第19話 加奈子
「ティアーナ」
「はい」
「悪い」
「…………?」
黒髪の巫女姫は不思議そうに、光昭の顔を見た。その短い言葉からは意味を読み取り損ねたからだった。何が悪いのか。申し訳なさそうに男から漏れた言葉を、心の中で反芻する。
低くも重い声。
覚悟したような。
でも、諦めていない声。
「行ってくる」
背を向けて、走り出した光昭は、アマツセナの痩せた大地を革靴で蹴って、素手のまま進んでいく。ぽつんと、孤独に、背広の勇者が、……遠くなっていく。
こういう時、何と言えばよいのか。……ああ。
いってらっしゃい。
一緒に走っていきたかったけれど、手出し無用とばかりに、先手を打たれて、ティアーナもその場を動けなかった。スゥトも同じく。最後の闘いであるのに、淡々としていて、静かな送り出しだった。
取り残された二人は、お互いに顔を見合って、反抗するように、瞳をそらした。
「ティアーナ、分かっているだろうな」
「スゥトこそ」
ふふん、っと両方が笑う。
もうだいぶ、送り出した勇者の姿は、小さくなっていた。
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視界がまばたく。ちかちかと、現実と異世界を行き来する。白と黒に、激しく光昭の記憶を揺さぶる。
まさか夢……と、一縷の望みをかけて願う。そんなはずはないのに。
しかし、夢であって欲しいのも、一つの本音だった。
妻を殺したくない。失いたくない。
もう、見たくない……。
しかし、はっと意識を研ぎ澄ましてみると、そこに確かにアマツセナの地面はあった。
現実であった。
武器の一つも持たずに飛び出して、まるで死にに来たようなものでもあった。
苦しくないなら、いっそ眠らせて欲しいとも思った。
「加奈子、俺はここだ。……アマツセナの勇者が、『世界』を救いに来た」
よれたスーツの親父が何を言うかという恥ずかしい台詞。若気の過ちなら、20年前に言い捨てて来いと言われんばかりの、似合わない、体面を捨てた言葉。
それでもいい。
20年前だろうと、20年後だろうと、……俺は確かに勇者なんだろうから。
間違いなんか、くそくらえだ。
思わず心の中で汚く吐き捨てた。
「お前を愛している。馬鹿に見えるが、……大声で、言うぞ。俺は、ずっと、こんな俺と結婚してくれた、加奈子が、大好きだ。黙って、俺を支えてくれていた、お前が好きだ。いなくなってから、……忘れた日はないぞ。美弥とお前が、俺の大事なものなんだから。……聞こえているか」
とても、一張羅で叫んでいいようなことではないのを承知しながら、光昭は声を張り上げた。しっかりと、はっきりと、自信持って、堂々と言葉にする。人が聞いたら赤面しそうな光景だ。
「聞こえていて、俺の言葉が分かったというなら、……剣をよこせ。好きだぞ」
気でも混乱したかというような光昭の台詞の嵐に、反応するものはない。現実世界で、一言たりとも言わないであろう言葉の山は、今リアルタイムで築かれていっている。
愛の言葉といっても、ナンパ師でもない普通の親父のボキャブラリーはたかがしれている。でも、それでいいのだ。繰り返し繰り返し、同じ言葉を使う。馬鹿の一つ覚えのように。それでも、ちゃんと伝わっているものなのだ。
「聞こえているか……?」
何度目か光昭が叫んだ瞬間、傍らの大地に剣が降ってきた。
愛している、と言いながら、剣を求める。おかしな光景だが、彼等の関係は、今、こういう風なのだった。
ありがとう、光昭は小さく独り言を呟きながら、その剣を抜いた。
視線の先に加奈子が見えるのを確かめて、光昭は震えた。後戻りは、もう本当に出来ないのだ。
+++
距離を詰めて、妻の前に立つ。二人の間には、二振りの剣。
人ではない気配をさせながらも、人の形で、加奈子は光昭の前にいる。
夫と妻。
勇者と、倒されるべき者
敵と敵。
お互いに向けられた剣は、どちらからも動く気配がない。
『私の方が好きだった』
「……?」
『読んだでしょう。日記。初めてあなたを召還したときから、どきどきしていた。それは現実世界へ行き、結婚し、あなたがアマツセナのことを忘れてしまってからも、同じだった。私はあなたをずっと見てた。観察してたと言ってもいいくらい。他の人には、ただのおじさんかもしれない、でも、私にはかけがえのない、勇者だった』
加奈子の口は、小さく、声を紡いだ。ほとんど、聞こえないくらいのかすかな、消えそうな声音で。しかし、光昭には痛いほど、耳に入ってきた。
『これで最後。20年前のあなたになら喜んで倒されたはずなのに。「私」を知らないあなた。やがて「私」を好きになるあなた。私は全ての理由を知り、あなたは全てを知らず、世界たる私を切った。そうして歴史は巡る。……巡るはずだったのに、誰が『あなた』を召還したのか』
「お前だろ。……ティアーナ」
えっ、と驚いた顔を加奈子が見せる。光昭が、妻の剣をはじき飛ばそうとして阻止され、二人の剣は、何度か激しく打ち合う。顔がごく近くまで近づいて、その度に、わざと視線をそらそうとする。思いっきりぶつかり合っては、引き、また剣をよせる隙をはかる。
「お前だよ。あの日記書いたのが、お前なら、分かるんじゃないか……」
傷つけ合おうと、剣を合わせているのか、本気で相手を倒そうと思っているのか、意識が険しく、うつろになっていく、……迷っていく剣戟。徐々におそく、とろくリズムを刻んでいく打ち合い。加奈子は泣きそうに顔を困らせていた。
「あんな熱烈に愛してくれる女性が、……世界の犠牲になって死ねるのか? そんな運命素直に受けいれられるのか? 勇者の『俺』を召還
- 欲 -したのは、……お前、なんだと思う」
きん、と、加奈子の剣が、光昭の一撃で、高く弧を描いて跳ね飛ばされた。
『世界』-加奈子-を救うため、なら。
「俺は頑張るよ」
妻にもたれ倒れかかる夫。普通の、ごく普通の夫婦の抱擁のはざまに、剣がぎゅっと握られている。
……俺は頑張るよ。
最後にどうすればいい? そう、加奈子に尋ねているようでもあった。
第19話 end
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