最終話 ダンディ研究レポート
はて……自分はどうして走っているんだろうと光昭は不思議に思った。
地面じゃなくてアスファルト、信号と横断歩道、トラック、普通自動車、ガードレール。そして自分の手には黒い通勤カバンが握られている。確か、いつも通り営業廻りの前に会社に顔を出すパターンなのだろう。
チカチカと点滅する歩行可能の緑の信号。
渡りきったところに、見知った後ろ姿を認めて、光昭ははっとした。
顔の一部も見えないが、確かに自分が探しているものと判る。
きっちり赤になった横断歩道を、何の迷いもなく、走り出す。クラクションの音、迷惑そうな雰囲気も、堂々とした走りっぷりの前に、消えていく。白黒白黒の歩道のはしごが、光昭を加奈子がいる側へ導いていく。
交差点から遠ざかる後ろ姿に、何とか近く追いつきたくて、光昭は普段出さない力まで込めて走った。ムキになって走る。次の信号を待っている人々が、自然と親父に道をあける。うなじに汗が落ち始めた。恥なんてええい……。
何故、走らなければならないのか、なんて、走っている切実感からすれば理由など些細なものに思えてくる。あの手を掴むために、何もかも無くしたっていい。
加奈子。加奈子っ……!
異世界で覚えた、妻の名を叫ぶ習性。
欲しいものを呼ぶ、感情の吐き出し方。
愛しい者がいるから、こんなにも追いかけて、一生懸命になって、見失うまいと普段やらない全力疾走を見せるのだ。
逃げられた妻を追うように。それでもよい。俺はもう、加奈子を離すのは嫌なんだ……!はぁっとあがり始めた息も、ちくと痛む足の筋肉も、ぶつけるように、前へ勢いよく投げ出す、もう、一歩、と。
「加奈子っ」
こんなに必死に名前を呼んだことって、ここ-現実-であっただろうか。
手を伸ばしたくて、欲しくて、それ自体が情熱なひたむきさで、声を絞る。
声だけでは我慢できなくて、光昭は後ろから、加奈子の身体を抱き締めた。
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「もうっ、お父さんも、お母さんも、起きてよっ!」
傍らから娘の悲鳴が聞こえる。そういう美弥も、同じように横になったまま、今布団を一気にめくろうとしていた。
陽も高くなりかけているのに、ぐっすりと気持ちの良い、時間。
「引っ張ってめくるよっ! 暑苦しいったら!」
親子三人ごろ寝の図なんて見せられないよ、と美弥が続ける。せっかくの日曜なのに、寝坊しちゃったーっ、と騒いでいる。
俺は、手を離していない。隣の手が確かに在るのを確かめて、ぎゅっと握る。同時に、一度離れていった美弥の手も手繰るように引き戻した。
「お父さん、離してよっ」
口の悪い台詞が幾度も余分につく。まあ……この歳になって娘の手を握ったら、気持ち悪いだの、セクハラだのそういうことになるだろう。でも、離さなかった。
「馬鹿ぁ」
「お母さん、いつ戻ってきたんだ?」
「知らないよ。出て行かれたら困るよ、お父さん絶対ふぬけになっちゃうから。それと、セクハラ! 娘の手は気持ちいい?」
「出て行ってない……?」
娘と反対側から強く握ってくる手。ドキッとして思わず、わっと娘の手を離した。ふん、と娘は呆れて、行ってしまった。
「俺、……帰ってきたのか」
加奈子の顔を見ながら、光昭は呟いた。感慨を込めた声。ほっとした声。妻の手を跡がつきそうなほどぎゅっと握る。
微笑んで、しばらく何も応えない加奈子は、依然と変わっていないように見える。
静かで大人しい、柔らかい女性。
シーツの上で、照れるほど、向き合う。まるで新婚のように。
「好きです、光昭さん」
「え…」
「帰って来られたのですもの」
Kissing
先をとられて固まる光昭に、加奈子はくっついた。
あなた、あなた。
やっぱり隣は気持ちがいいのです。
「お前がいるということは、俺の運命って変わったのか」
「私。いて、いいのでしょうか」
真剣に、加奈子がきくものだから、光昭はたまらなくなったように、妻を強く懐に抱き寄せた。
消えてしまうと言っても、離さないかに、剛情に包む。
熱く。
真摯に伝わる心と体温は、加奈子を、ぽたり、ぽたりと涙で濡らした。
終わった。
……帰って来れた。帰ってきたのだ。やっと、……あなたのもとへ。
「おい……」
泣くな。俺が困るだろう。
……光昭さん。
光昭さん。
昼も姿をあらわそうという、穏やかな休日。
雫の行き先は、夫の唇だということに気がついて、加奈子はあっと声をなくした。
ああ……凄い照れ隠し中の顔をしている。
柄でもない、と呟きそうな。
「捨てられない夫になるからさ。出ていくなよ。絶対に」
あなたったら……。
捨てることなどできますか……?
