これからイスラエルの民がカナンで生活を開始した後。神を無視して生きるようになる。神の民として使命を果たさないとしたら、次にはイスラエルの民が追い出される可能性があることを示唆します。そして事実、イスラエルの民の悪があまりにひどくなった結果、カナンの地から追い出される経験をすることになりますが、それは少し先の話となります。
 中盤は十章から二十六章まで。神を愛すること、隣人を愛することの教えが続きます。出エジプト記、レビ記、民数記に出てきた内容と重なる教えもありますが、約束の地を前に改めて確認されます。
 主を愛することは、偶像に仕えることと両立しないこと。異教の神々は取り除かれることが教えられます。そして、主を神とすること。それは主に礼拝においてあらわれますが、神様の望まれる礼拝が再確認されます。
 隣人を愛することも非常に具体的、微に入り細を穿つ教えとなっています。今回読みまして、このようなことまでと私が驚いたのは、次の箇所です。

 申命記22章8節a
「新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。」

 過失による事故を未然に防ぐ。これも隣人を愛することの一つでした。ここまで細かなことを言うとなると、他にも色々あるのではないかと思いますが、それは同様に考えるべきなのでしょう。隣人愛は、これほどまでに生活の細部に渡ることであり、具体的であると教えられるのです。私たちの神様への愛、隣人への愛は、人生のあらゆるところであらわされるものか、具体的なものであったか、考えさせられます。

 ところで、この中盤部分で鍵となる聖句は、次のところだと思います。

 申命記10章12節〜13節
「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」

 神様が私たちに求めていることは、神様の命令を守ること。そして、それは私たちの幸せのためでした。つまり、神様は私たちが本当の意味で幸せに生きることを願われている。愛する者が幸せに生きることを願われているからこその、具体的な教えでした。「神を愛するとは神の命令を守ることであり、その命令は重荷とはならない。」とのヨハネの言葉が響いてきます。私たちも申命記を読み、愛を実践することで、本当の幸せを味わいたいと思います。

 後半は二十七章から最後まで。神様に従うことがいかに重要であり、そうしないことがいかに不幸となるのか。(このことは、申命記の前半・中盤でも語られていましたが)繰り返し確認することになります。神様に従う時、祝福を受け、背く時にのろいを受けると。
 それでは聖書の言う祝福やのろいとは何でしょうか。表面的に読むならば、神様からの祝福は、人生の様々な分野での成功、特に経済的な成功と感じます。のろいはその反対。様々な分野での失敗。しかし、このような理解は表層的過ぎる理解でしょう。
 それでは、祝福やのろいをどのように考えたら良いか。神の民が神様に従い、もし経済的な成功を得たとしたら、それは何に用いられるのか。それは神を愛し、人を愛するために用いられるものです。つまり、神の民が神様に従い受ける祝福とは、ますます神の民としての使命を果たすことが出来るようになること。神の民が神様に従わず受けるのろいとは、ますます神の民として使命を果たすことが困難になることです。
 この神様に従うことで受ける祝福を、モーセは「いのち」「幸い」と呼び、のろいを「死」「わざわい」と呼びました。

 申命記30章15節〜20節
「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 私たちの前には二つの道。祝福の道か、のろいの道か。いのちの道か、死の道か。幸いの道か、わざわいの道か。モーセは必死に「いのちを選ぶように」と勧めます。いや、モーセを通して主なる神様が私たちに願われていると言って良いでしょう。「いのちを選ぶように」。この呼びかけに、私たちはどのように応じるでしょうか。
 「いのちを選びなさい。」この時、モーセを通して語られたメッセージが、新約の時代、パウロを通して語られていると思います。今日の聖句に選びました。皆で読みたいと思います。

 コリント人への手紙第二5章20節
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

 私たちが命を選ぶというのは、まずはイエス・キリストを救い主と信じることからです。本来ならば私が受けるべきのろいを全て引き受けて下さった救い主。本来ならばイエス様が受けるべき祝福を、私に下さるという救い主。このイエス・キリストを我が救い主とすることが、いのちを選ぶことの第一のことです。
 そして、キリストを信じている者は、このイエス様とともに人生を生きていく。キリストに頼りながら、神様の命令に従って行く。それが、いのちを選ぶことです。
 私たち皆で、祈りながら聖書を読み進めて行きたいと思います。そして私たち皆で、キリストに頼りながら、神様の命令に従って行きたいと思います。神の民として、多くの祝福を受けながら、ますます神の民としての使命を果たしていくものでありたいと思います。


四日市キリスト教会 大竹 護牧師