2012年9月30日
礼拝メッセージ


「神は世を愛された」
  聖書
ヨハネの福音書3章16〜21節

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。


  メッセージ
 今日取り上げるヨハネの福音書の最初のことば、3:16は聖書中最も有名なもののひとつです。
 「たとえ聖書全部が失われても、ただこのことば一つあれば、神の救いのなんであるかをわきまえることができる」。あるいは「これは新約聖書の富士山である」、さらに「この一節は聖書の縮図、また小さな福音書である」など、3:16を評価することばは数多くあります。
 恐らく、皆様の中にも、これを愛唱聖句としている方、心に覚えている方、親しんでいる方が沢山おられることでしょう。
 ヨハネ3:16を「小さな福音書」と呼んで尊んだのは、宗教改革者のルターという人ですが、ルターはたとえ話を用いて、このことばの重要性を説いていました。それは、このようなものです。
 ここにある一人の物乞いの男がいる。人に恵みを与えてもらわないと、飢え死にしてしまうほど困り果てている。そこにひとりの紳士がやってきて、毎年、あなたにこれこれの収入を与えようと言って、彼を一人前の男として尊び、待遇しようとした。しかも、何の報いも求めなかった。
 ところが、この物乞いは申し出を拒否した。世間の人はこれを知って、この男を糾弾した。何ということをするのか。それ程の好意を感謝して受け取るのが礼儀、常識というものではないかと。
 しかし、私たちも同じことをしてはいないか。父なる神は、そのひとり子を私たちに与えようと提供してくださった。これは高価な物や財産を与えるなどというようなものではない。しかも、神はただでこの贈り物を私たちに差し出し、受け取って欲しいとだけ言っておられる。
 しかし、神のこの愛の申し出に背を向けて断る人々がいる。「私には神の愛は必要ありません。自分の力で人生を歩んでゆけます」。そう言って受け取らない者がいる。それは、他ならぬ私たちだというのです。
 私たちは、それほどに愚かで、頑なな心の持ち主であることを自覚して、このことばを日々自分に言い聞かせるべきではないかというのです。
 この夏、私は家族で八ヶ岳にある蓼科山という山に登りました。蓼科山は諏訪富士と呼ばれ、富士山のような形をした優美な山です。
 頂上に立って見渡すことのできた360度の大パノラマ。吹き渡る涼風の心地よさ、山の濃い緑と青い空のコントラストの美しさ、瞬間瞬間姿を変え、空を流れる雲の面白さ。大自然という、神が人間のために創造し、与えてくださった贈り物に身も心も浸りきって、時が経つのも忘れる幸いを味わうことができました。
 しかし、神からの最高の贈り物といえば、私たちの罪を身代わりに背負って、十字架に死んでくださった神のひとり子イエス・キリストを置いて他になし、と教えるのがこの3:16です。
 皆様は、神のひとり子という尊い贈り物をどれ程感謝しているでしょうか。自分の愚かさ、頑なさを思い、日々このことばを心に言い聞かせているでしょうか。日々、神様の差し出す愛の贈り物、イエス・キリストを受け取り、喜んでいるでしょうか。
 普通キリスト教初心者向けと思われているこの一節が、クリスチャン生活のベテランも何度も味わうべき大切な意味をもつことを覚えながら、今日の箇所をともに読み、考えてみたいと思います。

