第11話 記憶
時間軸がずれる。
コクリコクリと。
『さよなら、ミツアキ様。お別れですわ』
『……ティアーナ』
天使のように、無邪気な笑顔をよせる少女は、愛しい人の頬に、儀礼用の唇を寄せた。
公でキスの真似事をしたのは初めてだ。
すがりついて離さないのは、はしたないと思ったのか、すぐに押し離して、手を振る。世界を救った勇者は、役目は終えたのだ。自分の役目も終わり。つまりこれで、……光昭を、彼の元いた世界に帰さなければならない。
巫女姫の心は、打ち震えていた。これから先、起こそうとする出来事に。
やめておけばいい。その常識に、真正面から真っ黒な蓋をした。
許されないことだと知っている。
巫女姫が恋して一人の男性に愛を捧げることは、災いなす禁忌だった。
今、その禁忌を侵そうとしている。
アマツセナの世界全てに背を向けて。
……この先には幸せが待っている。
……きっといかなることがあっても後悔しない喜びが待っている。
それは、巫女姫自らが、世界を裏切るに値する何かなのだろう。
『なあ、……俺、帰ったらティアーナのこと、忘れてしまうのかな』
『そうかもしれません。アマツセナの世界も、ここで経験したことも、皆記憶に残らないかもしれません』
ぼかして答えたが、掟でそれは決まってしまっている。…光昭は、アマツセナのことを忘れてしまう。
『……そんなのって、ないよな。お前のこと、覚えてないなんて』
残念そうに、光昭は、ティアーナにひとりごちた。いつもより明るい調子で、照れを隠そうとする青年は、不器用に自らの想いを意思表示する。
…ドキッとする。あなたは……、と思う。
現の世界に戻って、ごく普通の男性として老いていくのだ、と。
勇者だったことなんて忘れて、現に揉まれて精一杯になっていくのだ、と。
ごく当たり前に歳を取り、自然にそれを受け入れるのだ。
それが分かっているのに、私は……と思う。
愛しています勇者様。
言葉は恥ずかしくてうつむいてしまいそうだった。とても言えそうにない。
彼をこの世界に繋ぎとめることはできず、そしてこれが永遠の別れとなる。
……恋しい。
痛いほど恋しい。
どのようになっても構わない。
ぼろぼろに、罪を咎められても、良心の呵責が一生続いても。
彼と一歩を歩いていくのなら、その一足ごとが針のように痛んでも嬉しい。
ずっと見守り続けよう。あなたをいつどのような時にでも支えよう。
たとえ勇者の片鱗がなくなってしまっても、あなたは私の大切なひとだ。
『絶対、……ティアーナのこと、忘れないから、安心しろ』
『名残惜しいですわ』
『本当言うと、連れて帰りたい』
光昭が半分冗談、半分真剣な瞳で、笑ってみせる。
ティアーナもつられて、うんとうなづいてみせる。
……たまらない。
好きでたまらない。
私は、世界のおもちゃじゃない。道具じゃない……。
運命のあやつり糸なんて、叩き切って……。
このひとについていかせて。
『ティアーナ…』
『何でしょうか』
ぼんやりとした巫女姫の返事は、心ここにあらずという風に、沈んでいた。
そこに、あ、と身構える間もなく、引き寄せられて、唇に、温かいものがあたった。
ちゃんとした、口づけ。キス。
アマツセナに短くもなく過ごせば、それがどんなに罪事か分かってやっているはずだった。確信犯だろう。
優しくて、強い想いが幸せで幸せで。
涙が出そうだった。
『さよなら。絶対忘れない』
……もう我慢できなかった。
そっと手を握った。ぐっとたぐってきつく固めた。
迷いを振り切って、光昭の瞳を真っ直ぐに見つめた。
『一緒に……』
支えあって生きましょう。
現の世界で、あなたを包む唯一の女性になりたい
だから、置いて行かないで。
もしも、私を覚えていないなら、初めからまたやり直せばいい。
恋し直せばいい。
あなたが………好き。
『ちょっと早いな……』
耳元で何か囁かれる。落ち着かないぎごちなさで。
……プロポーズだった。
『……ぁ』
『ごめん。幸せにできるかどうか分からない』
こういうことは初めてなのか、初々しい照れが、光昭に走っていた。
繋がれた手は、結ばれた手。
+
……がばっ、と光昭は気恥ずかしさから、起き上がった。
ほぼ垂直に身を起こし、ベッドの上で汗をかいていた。
…何だ、今の光景。
「……ようやく目覚めたか」
しかも、傍についていたのは、神政官のスゥトで、光昭は、げっ、と、嫌そうな顔をした。
「何故、お前がいる」
「巫女姫を抱いたまま、城門もくぐれず、行き倒れ掛かっていたお前を助けたのは、……俺だ」
不躾で愛想のない言葉が返ってきた。
光昭が戸惑っていると、礼などいらないと言わんばかりに、見下した瞳で、フンと笑って流した。
不遜な態度。居心地が悪くてしょうがない。
彼が首から掛けている似合わない聖なる偶像の飾りは、本当にただの装飾だと実感できる。彼が神を信じて、敬っているとは思えない。平気で天の者を殺めそうな、そんな不安さえさせる。
一番助けてくれなさそうな人物に助けられたと光昭はぽかんとしていた。
何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
「巫女姫は逃げたぞ」
「……え」
降りかかった言葉に、光昭はまともな言葉が出なかった。
…逃げた?
「隣の部屋で眠らせていたが、様子を見にいくと姿は消えていた」
「まさか一人で…」
加奈子と自分の関係を告白したティアーナが、光昭と顔を合わせることを拒んだことは十分考えられた。だが、どこへ。
城の外は危険で、弱った巫女姫が容易に出向ける場所はない。
俺のせい……。
「ちょっと出かけてくる」
ベッドを蹴るように起き上がると、光昭は入り口へ走った。
夢の中のキスを思い出して、妙な恥ずかしさが湧くのだが、あれは自分ではない。……20年前の自分…?
……あ、と、白い空白が、彩色されて一瞬手に落ちた。
封じられている記憶が、ある。どこかに……。
妻。
俺が、妻を思い出せないのはおかしい。ティアーナが分からないのはおかしい。
何だろう、この邪魔しているものは。
ティアーナの名前を呼びながら、光昭は城の内部を走り回っていた。それは同時に妻の名前とも心の中で重ね合わせながら、真っ直ぐに響いていた。
第11話 end
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