第8話 男の取る道
妻を倒すために召還され、
加奈子であるものを、手にかけることをしろと…。
巫女姫ティアーナの言葉は、そう聞こえた。
光昭は静かに自分の部屋に戻ってきた。
話し終えて心配するティアーナを手で押し返して、無言で帰ってきた。いかにも近寄るなという雰囲気を出して、機嫌悪そうな面をしていたかもしれない。
廊下も早足で、駆け出したいくらいに内心落ち着きがなくて、逃げるように身体が動いた。それでも、周囲を気にして、できる限りの冷静を装って。
カタンと、他の誰も入れないように、きつく扉を閉め切って、確かに一人になった瞬間、…光昭は、緊張の糸が切れたように、じわりと眼ににじんできたものを、くっと指でぬぐった。
大の男が、四十も歳を重ねた大人が、俺が、…やってはいけない行動がある。女々しいとか、そんな言葉ではなく、ただ、してしまったら、自分がなくなる。けちな男のプライドを崩して良いときは一生のうちで何回か決まっている。
それに…ここで泣いても、加奈子が戻ってくるわけじゃない。
光昭は、額を片手でそっと押さえた格好で、ベッドに横になった。
…泣けるものならば、怒りを声に出して叫べるものならば、とうにそうしている。
正直、気が長い方でも、性質穏やかな方でもない。
カチンときて、行き当たりばったりにやってしまうような、大人げないところもある。
…逃げたい。
事実に背を向けて、今日までを忘れて。辛い…。
だが、やってはいけないことがある。…それも同じ。
今は…逃げてはいけない。
まだ夜にもならないうちから、シーツの上に、親父が転がる。家だったら、美弥に叩き起こされてる光景だ。
眠ろうにも眠れない。…考えがぐるぐる回る。悲痛なものから、自虐的なものまで。
…コトン、と、音がした。
扉の向こう側からの、優しいノック。
振動を察しただけで、誰か分かった。
緊張する。シンと、嫌な感じの間があった。
「…ミツアキ様…?」
「帰れ。…ティアーナ、今日はもういいだろう」
わざと、投槍な返事を、外まで聞こえるように叫ぶ。
ベッドから起き上がる気配さえさせず。
「ごめんなさい。でも、どうしても、ミツアキ様に話したいことがあって」
「明日、明日。…寝る」
「そ、そんなこと言わないでください。」
「巫女姫様も休まないといけないだろう」
「ミツアキ様…。…」
巫女姫は絶句したように、それっきり、沈黙した。
けれども、まだどうしようもない緊張が続いている。
ティアーナが扉の外にいて、立ち去ろうとしないからだ。
…悪いが、出て行く気はない、と光昭は思った。そんな優しさも余力も今はない。
一人にさせてくれ…。
初めて、普通に、現実に戻りたいと思った。美弥のいる世界へ。たとえ加奈子がいなくても。
+ + +
「あれー、お父さん?」
娘は、玄関から靴を脱がずに、首を伸ばして奥の方を覗こうとする。
人の気配がしない。誰もいなさそうな予感がして、父を呼ぼうとした。
お父さん、いないのー? …と、喉の、すぐそこまで出かけて、…そして、はっと、真顔になって、靴を脱ぎ投げて玄関を上がった。
怖い予想。
お父さんもしかして…。
…お母さんだけじゃなく、お父さんまでいなくなるなんて、嫌だ。
ぽつんと、残されてしまう。
一人きりになってしまう。
数年前、お母さんが消えてから、ずっとずっと、頭の中で考えては塞いでいたこと。…もし、突然お父さんまでいなくなったらどうしよう。何も言わずに、急に、失踪してしまったら。怖い怖い怖い。
母が消えた光景と重なってしまう。
内緒のトラウマだった。たまに、父の姿が見えなくて、大声で呼んでしまう。普段会話も少ないのに、呼ばれて、父はびっくりする。
…そして、姿が確認できると、…もとの、反抗期の娘に戻ってしまう。
「お父さんー?」
できる限りの大声で、美弥は叫んだ。また部屋で寝てるなんてオチでいてほしい。
しかし、確信にも似た胸騒ぎが、そうではないことを知らせていた。
全部の部屋の扉を片っ端から開けてみる。
「ねえー」
…ねえ、お父さん、…お母さん、…?
