2012年9月9日
礼拝メッセージ


「新しく生まれなければ」
  聖書
ヨハネの福音書3章1〜15節

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」


  メッセージ
 「お笑いの聖地」と言えばどこのことか、皆様はご存知でしょうか。それは大阪です。
 街頭インタビューで、他の地域では、多くの人が至極まとも、真面目に答えるのに対し、大阪では殆どの人が突っ込むか、ぼけるかして、笑いを取ろうとする。小さな子どもから大人まで、二人集まればお笑いコンビのように喋る。それがまた面白い。他県の人が真似しようとしても、ちょっとやそっとでは真似はできません。
 落語でも、古典と伝統を重んじる東京の落語に対し、上方落語はサービス精神満点で、「お客さん、笑わにゃ損でっせ」とばかり、話の枕で客席を大いに盛り上げる。大げさに言えば、全員が噺家、漫才師のような町という印象があります。
 ある大阪の落語家がラジオで、「大阪人のような笑いの芸を身につけるには、何年かかるでしょうか」という質問に対し、「そりゃあ、何年ともいえませんなあ。大阪人として生まれなければ難しいんやないやろか」と答えていました。
 この世には、どんなに努力しても無理なことがある。新しく生まれなければ、生まれ変わらなければ不可能なことがあるという一例です。
 今日のお話は、聖書にも同じ真理があること、イエス・キリストがニコデモという人に「新しく生まれる」事の必要性を説いて神信仰に導く。その様な箇所となっています。

 3:1、2「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』」

 さて、ここに登場するニコデモはパリサイ人であり、ユダヤ人の指導者でした。
 パリサイ人とは、ユダヤ教の伝統、慣習に熱心な人々で、一般的には先祖伝来の戒めを守り行うことによって、神の前に義と認められる、救われると考えていました。
 また、「ユダヤ人の指導者」ということばは、ニコデモがサンヘドリンという議会の議員であることを示し、そのメンバーはわずか七十人、彼がいかにエリートで、社会的地位の高い者であったかが分かります。
 それから、ヨハネの福音書の後のほうを見ますと、ニコデモはイエス・キリストの埋葬の為に自分の墓をささげるほど裕福であったことも伺えるのです。
 熱心な宗教者、ユダヤ社会のエリート、それに加えて富も。世間の常識からすれば、理想的な人生を歩む人と見えるニコデモ、人として持つべきものはすべて持っていたと思われるニコデモが、どうしてイエス様の元を訪れたのでしょうか。
 この後のイエス様のお答えからすると、人の目からは理想的とも見えるその人生に、ニコデモ自身は何かの欠けを感じていたのではないか。特に、神の国に入ること、永遠の命を得ることについて不安を覚え、ために、尊敬するイエス・キリストに教えを乞うべく訪問したのではと考えられます。
 それにしても、わざわざ夜を選んだのは何故だったのか。ずばり、人目を憚った、人の眼を恐れたためでしょう。
 既に、都の宗教指導者の多くは宮きよめを行い、自分たちの領域を侵したイエス・キリストに反発、敵意を抱く者もいました。そのような中、「パリサイ人で議会の議員である自分が、イエス・キリストを神からの教師として尊敬し、教えを乞うために訪問した等と言うことが知られたら、仲間たちは一体どう思うだろう」、そんな不安を抱いたニコデモが保身のため選んだのが、世間に知られずに済む深夜の訪問だったのです。
 そう考えると、「私は」ではなく、「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」ということばも、及び腰の信仰の告白と見えてきます。「私は知っています。私は信じています」と言わず、「私たちは」として、自分をその他大勢の中にぼかしているように感じられます。
 さらに、「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」と言うことばからは、彼の信仰がもっぱらイエス・キリストの行ったしるし、奇跡に心惹かれたもの、奇跡信仰であったことが分かります。
 つまり、ニコデモの信仰は、人眼を恐れる弱々しい信仰、おっかなびっくりで及び腰の信仰、いつひっくり返るか分からないような浅い奇跡信仰でした。
 しかし、そんなニコデモをイエス様は受け入れ、救いの信仰へと導かれたのです。

