読みきり:親父のバレンタインデー
…光昭氏の2月14日は、鬼門だ。
得意先の奥様方への愛想の良さが、チョコレートの数となって、返って来る。
夫以外の男に渡す楽しみというか、光昭氏をちょっと素敵程度に意識している奥様方には、かなり力を入れたイベントとなっているらしい。
行く先々で、『今年買い過ぎてしまいましたから。本当義理チョコレートです。いつもお世話になってますので、蒼元さんも一つ』と、にこやかに両手で渡される。
若い男ならともかく、光昭氏はもう40になるいわゆる親父である。…まあ、他の同年代より背格好はしまっていて、スーツ姿も未だに二枚目という評が、奥様方の間に流れているらしいのは、いつか耳にはさんだ。
「ありがとうございます。…いや、3月14日は何も出ないかもしれませんよ」
いいんですよ、ほら、余ってもしょうがないものでしょう…?と、ちゃっかり数を計算して買ってきている奥様方は、しっかり答える。…これが毎年のことだから、お互い心得ているだろうが、…終始明るく訪問時間は過ぎた。
光昭氏は光昭氏で、崩さない笑顔の後ろで、後何軒回るかな、と考えていたりした。
…あそこと次向かう家は、いつも用意しているし…な。
失敗した。今日は、小さい方の鞄持ってきてしまった。
絶対、全部回ったら、…入らない。
…夕方、コートのポケットにでも入れて帰るか。
仕事とは、別件で考えることが増えて、親父には、ちょっと面倒ごとだ。
後少し若かったら、同僚と、チョコレートの数を競ったり、俺ってモテてるな、といい気分になったかもしれないが、…そんな熱い勢いはもう湧いてこない。
…この歳で、ポケットにチョコレート、…美弥に見られたくないな。
美弥というのは、一人娘の名前だ。
父の戦利品を見つけたら、冷たい目で見るに決まっている。
毎年のことだが、鞄の中のそれの数を数えるのは、美弥である。
『お父さん、こんなにもらってきちゃって。3月14日、お母さん大変じゃないの』
そんなこと言ったってな、と反論しようものなら、反抗期の娘は、激しく食いかかってくる。
『用意するの、お母さんなのよ? お父さんは、もらってくるだけでしょ!?』
びしっと、一言。非常にきつい。
愛娘は、母親の側について、父親の方には、寄って来ない。…妻は、そんな夫と娘の会話を、黙って、微笑して見守っている。
…結局、鞄に突っ込んでこれなかった包みは、コートの左に放り込んだ。
「ただいま」
「お帰りなさい。…夕飯もうできてるよ」
玄関に歩いてきた娘は、父親の鞄を回収しにきたようで、手振りで要求する。
「すぐ、着替える。…散らかすなよ」
鞄を美弥の方に向けると、すかさず取られた。…玄関でもう開けにかかっている。
「…いっぱいじゃない。仕事してきたのか、チョコレートもらいにいったのか分からないね」
「…仕事だ」
ただ、バレンタインデーという日は、夫以外の男にも義理チョコという形で手渡すときめきが得られたりするので、退屈な奥様方の格好の的になっているだけである。
「…コートに入ってるのは、何よ?」
妙に膨らんだ左腰あたりに、美弥の目がいった。
親父のポケットにふさわしくなく、中身は…チョコレート。
そういや、一個だけ入れたな、と光昭氏は探って、取り出した。
「まだ持ってたの」
呆れた声。ほらほら、と娘が手を差し出した。夕飯前にチョコレートは全て娘に回収されてしまった。
「もう、お父さん、御飯食べたらすぐ寝る。…」
ごちそうさまの後、テレビのチャンネルを野球中継にして、横になってしまった父親に、美弥は苦情を言った。…彼女は歌番組を見たかったらしい。
「寝かして…あげなさい」
優しい、母親の声がかかる。
「お母さん、甘過ぎる。絶対、ううん、甘やかし過ぎよ」
「疲れてるのよ」
「今日、チョコレートいくつもらってきたか知ってるの」
「…知らないわ。でも、お客さんとうまくいってるって、証拠でしょう?」
母親は、いつもいつもいい方にとらえるので、ひねくれた方に取ってしまう美弥は苦笑する。そして、結局、柔らかい微笑みに負けて、娘は母親に折れてしまう。
「…分かった。お母さんの言う通りにするわ。…ただし、後でちゃんと起こそうね」
元気よく、美弥は言った。
…そんな会話を、夕飯の後、眠気に襲われている光昭氏は、うつろに耳にしていた。
今が、…一番幸せだな…。
他は何もいらない。
美弥と加奈子が居てくれれば、俺、満足してるしな…。
何で、…俺こんなこと考えているのか…。
ふわりと心地よい眠りから、現実に戻る予感…。
「…あなた」
「…お父さん、ちょっと、起きてよ。お風呂入る時間無くなるよ」
ぐらぐらと揺さぶられて、光昭は、目を覚ました。
「んん…?」
「ほら。…私とお母さんからのバレンタイン・チョコレートでーす」
間延びした娘の声が、寝覚めたばかりの親父の意識をはっとさせた。
身体を起こすと、隣に妻と娘が座っていて、光昭に箱を開いた形でチョコレートを向けていた。
手作り、というのが一目で分かった。
数度瞬きしながら、光昭は、チョコレートに目を凝らした。
「あ…。ありがとうな…」
感想が、とっさに思いつかず、途切れてしまった。
美弥の顔は不満そうだ。妻の加奈子は、いつも通り微笑んでいる。
二人の視線が、光昭から離れないのを感じて、…それはここで、目の前で、チョコレートを食べろということだと察した。
妻と娘の前で、手作りチョコを食う。…これは、どういう顔をしたらいいか分からない、一種の難題である。
「今日一緒に作ってたのよ。ね…?」
「…貸せ」
「あ、…お父さん、後ろ向いて食べるなんて反則じゃないのよ!!」
ぐっと甘い感触が、口の中に広がる。
嬉しいし、親父の心は予想以上に浮き上がっているものだ。
しかし、それよりも、見つめられながら、そんなもの食えるかという、男の意地が、許さなかった。
ほんのちょっと、恥ずかしさからか頬が熱くなって、なおさら向き直れない。
「おいしかった。…美弥、加奈子、ありがとうな」
背を向けたまま、居間を、そそくさと去っていく家長。それはそれは早かった。
「…風呂、入るか」
廊下の冷たい空気をあびて、光昭は、一呼吸した。
思い出して、にやつき笑いをしてしまいそうになるところが親父かもしれない。けれど、…本当に、嬉しかった。妻と娘の愛情を感じた。
これが、ずっと自分の人生の一部だっていうのなら、…何て幸せなんだろうと思った。
end
昔のバレンタインデーに更新した読みきりです。
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