 3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 「神は、世を愛された」の「世」ということばには、二つの意味があると言われます。ひとつは、ユダヤ人だけでなく世界中のあらゆる民族、あらゆる国民という意味です。
 二つ目は、人間を特別な愛の対象として創造した神を離れ、神に背を向けて生きるすべての人間たち、聖書のことばで言うなら、すべての罪人たちを指します。
 ですから、「神は、世を愛された」ということばには、人を分け隔てしない神の愛の広さと、ご自分に背き、ご自分を無視して生きる、そんな罪人を愛してやまない、神の愛の深さが込められていると考えられます。
 しかも、神の愛の広さと深さ、人の思いを遥かに超えた無限大の愛の程は、神が私たちに与えてくれた贈り物がひとり子のイエス・キリストであったという事実により、誰の眼にも明らかになりました。
 「神のひとり子」とは「神の懐にいた子」、「父なる神の懐に抱きしめられていた、かけがえのない大切な子」という意味です。永遠の昔から、父なる神と子なる神キリストは一心一体の交わりをしておられた、離れることなど考えようもない愛の交わりの中に生きてこられた、と言うのです。
 普通、人間が一番大切に思うものと言えば何でしょうか。自分の命でしょう。しかし、子を持つ親となった者は、「我が子は自分よりも大切、子どものためなら自分が犠牲になっても良い」という思いを抱いたことがあるのではないでしょうか。
 人間でさえそうであるなら、愛の源にまします神がひとり子を大切に思う、その愛の深さはいかばかりかと思われます。
 しかし、神はそのひとり子をこの世に下し、最も残酷な刑罰とされる十字架の木につけ、罪人を救うための贖いの死を与えました。
 父が罪人の罪を背負った子をさばき、子は罪人の代わりにそのさばきを受けて十字架に死ぬ。「生木が裂かれるような痛み」と言いますが、本来一心一体、愛し合う父と子が愛される価値のない罪人のため、ともに引き裂かれるような痛みを負ってくださったのが、十字架の死という出来事だったのです。
 そして、この尊い愛には目的がありました。それは、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とヨハネは語ります。
 ここで言う「滅びる」とは、肉体の死によって私たちの存在が消えてなくなる、という意味ではありません。聖書において「滅びる」とは、神による最終的なさばき、または永遠の死と言われること、イエス・キリストを信じなかった者が神の愛の全くない世界、ゲヘナ、地獄で永遠に生きることでした。
 神は私たちがこのような滅びにいたることがないように、むしろ、神を父とし、また友として親しく交わる永遠の命に生きるよう、人を分け隔てず、どんな深い罪の中にいる者をも、優しく招いておられるのです。
 「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」ということばには、人類の先祖アダムが罪に落ちて以来、罪人の救いの為に全身全霊尽くしてこられた神の熱心が感じられます。
 しかし、です。この神の熱心に対して、人間の側は自分の救いのことなのに実に不熱心であった。不熱心どころか、多くの人がこの神によるよき知らせを信じることなく、贈り物であるひとり子を拒んできたことを聖書は教え、その現実は今も変らないのです。
 皆様は、神に対して人間が行う最大の罪は何か、考えたことがあるでしょうか。人を殺すことか、姦淫か、嘘をつくことか、貪欲か。いずれも罪とされるものですが、神からの贈り物、救い主イエス・キリストを受け取らない、信じないということは最大の罪です。
 何故でしょうか。殺人も、姦淫も、嘘も、貪欲も、それを悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、すべて神に赦される罪だと聖書は教えています。
 しかし、イエス・キリストを拒む時、神はその人が罪の中で生きるままに任せるのです。そして、そのような人生は最終的な滅びに至るからでした。

 3:17〜18「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない」。神がイエス・キリストを世にくださったのは、あくまでも罪人を救いたいという神の願いによるもの、本来の目的は救いであることを、ヨハネは重ねて強調しています。
 ですから、「イエス・キリストを信じない者は、すでにさばかれている」と聞く時、私たちは、ご自分の差し出した贈り物を受け取らず、離れていった人々の人生をご覧になって、心から残念に思う神の御顔を思い浮かべるべきでしょう。
 それにしても「すでにさばかれている」とは、一体どういうことなのでしょうか。先程の「滅び」は、私たちの死後になされる神の最終的さばきでしたが、「すでにさばかれている」のさばきは、この世においてキリストを信じない人が受けるさばきをさす、と考えられます。そのさばきとは、心に罪を持ったまま生きるということでした。