 3:3、4「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。』」

 神の国とは、世界地図にある日本やアメリカ等のように、地上に領土を持つ、この世の国ではありません。神の国は、神を信じる人の心に存在します。ですから、神の国を見るというのは、神の救いにあずかり、神のみこころを第一とし、心からそれに従う幸いな人生に入ること、と言う意味になります。
 しかし、その様な人生を望んでいたはずのニコデモは、「新しく生まれなければ」というイエス様のことばを誤解し、頓珍漢な返答をしてしまいました。
 「自分のような老人が、どうやって老年になっていて、もう一度、母の胎にはいって生まれることができますか」。イエス様は、霊的な新生、神によって新しく生まれることを教えましたのに、ニコデモは文字通り母親から生まれることと思い込んでしまったのです。
 それでも、イエス様は忍耐深く、同じ真理をことばを変えて説明されました。しかも、分かりやすいようにと、風のたとえも添えるという親切、熱心です。

 3:5〜8「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。』」

 水は汚れを洗い清める働きがありますので、罪が洗い清められることのシンボル、御霊は霊的な命を指します。「人は、神に罪を洗いきよめてもらい、霊のいのちをいただかなければ、神の国には入れない。仮に肉の親から生まれたとしても罪人のまま、御霊の命をもらい、新しく生まれることこそ肝心要。」これが、イエス様のメッセージです。
 それでもニコデモが不思議そうな顔をしていたためでしょうか。有名な風のたとえを語られました。
 私たちは風がどこから来て、どこへ行くのか分かりません。風そのもの捉える事はできません。しかし、窓ガラスが音を立てるを耳にし、道路の木の葉が舞い上がるのを見て、風の存在を知ることができるのです。
 同じ様に、いつ、どのようにしてかは分かりませんが、生き方、考え方の変化を通して、私たちも自分が御霊によって新しく生まれたかどうかを知ることができると、イエス様は教えてくれました。
 神に無関心だった者が神を知ることを求める者に、神に背を向けていた者が神を愛し、心から神に従う者に、自分の思いを中心に生きていた者が、神の喜ばれる生き方をしたいと願う者に。この様な変化によって、私たちは自分が神によって新しく生まれた者であることを確認、確信できますし、すべきなのです。
 ところが、です。旧約聖書にも、神によって新しく生まれることが教えられ、その恵みが証しされているにもかかわらず、そして、イエス様がこんなにも親切に教えてくださったにもかかわらず、ニコデモは頑なに受け入れようとしませんでした。

 3:9〜12「ニコデモは答えて言った。『どうして、そのようなことがありうるのでしょう。』イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。』」

 イエス様にお叱りを受けるほど、霊的な真理に鈍かったニコデモ。宗教の教師を自負しながら、神が罪人を新しく生まれ変わらせるという恵みを悟ることができなかったニコデモ。聖書読みの聖書知らずだったニコデモ。
 ここで、「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません」と言われた時、「わたしたち」はイエス様と旧約聖書の預言者たち、「あなたがた」とは、ニコデモとニコデモと同じく霊的な真理に鈍い人間すべてを含んでいると考えられます。
 ニコデモも私たちも、どうして人間は神による新生、新しく生まれることの恵みを悟らず、求めないのか。それは、自分の罪の酷さ、悲惨さを知らないため、また地上の物により頼み、自己満足しているので、心から神の救いを必要としていないからではないでしょうか。
 宗教に対する熱心さ、地位、人々の信頼、富など、ニコデモのように良いものに恵まれていればいるほど、人はそれにより頼み、満足し、「何も、神に助けてもらう必要など無いではないか」と考える者です。
 ニコデモほどではないかもしれませんが、私たちの中にも自己信頼、自己満足の思いは存在します。神の恵みと導きが無ければ、永遠の死しか待っていない罪人であることを悟らず、神の救いを必要と思わない霊的な鈍さ、霊的な死の状態にあることを、私たちニコデモの姿を通して、教えられたいのです。
 そして、事実ニコデモがどんなに霊的な真理に鈍くとも、イエス様の愛は尽きませんでした。ニコデモを叱りつつも、その心を神の救いへと導くため、イエス様はご自分が天から下ってきた目的について語られたのです。