----------------Epilogue -dandy study report-
「これ、お前の日記か?」
無造作に、光昭が枕元の日記帳をとろうとした。
とたん、加奈子は顔を赤くして、駄目よ、と遮った。
「あ……」
「アマツセナで、全部読んだんだから。ええと」
見るのはよくないことだと分かっているのだが、妻が焦るので、意地悪にも光昭は続けることにしたらしい。冗談ぽい。
「返して」
「嫌だ」
夫婦で何をやっているのか、シーツの中で日記を取り合って喧嘩する。
「んん……と。おっ……」
--アマツセナ国、セツセナ歴1174年。巫女姫ティアーナは勇者召還に成功。
……でもね、私は、ミツアキ様に初め恋心も何も抱けませんでした。あの、たとえ間違っていたと言われても、私が最初に好きになったのは、あの方だったのです。おかしいことなのでしょうか。しばらく悩みました。あああ、このようなこと、もしかすると後々変なことになりはすまいか心配します。今の青年の(というのも妙な言い方ですね)ミツアキ様を見ると、ずっと思い出してしまいそうです。
「あなた、返してください」
「これは……?」
「察してくださればいいでしょう」
珍しく妻がぷんと怒った。まだ光昭の手元にある日記を、必死に取り戻そうと手を伸ばしている。
--同歴 1175年。勇者の手により、アマツセナは救われる。巫女姫ティアーナはその力を永遠に失う。
……私、ミツアキ様についていきます。愛しい大事な人です。心配することなどなかったけれど、……初恋の秘密を一つ秘めていきます。ええ、あの人には内緒です。
この、加奈子様(これものちの私なのでしょうからまたややこしい書き方だけれども)が置いていかれた日記、ミツアキ様の世界へ一緒に行く時に、持って行きましょう。
何を書きましょう。向こうの世界は、以前この日記に書かれていたことくらいしか分からないわ。心配です。何が起こるのでしょう。……でも、ミツアキ様が共にいてくれれば、ずっと大丈夫な気がします。
「そろそろ、返してください、あなた」
「もっと」
「駄目です、早く」
「ほとんど、俺のことしか書いてなかったんだな……」
「あなた!」
--198X年 美弥が生まれました。
……光昭さんは、それと分かるくらい照れて、名前を考えて、最終的には私にこれがいい、と教えてくれました。本を買ってきたのを知っています。自分の机の上に積んでありました。随分と悩んだようでした。
--200X年 美弥、高校入学。
スーツをもう一着買ってあげた方が良いかしら。あの人は頑固だから、変なところにこだわるのね。もうほつれ掛けてるから、と言おうとしたら、いいって、取り合ってくれなくて。今度の日曜日に一緒に買いに行きましょう。一緒に付き合ってくれるかしら。
「あなた……っ」
加奈子の声がかなり怖い、光昭は思わず、引きつった。
手を離しかけた拍子に、ページがパラパラとめくれた。
--あの人は、もう少し頑張ればダンディになれるのに。世に言う「おじさん」では私が納得いきません。大好きです……。
でもね、内緒で、「あの方」のことはダンディと呼んでもいいと思うの。
アマツセナの歴史には名が残らなかった、あの方のことです。
素敵な方でした……というのは思い出が過ぎるかしら。
そして私が、これから出会う、43歳のあなたは、どんな風になっているのでしょう。ダンディになっているでしょうか。
もし、この先の日記を見られたら私は息が止まってしまいそうです。
愛してます。
光昭さん。
更にページをめくろうとした夫に、加奈子は、駄目、と手で遮った。
「私の秘密です」
隙をついて、光昭の手元から日記をするりと取り去った。もう絶対に、読まさないぞと言わんばかりに、加奈子はぎゅっと両腕に抱いてガードした。
続きが気になってしょうがない夫の顔が、愛しい。
そうよ、あなたのことが書いてあるのだから。
ずっと書いてあります。
恋文も、悩み事も、怒ったことも。
私のただ一人の勇者様。
諦めた光昭は代わりに妻の唇にそっと触れた。
「起きて、何かつくってくれるか。お前と騒いでいたら腹が減って……」
美弥が怒ったから、また口を利いてくれないかも知れない、とぼやきを言って。拗ねて。
そして、お昼にはラジオをつけてさだまさしを聴くのでしょう。そしてビールを飲んで。
枝豆か何かがないと、ちょっと顔をしかめて。
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ね、あなた。
どれ一つ不思議なものなどない、平凡な毎日をあなたと過ごしていきます。
晴れた日も、曇った日も。たとえ雨が降っても一緒です。
融通が利かないままおじいさんになってしまうかもしれません。むしろそう思いますよ。あなたのことだから。
それでも、気持ちは変わらないのです。
蒼元光昭、43歳。趣味は特にない親父なサラリーマン。たまに短気がちょっと傷。日曜の使い方に戸惑う、妻と娘を愛する、多分、きっと、……ダンディ。音量を上げたラジオからは…………やはりさだまさしが流れてくるでしょう。
これからの日記を見せられない理由を知っているかしら……?
だってこれは、私だけの、そしてあなたの活躍の印です。
日常の英雄譚です。
光昭さんという素敵な勇者様がいるという……
私の終わらないダンディ研究レポート。
end
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