第9話 想い
よいしょ、とベッドの上にうつぶせになるにも口癖のように声が出てしまう。
どすっと、体重を柔らかい質感に全部預けて、腕には、どう見ても親父には不似合いなほど可愛らしい装丁の本を抱えて、…光昭は寝たまま読書の姿勢を取った。
巫女姫から貸してもらった妻の日記。一晩は寝ないで、これを…最後までめくるつもりだった。
年代ものになっているらしく、ページのところどころに、変色とかすれた跡がみえる。
じっと、表紙に目をやって、数分離せなかった。本物かどうか、今更疑ってしまいそうな、嫌な自分がいる。
手の中にある日記帳。…開けば、毒のように、染み入る、…受け入れるのが怖い、…妻のこと。
加奈子の日記…。
そんなもの、あったのだ…。
ティアーナと話しているうちは、考えもしなかったが、…一人になってみると、几帳面に日記をつけていた妻を全然知らなかった自分に気づいた。
それは、俺はもしかして…加奈子のことを、分かってなかったということになるのだろうか。
情けない夫に対する愚痴がたくさん、書き込まれているかもしれない。あの時どうしてこう言ってくれなかったのかという、過去に対する非難がぽろっと漏れているかもしれない。
本人の許可なく、日記を読むという後ろめたさよりも、…自分がどう妻に言われているかという不安と恐れが光昭の心に重い錘をおとした。
…そうっと、偶然にめくられたページの、「光昭・加奈子」と、隣同士並べられた名前にドキとする。
いつの頃の日記だろうか。日付はない。
『…間違ってなかったと思う。…私は、…………光昭を愛しています』
いきなりこんな文字列に当たって、かーっと、当の男は顔を熱くした。
恥ずかしいというか、…照れるというやつなのだろう。最初から、ページをめくる指がとまってしまった。大胆な告白である。大人しい妻が、…心でそう思ってくれていたかと思うと、じわりと染みてくる。
あんな情けない亭主だったのに。…毎日、ぶっ続けで、酔っ払い帰りだったり、優しい言葉も柄じゃなくて年中言えずじまいだったりしたのに。
お前は俺でよかったのか、と。
『私は、後悔していないのだ、と。…たとえ、…この先、…………。あなたを支えていられる時間が幸せです。一日一日が、貴重に思える』
褒め過ぎだ、と光昭は思った。
美化…みたいなものだ。そんなに加奈子を幸せにしてやってはない。
…照れが、走る。
『最近おじさんと、よく自嘲するように口にしますが、…私にとってあなたは昔から全然変わっていません。だって、あなたは…』
光昭は、その下の、ちょっと、離れた走り書きをゆっくりと、眺めやる。
『だって、あなたは…、ずっと…私だけの勇者でしたもの…』
…言葉が出てこない。妻が…愛し過ぎて。
光昭は後悔しっぱなしだった。
+ + +
「…奇遇だな」
低い男の声で言われて、…ティアーナは警戒した。城の東端の自分の部屋の前で待ち伏せしている者に、そう言われて、怪しまない者はいないだろう。
何かあるのは、どれほど愚かでも感じるだろう。
「…御用でもあるのでしょうか」
「別に」
「なら…」
ティアーナは、神政官スゥトに、立ち去るよう言おうと思った。
くくっ…と、突然、彼が笑い出したので、巫女姫の形の良い眉が、苦しそうに上がった。
「…もって、後数回というところか」
「何のことでしょうか」
強い嫌悪感を表した、ティアーナの視線がスゥトに向く。
「お前も身体が強い方ではない。巫女姫が二度も召還を行えば、力を消費しすぎて…使いものにならぬとどこかの書物にあったぞ。普通なら、もう舞えぬ」
「……」
「勇者は知らぬようだが、…あまり、無理をし過ぎぬようにな…」
嫌味ったらしく、スゥトは、ティアーナを見下ろした。
「…私は、ミツアキ様と一緒に闘います」
「そのうちガタが来るぞ」
「いいのです。…私はどうなってもいいのです」
その瞳が、あまりに必死だったためか、スゥトは興味をひかれたように、ティアーナを見つめた。承知の上で、勇者を守護しようとする裏に何があるか、知りたいと思ったようだ。
「…まさか。茶番だな」
「どういう意味でしょう」
「…恋でもしたが、…あの四十代に」
ピクンと、ティアーナの表情が、変わった。
はっし、と、スゥトの頬に、赤い手形の跡がついた。思い切り少女の顔が、真顔になって、主張する。
「…違いますっ。ミツアキ様はそのような方じゃありませんわ」
何て誤解をするのです。ミツアキ様にも失礼です。
この世界を救うために、勇者として、…巫女姫の私が御守りするのです、と。
一気に言い終えた。
シンと、廊下の空気が、冷えた。
睨み付けた先の顔が、にやにやと笑っているのを発見して、ティアーナはからかわれていたことにやっと、気が付いた。
底意地の悪い。
「…まあ、聞かないでおいてやる。お前が、何か企んでいることも薄々解っているがな。…せいぜい、くたばらないようにするんだな。…勇者ともども」
何度も舞えば、巫女姫としての命はない、と脅かすようだった。
スゥトは、ふっ、とティアーナを見て笑うと、去っていった。廊下に残されたティアーナは、あまり気持ちの良い顔をしてはいなかった。
「…でも、本当です。…」
…すべては、『本来』の勇者を召還し損ね、…歴史が狂ってしまったからだ、と。…光昭には言えなかった。
二度目の召還。
それは、巫女姫にとって、重い罪の箱だった。
+ + +
警報。
けたたましく、鳴り響く、…いつか聞いた音。
光昭は、目覚めとともに、その警音を耳にした。その轟きで、起きたようなものだ。
昨夜は、加奈子の日記を抱えたまま眠ってしまったらしく、ベッドに日記帳という、親父らしからぬ組み合わせができあがっていた。
ピンと張った空気のもと、光昭は、落ち着いた風で、シャツを替え、ブラウスを着、…背広を羽織っていた。
ネクタイを締め、スラックスのベルトを締めていた。
びしっとまではいかないが、清潔な、親父の着こなし。
扉を開けようとすると、そこにティアーナの顔が覗きこんできた。
「あの」
「俺…、頑張るから」
「…え」
「二十年前の奴に負けないから」
ティアーナを押すように、廊下を走らせる。
召還すべきではなかった…との、巫女姫の後悔を覆すかのように。
闘いは、これから、と。
第9話 end
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