最後に残った部屋の扉の先が、カラだと分かった時、美弥は入り口に、ふらふらとへたり込んだ。
「嘘でしょ…?」
帰ってくるよね、とは、呟けなかった。
…もう、いない…多分。
全身で、その答えを肯定できた。
どうして…。私がお父さんいじめすぎた?言い過ぎた?違う違う…別の何かが働いていて、両親を奪ってった。
…良かったじゃない今までの生活。
戻ってこないかもしれない両親と一緒の時間を思い浮かべて、美弥は泣きたくなった。
お母さんはいつも、お弁当のために、早い時間から下ごしらえしてた。
お父さんは後から起きてきて、用意された朝食を当たり前のように食べてた。
私はそんなお父さんに、たまに文句を言ってた。
静かな静寂が耳に感じられた。美弥は、…ぽろ、と雫を、頬の片隅に落とした。
…戻ってきてよ。
+ + +
ドア越しに、ゆっくりと、鷹揚のある聞こえてきた。
「…つまらない生活なんかじゃ…なかった。…捨てたくなかったのに。…私、あなたを…」
大好きだったのに…。
光昭は、はっとした。突然、ティアーナの声で流れてきたそれに、ぎょっとして、飛び起きて、扉をガンと開けた。
少女と目があって、逸らすことができなくなった。
…読んでください。
刺すような真剣な視線で、そっと分厚い日記のようなものを渡された。
「何…」
「多分、奥様のですわ」
まるっこい、妻の、字。
可愛らしい、書体で記された文章は壮絶。
「…20年前のあなたに私は殺されるでしょう。それは運命だから受け入れる。私は、アマツセナを救う代償として自らの身体を捧げる、…その後の始末をしてくれるのは、多分、あなただから。それはいいの、あなたはまだ初々しく、巫女姫と一緒に剣を取り、見知らぬ化け物と女を殺すでしょう。勇者ですから。その後…、いえ、考えないわ。…ただ、あなたと美弥が心配。二人で生活していけるかしら。…食事作れるかしら。…ああ、行きたくない…。戻りたくない…、…けれど私独りが幸せでいていいわけがない…」
少し読んだだけで、光昭は顔をあげた。
少量で効く毒のように苦しい。
「…こんなもの。…どうするんだ!?」
「あの方が、アマツセナに来た時に、残されたものです。私が巫女姫の座につくまで封印されていて、…誰も読めませんでしたが」
「だから、何のために…っ」
ティアーナは、光昭にしがみつくように、日記を取った腕を離さなかった。
感情を乱しだした光昭を、落ち着かせるように、ぎゅっと、見守っている。
「…私、…ミツアキ様を、元の世界へ返したいと思っています。…間違ってました、20年後の勇者なんて、…召還するものじゃありませんわ。…アマツセナは私が何とかします。できる限り。おじさんなんか呼び出すものじゃない、…きっと皆も分かってくれますわ」
「…おい」
「…やっぱり、奥様を手にかけることなんて、できませんもの」
「…おい」
「ごめんなさい。…黙ってて、ごめんなさい」
今まで凛とした態度を取っていたティアーナが、ふわっと、涙をこぼしだした。
せき止めるように、何かが触る。ペタっ、と。
頬にあたる、大きな手…。光昭の顔が、必要じゃないくらい至近距離まで傍にあった。
「いい加減にしろ。…加奈子をこのままにして、俺が帰れると思うか…?美弥のところへ帰ったって、俺は一生後悔したまま過ごすに決まっている。…俺、勇者だっていうのなら、勇者やってやる。…俺を、加奈子に会わせてくれ…」
「…それは、奥様と闘う…ということですか」
「それが俺の進む道ならば」
驚いたティアーナは、わっと身体ごと遠ざかって、改めて、自分よりずっと大きい四十路の男を上から下まで、眺め見た。
少し疲れているかもしれない、大して光り輝いていないかもしれない、中年の男。背広を脱いで、ブラウスの下のランニングシャツが透けて見えそうな、親父。
「…俺だって、戻りたい。美弥が心配して、珍しく涙ぐんでるかもしれないって思う。…父親としてやっぱり最悪だろう。あいつの罵詈雑言、結構きついんだぞ。けどな、…やらしてくれ。…逃げたくなるから、余計やらしてくれ。…勇者の役目を」
ティアーナは、はっとした。
一瞬、見惚れてしまいそうに、格好いい言葉を吐いた、光昭の足元。
尋常ではなく震えている。
妻の事実を信じたくなくて、逃げたくて、…娘の元へ戻ってしまいたいだろうに。…でもそれでは何も変わらなくて。追い詰められて、不幸な親父が取った道は…真っ直ぐな正道。
抱えた痛み、辛さ、怒り、やるせなさ…全て抑えて。
不安な未来へ踏み出そうとする、大人の一歩。
本気で…進むつもりの、潔い意志。
「…精一杯、護らせていただきます」
「よし。…そういう調子で」
笑った顔。ドキっとする、気持ちのいい笑顔。
第8話 end
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