第18話 揺れる心
もうどうでもよくなる感覚というのは、極上の快楽に似ている。気持ちよすぎて、意識も記憶も全て飛んで、静かに暗闇に転がっていくような昇天の図式そのものだ。
あ……、と、声が出そうになって、かすれた濁音の咳でごまかす。図書室には、彼以外誰もいないというのに、どうも恥ずかしいものがあるらしい。
目をやる小さな日記帳には、小さな文字。
その綴りをたどりながら、腰が立たなくなるような、ショックと震えに襲われる。
同時に呆然と、解放されたい気持ちにもなる。
妻の心がもたらす影響に、夫は揺れに揺れ、そして戸惑い悩んでいる。
温かいものに、じわっと嵐のごとくかき回され、その裏に潜む暗いものに、素のままたたき落とされる。
”ときどき、照れてすぐ本当に言いたいことを隠してしまう。その後尋ねても言ってくれない。困ったもの、だけれど、そこが好きだ。もっと喋ってくれればいいのに”
悪かったな、と、言葉にするでもなく、心でぼやいた。妻の日記は、このように夫をやじった言葉が目につく。
ときどき、ああこうしてやればよかったかなと、時遅くも思って途中でやめる。柄ではない。
また、はっきりと本音が書いてあって、思わず眉を苦くしてしまうようなものも少なくない。
俺は知ってる……。
何でこんなことをしているのか………………。
バタンと、突然日記を閉じると、光昭はその小さい物体を潰そうとでもするかのように、きゅっと胸に押しつけうつむいた。
もうちょっと、努力すればダンディに見えるのに、などと夫に向けて書く妻。日常では、ほとんど言わないのに、日記に山盛り、思いを込めていた妻。…………そう、この日記というやつは、ずっと、静かに、「勇者」を見守り、愛してきた、健気な、その、証拠……
会いたい……。俺は加奈子に会いたい。会いたい…………!
もうどうでもいいくらいに、ただ、それだけ。妻に……。
白
と
黒。
図書室の椅子に腰かけ、前屈みになっていたはずの身体は、不意に膝にあたる冷たいごつごつした地面に、びくんと反応した。
固く雑な人工の「土」。クロスした白と黒の落書き。アスファルトと横断歩道。
…………信号!
黄色を過ぎて赤が灯った。
十字路になっている横断歩道の真ん中に膝ついている自分を見つけて光昭は、驚いた。
あれ……、何で……。
左側に車が何台か並んでいて、冷たい目で光昭を見下ろしている。
背広を着込んだ自分は、出勤途中か……?
現実…………
な、はず
……あるわけないじゃないか。
よく見ようと左右を見回した瞬間、視界が驚くほどぽっかりと開いた。
信号が消え、雲と天が目前に広がった。
青く健康的な青空ではなく、多少黄色く夕焼けでも向こうにあるのかと思わせるような、色合いの空だった。
ただ、光昭が、神々しい空虚な視界を目にすると同時に悟ったのは、……ここは先程と一緒の場所、……アマツセナの図書室だということだった。座っている椅子も変わらない。
一瞬して、目の前が、破壊されているから、空が広がっているのだということに気がついた。
そして、傍に寄るものの存在にも。
天使か……
悪魔か……
そのどちらでもないと光昭は判断した。人の形より、幻想的に変化した「愛する人」。
加奈子、は澄んだ表情で笑っていた。
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……図書室の一方が崩された先に広がる、神々しい空虚さが、妻が「やった」という事実をリアルに感じさせた。
腕を伸ばせば届くほど。こんな近くにいるということを、半ば信じられない気持ちでいる。触りたい。触れたい。同時に、光昭は、恐れている自身に苦々しく活を送る。
目が合う。
エプロンをつけて台所に立つ妻とはまた違った、艶めかしい、「あやかし」のような感じだと、光昭は思った。人じゃない。けれど……。
言わんとすることは、彼女によって妨げられた。
突然、天上のまた一方が崩れてきたからである。ふわふわした白いレースのようなオーラが、妻のもとから伸びて、じわりと広がっていく。生き物か、魔物か、光昭には判断のつかない不気味な仕業で、アマツセナの城に亀裂が走り、崩壊寸前だということは、予想がついた。
「やめろ、加奈子……。やめろ!」
光昭はがむしゃらに、加奈子にとびかかった。やめろ、というより、やめさせたかった。妻にさせたくない……、自分が全部肩代わりして、楽にさせてやりたかった。
どろり、と加奈子の身体に光昭は密着した。外見からは予想もつかない濡れた肢体に、光昭は必死に、両腕を回した。何もできないよう、捕まえたかった。動けないよう、思うままぎゅっと。
『わたしは…… 世界、 です』
抱いた身体から、音が、聞こえた。人間の悲鳴に似た、枯れ嘆いた音が、耳に入ってきた。とても普通に聞いてはいられない、光昭を突き崩すような、哀しい……声。
『あなた』
妻をしっかりと掴んだ両腕は正直に予感している。
このまま済むはずがない。
やっと抱いたものが、間違っていることを、切実に、自覚し、そして、やらなければならないことを焦らせる。
『殺…し……』
ころして……、と紡いだ唇に、何よりも強いものが襲いかかる。熱くも執念深いもの、そして……想い、そのもの。光昭は自分自身をありのままぶつけた。
このままいられるはずもない。
剣で刺すか
ティアーナの手を借りて。
……そんなことは今は考えず
一緒にいたいんだ……。
唇に求愛する。
おそらく、結婚生活始まって以来の、大胆なキスではないだろうか。普段恥ずかしくて、することもない。
愛情表現。
切実に、光昭は加奈子に口づけていた。
『……っ。殺して……ください』
「ティアーナ……?」
『…ぇ』
「ごめんな。お前が苦しんでいたのに気がつかなくて。出ていったのはやはり当然だ。20年経って、どうしようもない親父になっただろう。こんなのでも、……俺はお前が好きだよ。一番美弥とお前が好きだ」
『駄目……』
「駄目じゃない」
『私が……いると……、あの娘-巫女姫-が消えてしまいます。世界も、亡くなってしまいます』
「本当か?」
光昭の正面を避け、肩に当たった妻の顔。しばらくして、コクンと、頷く気配があった。
『巻き込みたくなかった。……あなた』
「どうして、お前が「世界」なんだ。倒さなきゃならないんだ」
『それは…………。自業自得なのです。巫女姫が犯した禁忌を、くい止めるために「世界」を呑み込んだから。それしか方法がなかったから。私……もう一人のティアーナが召還した勇者に倒されれば、それで良かったのに。何故……』
それが、あなたなの……?
納得できないような、覚悟したかのような、読み取れない、妻の「音」。
でも、今ここにいるのが、夫だということを理解するように、彼女はぎゅっと光昭を抱き締めている。
ふと、低く呟く。
「時間切れだ。…………俺が、勇者で、悪かったな」
『いいえ……』
ほのりと、和らいだ妻の声。顔は見えなかったが、微笑んでいるような気がする。光昭は名残惜しそうに、腕をほどいた。
「ミツアキ様……!」
ほどなくして、壊れ掛かった図書室の入り口を抜けて、ティアーナが走ってくるのが見えた。続いて、きつい目つきでスゥトがやって来た。光昭は手を出すな、と二人に合図するように両腕を開いた。妻を守るかのように。
しかし、ぴんと手を張った瞬間、後ろにいるべきものを失った気配を感じた。
あっ……と、一瞬の出来事だった。
きゅっと、腕を下ろして握る。
避けては通れないものを思って、光昭はそっと浅い息を吐いた。
第18話 end
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