イジェスの騎士

                                        
 
ACT. 2


 鷹宮家を出てからというもの、非常に困惑することばかりです。非は全て私にあります。お屋敷の外にある世界というものを、私はよく知らなかったのです。箱入りという言葉を使うことを許されるならば、まさしく私は鷹宮家の箱入り執事というわけでした。仕えて30年、生まれてからの下働きの年月を加えれば、まさに、私の人生は、あの飛び出してきた囲いの内側にありました。

 もちろん、一歩も外に出かけないはずもありません。時々はお嬢様の送り迎えに、主人のお供に、私もお屋敷をあけていました。しかし、それは本当の意味で「外の世界」に出たとは言えないでしょう。私は鷹宮家というフィルターが映す、小さな「外の世界」を見ていたのです。

 今日、生まれて初めて、缶ジュースというものを買いました。どうやら、あの妖精 - リュージュ -はこれをストローで吸うのが好きなようです。私は乱暴に足下の口から吐き出される缶が、どうして人々の不快をかわないか不思議でしょうありません。ガタンと勢いよく滝の流れのように落ちるあの音、思わず目をつぶってしまいました。

 話を変えます。
 お屋敷を離れた今、時間を無闇に浪費しているわけにはいきません。さっそく一人暮らしについて、勉強しなければと少し張り切っています。何でも自分の自由にできるのは、何だか新鮮な感覚かもしれません。今まで主人の望むように、それを第一に考えてきた身としては、これからのことを思うと震えてしまうほどです。これは、良いことなのでしょうか。

 一人の生活、それは同時にお嬢様のいない生活でもあります。私は朝、目を覚ますとき、嫌な夢を見ていたような気分の悪い感覚にとらわれているようです。それも、うなされていたのか、額に異常に汗をかいていることが多いようです。心の奥で、お嬢様を恋うているのが理由かもしれません。
 ……殺してしまいたい。このような自分を今すぐ、縄で首くくってしまいたい。
 きっと、寝ている自分の姿を幽霊のように、上から見下ろし眺めることができたなら、私は無理の上に無理を重ねた想いを抱いている哀れな男を、ぎゅっと、絞めて殺してしまったに違いありません。いかれた恋の病というものは、直す薬もなく残酷であります。それに全身を冒されている私は……。

 話を戻しましょう。一人暮らしは難しいです。買い物に行くにしても、男一人の生活に何を買えばいいか、分かりません。棚の前でずっと考えて、結局これといったものは一つも手に入らないこともあります。買い物の腕をあげなければなりません。
これから先が思いやられそうです。


+++

『あーあ……。修之介ったら、スーパーに買い物出かけただけで疲れちゃって。書き物途中で止まってるわよ。……んしょ、……ぅ重いっ、……ええぃ、起きろっ……、もう、イジェスの騎士が聞いて呆れる」
 頬をふくらませた妖精は、机に寝息を漏らしている壮年男性の髪を必死に引っ張っている。……が、効果の程は全く見られないらしく、彼はぴくりとも意識在るように動かない。ぐっすり、という眠り方だった。
 
 これが、幸せな睡眠だというなら、リュージュは起こすつもりはなかった。お嬢様とのいじらしい恋愛でも夢にみているのだろう。
 ぱたぱたと、妖精リュージュのムキになった羽音が部屋の中にひびく。
 起きろ。
 起きろ、……このぅ……。

 戸惑いが微妙に浮かんだ、少し目尻に皺が寄った顔。
 
 そのようなものを見せられて、小さき身体でも勝手に目覚めさせようと動いてしまう。
 年甲斐もなく……というか、いい歳してというか、下手すると変態の分類にひっかかりかねない、危ない恋心。抱いてはいけない、おそらく笠井自身にとっては非常識極まりない、禁忌だろう。
 主人の娘、歳が離れすぎている少女へのまさかの想い。
 茨-いばら-の道。
 ……それが分かってて、……何だかずっと苦しんできたような表情。

 お願い。早く、辛い夢から覚めてよ……!
 リュージュは小さな両腕で、一生懸命、笠井の肩を揺さぶった。見かけは、落ち着いた非の打ち所のない大人に見えるから、余計ギャップに驚く。
 ……お嬢様が好きです。

 それは、……純粋な、濁ることのない一途な想いだ、おそらく。強くて、頑固な、……ぎこちなく、歯止めの利かない、そういう恋だ。笠井の。……修之介は、とリュージュは、きゅっと胸が締め付けられた。
 
 
『そうだ』
 起きない笠井に、思案して、リュージュは先程ひらめいたことを実行にうつした。お嬢様の声なら、多分、起きるんでしょう。耳元に用意する。

「……笠井。頼みたいことがあります。至急机に傾けた身体をただして、起きあがりなさい」
「…………、ぁ……、お嬢様……っ。ただいま。遅れて申し訳ございません」
 条件反射的に、笠井が応え、意識を戻す。リュージュの姿を真正面に目にして、周囲に令嬢の姿が見あたらないのを確かめると、彼は目もとを押さえこすった。

『もう一回買い物行くわよ、修之介。必要なもの、まだ揃ってないでしょう』
 そう言って、リュージュは、笠井の手を引っ張った。何だか、外へ連れ出したくなる、妖精にはそんな気がした。
 
+++

 コンビニ。
 あまりこういう類のお店に入ったことがない人だと、リュージュは初めて入った時にピンと来た。笠井は、失礼な、お嬢様と度々訪れる機会がありました、と意見したが、実は外で待っていただけではないだろうかと思われた。
 というのも、コンビニに入っただけで、緊張しているのが分かるという、……何でコンビニくらいで?と首をひねりたくもなる状態だったからだ。あがる必要もないだろうに、あきらかにおかしいほど、笠井はコンビニで動揺していた。
『歯磨き、髭剃り、……もう、何で私が選んであげなきゃいけないのよ』
「実は……」

 自分のものを買うということに、慣れていないのです、とぽつり笠井が漏らした。

 だから極度の緊張。人のためにしたように、いざ自分のことをしようとすると困惑する。
 なんという今までの生活の弊害だろう。
『好きなもの買っちゃえばよいのよ。もう仕える人なんていないんでしょう? 修之介が自由に、決めちゃえばいいの』
「それが……」

 言いかけた、笠井の表情が一方向に吸い付けられる。
 ロングヘアの、女学生が出入り口の自動ドアをくぐって店内に入ってきた。

「お嬢様……」

 えっ……、とリュージュが笠井の見つめる先を見た。
 そこには、まぎれもなくリュージュと瓜二つの姿を持つ女子高生がいた。