 3:13〜15「 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 人の子とは、イエス様が救い主としてのご自分を人々に紹介する時、よく使われることばです。旧約聖書には、天から地上に下る救い主として人の子の登場が預言されていました。
 また、「モーセが荒野で蛇を上げたように」は、エジプトから助け出されたイスラエルの民が荒野を旅する途中、至れり尽くせりの神の守りを受けながら、神に背いたため、神のさばきを受け、多くの民が蛇に咬まれて死んだと言う事件が背景にあります。
 この時、人々が悔い改め、何とかこのさばきから助けて欲しいと神に祈りましたので、神が救いの道を開き、定めたのが、青銅の蛇を作り、竿の上に掲げるなら、この蛇を仰いで、見る者は救われて生きるという方法でした。
 イエス様はこの出来事を、神がご自分に与えた使命を教えるものと受けとめていました。ですから、「救い主であるわたしも、あの竿に上げられた蛇の如く、十字架の木に上げられ、その死をもって滅ぶべき罪人を救うため、天から下ってきた」と宣言されたのです。
 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」この締めくくりは、ニコデモをはじめとする救いがたい罪人を愛したもうイエス・キリストの、「わたしを信じる者は誰でも新しく生まれ、永遠の命をもつことができるのだよ」という優しい招きのことばとなっています。
 今日の箇所、イエス・キリストとニコデモのやり取りを振り返り、私たち改めて確認したいことが二つあります。
 ひとつは、それが人眼を恐れるような弱々しい信仰であっても、最初は霊的な真理を悟ることのできない鈍く、未熟な信仰であっても、信仰を持って近づく者を必ずや救い、その尽きることなき愛と熱心により成長させてくださるお方だということです。
 今日見ましたように、ニコデモの信仰は弱々しいもの、鈍く、未熟なものです。しかし、イエス・キリストの熱心な導きにより、新しく生まれ変わったニコデモは、やがて、イエス・キリストを敵視するユダヤの議会で、ただひとり立って、キリストを弁護する者となりました。
 イエス・キリストが十字架に贖いの死を遂げた折には、キリストの遺体を自分の墓に入れるようローマの役人に依頼し、その信仰を公に証しました。多くの弟子がキリストの元を離れ、逃げ去ったのに、ニコデモは主の愛に応えて、勇気ある献身を示しました。
 私たちも、自分の信仰が人を恐れ、世間を恐れる、あまりにも弱々しいものであることに失望したことは無いでしょうか。この世のものにより頼み、神の助けを切に求める熱心さに欠ける信仰を情けなく感じたことは無いでしょうか。年数ばかり重ねても、霊的な真理を悟るに鈍い信仰を嘆くことは無いでしょうか。
 しかし、そんな私たちの弱さ、鈍さ、不熱心な信仰を補って余りある熱心な愛と導きを、イエス・キリストは注ぎ続けてくださることを覚えて、安心したいのです。
 二つ目は、イエス・キリストを信じる私たちはすでに新しく生まれた者であること、私たちの内にある霊の命は、今やがて来る完成に向かって成長しつつあることを自覚したい、と言うことです。

 Uコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 イエス・キリストを信じて新しく生まれたと言うことは、私たちがちょっと道徳的な人間になるということではありません。私たちの人生のすべての面が、神の喜ばれる新しいものに変えられるということです。
 神の視点でこの世界を、自分を、そして隣人を見るようになること。神が愛してくださったように人を愛することが最高の価値となること。教会生活も、家庭生活も、仕事も、趣味を楽しむ事も、すべてを神を喜び、神の栄光を表すために行うこと。
 神は私たちが変えたくない、そのままにしておきたいと願うような性格や考え方、習慣にも、神は手を伸ばしてくるでしょう。その時、私たちが古い罪に死に、むしろ神の御心に従い、神に協力すること。これが私たちの責任であることを自覚し、たとえ何度失敗しても、イエス・キリストの愛を思い、チャレンジし続ける。この様な歩みをする者となりたいと思います。


四日市キリスト教会 山崎俊彦牧師