 3:19〜21「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

 「世に来た光」とは、もちろんイエス・キリストのことです。ヨハネの福音書では、キリストを「神のことば」と呼んでいますから、神のことばと考えても良いでしょう。
 イエス・キリスト、神のことばは私たちの心の闇を照らし、そこに隠れている罪の思い、習慣、行いを明らかにしますから「光」と言われます。
 私たちと妻は七年の交際の後、結婚しました。交際期間が長かった為か、妻は私の弱点を良く知り、結婚して遠慮がなくなると、しばしばそれを指摘するようになりました。
 妻は忍耐強い性格ですので、多くの場合やんわりと注意しますが、それでも聞きにくい気持ちがしました。ムッとするのです。
 それが、さもあきれ果てたという表情で言われた場合など、相当腹が立つわけです。自分のダメさ加減を認めたくなくて、相手に反撃してしました。「あなたの言うことは分かるけれど、その言い方は何だ、その態度は何だ」と理不尽に怒るのです。その指摘が当たっていないからではなく、実に当たっているから、真理だからです。
 「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」私は結婚生活を経験して、このことばの意味が分かったように思います。つくづく自分は、普段隠している本当の姿を明らかにする光を嫌がり、欠点を修正しない現状維持の闇を好む人間であること、光よりも闇を愛する者であることを思わされたのです。
 私たちは、たとえ、大切な家族からのことばであれ、私たちを愛してくれる神からのことばであれ、それが光となって心の闇を照らす時、それを嫌い、無視する性質を持っていることを自覚しているでしょうか。
 しかし、このような私たちも、神の前に自分の弱さを、救いがたい罪の性質を認める時、光なるイエス・キリストが助けであり、救いであることを知るのです。
 星野富広さんというクリスチャンがいます。星野さんは群馬県の中学校で体育の教師をしていましたが、授業中の事故で首から下が全く動かなくなるという苦しみを味わった方です。
 その星野さんが、どのようにして神のことばである聖書に近づきいったのか。このように証しされています。
 「実は、聖書を開くのには、随分抵抗を感じていました。『あいつは苦しくて、とうとうキリスト教という神様にまですがりついたのか・・・』と、周りの人たちに思われるような気がしてならなかったのです。ですから、聖書を開くのに、自分でもいろいろな理由を考えてみました。歴史の勉強になる。たいくつしのぎ。先輩の好意を無駄にしないため。
 でも、本当の気持ちは、自分が一番良く知っていました。黒い表紙のその一冊の中には、こんな私をなんとかしてくれるようなものがあるような、ひそかな希望があったのです。
 怪我をしてまったく動けなくなり、気管切開をして口もきけなくなった時、そういう日が何日も何日も続いた時、私は自分の弱さを、しみじみ知らされました。
 私は体力に自信があったため、いつのまにか体を動かすことによって何でもできると錯覚していたようでした。自由にしゃべれるため、ことばで自分をごまかし、いつの間にか、それが本当の自分だと、勘違いしていたようでした。
 しかし、動く事も、喋ることもできずに寝ている毎日は、おおっていた飾りをすべて剥ぎ取られた本当の自分と向き合わせの生活でした。本当の私は強くもなく、立派でもなく、たとえ立派なことを思っても、次の日にはもういい加減な事を考えているだらしない私だったのです。鍛えたはずの根性と忍耐は、怪我をして一週間くらいで、どこかにいってしまいました。
 幸せな人を見れば、憎らしくなる自分。眠れない夜は、自分だけがおきているのがしゃくに触って、他の人を起こす自分。ちょっと熱が出ただけで大騒ぎして、周りの人の同情を買おうとする情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。」
 こうした経験を通して、星野さんは、聖書は自分が怪我をすることなど夢にも思っていなかったずっと前から神様が用意してくれたことば、イエス・キリストは、こんなにも情けない者のために用意された救い主であることを信じるに至ったのです。
 悪いことをする者、つまり神の愛を拒み、自分を信頼する人は光なるイエス・キリストの方に来ない。しかし、真理を行う者、即ち心から自分の罪を認め、神の愛を必要と思う人は、イエス・キリストのほうに行く。
 私たちひとりひとり、このような意味で、日々真理を行なう者として歩みたく思います。今日の聖句です。

 3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師