第9話 温かな朝
ナーセット王宮の朝は、わりと遅い時間に始まる。特に、宰相サリューの場合は。
前日の仕事を引っ張って、次の日の明けまで起きていることも多いので、その分時間がずれる。
予定が空いていると、昼まで自室から出て来ないこともある。
そんな時は、王女様が自ら、寝坊者を叩き起こしにいかれることもある。
アーシャは、サリューの部屋の鍵を持っている。
勝手に入ってきていいですよ、と。
用もなく、男性の部屋を訪ねるのは、いくらアーシャでも勇気のいることだから、と茶化しながら手の中に渡された。
ちなみに、その逆は駄目、と補佐役の二人にきつく咎められている。アーシャの部屋の鍵は、絶対に渡さないように、と。
その理由は二人して、
『狼が出ますから』
『いや…、狼というか、肉食動物ですね。そういうのは、平均よりとろくても、意外に危険ですから。ときたま変身しますしね』
…というわけであった。
宰相様の顔がなかなか補佐役二人を睨んでいたのは、言うまでもない。
カチャリ、と静かにノブをまわして、陽が中央に昇りかけている部屋を覗いた。
たいていは寝室かソファで、かなりだらしない格好で眠っていることが多い。疲れたままというか、熟睡で。
「起きなさい、サリュー。もう…、昼に近づくまで寝てる気なの…?」
アーシャは、ベッドで気持ち良く夢の中にいるだろう青年を、容赦なく揺さぶった。
「サリューったら。起きなさいっ!」
耳元で、叫ばれる大声。通常なら飛び起きるところだ。
目をこすりながら、やっと、上半身を起こした宰相様は、隣で騒ぐ王女様を、とても自然な仕種で、抱きしめなさった。
「…ねえ、起きてるの?返事しなさい? 半分寝てるんじゃないの?」
アーシャは、抵抗するでもなく、口だけ動かした。
身動きの出来ない身体は、捕えられているというより、支えられている。
「私がアーシャだって、分かってるの? ねえ、サリュー…?」
返事を促そうとして、アーシャは問うた。当然答えられる質問だ、起きているならば、目の前に見えるはずだから。
一瞬遅れて反応があった。
ぎゅっと、身体を引寄せる腕が、痛いほど強引に締まった。
離すまいとする、感情のあらわれのように。
「姫…」
囁きとともに、ぐっと抱きしめる腕に力が入って、
その腕は優しい…。
その手は温かい…。
アーシャは混乱した。
サリューは、アーシャを「姫」とは呼ばない。
何か、抱き方も、いつもと違うような。
一番に思いついたのは、自分とは違う「誰か」のことではないか、と。
アーシャ以外?
…誰よ、それ…?
「サリューっ!?」
半ば、悲痛な声が高く飛んだ。
「…おはようございます」
宰相様は、やっと真剣に目を覚ましたのか、腕の中の王女様を見つけて、優しく囁いた。
「挨拶はいいわよ。説明しなさいよ。返事によっては、サリューなんて嫌いになってやるから」
「…何かしましたか、私?」
「『姫』って誰のことよ? アーシャのことじゃないでしょ? サリューが昔好きだった女<ひと>とか、そんなのよね。…嫌だ、嫌。そんなの考えさせないでよ」
ぐずるように、腕の中でもがく王女は、こころなしか、泣きそうな表情だった。
自分じゃないと嫌、といった感情が、ありありと浮かんでいる。
サリューは一瞬、困ったような顔をしたが、このままだと本当に泣いてしまいそうな王女を、ゆっくりと腕の中から離そうとして…、そして思いきり抱きしめた。
離すまい、と。
「『姫』というのは、私の初恋の人です。叶わないと思っていたのでしょうね、私にも訳が分からなかった。この感情のやり場を、正体を、…どうしようもなかった。一度や二度、捨てようと思ったのですが…、出来なかった。今の私があるのはその人のおかげです。本当に…」
「駄目っ!アーシャからサリューを取る女性<ひと>は出て来ちゃ駄目っ」
聞いてるのが、我慢ならなくなってきたのか、腕の中の王女様は、ますます動きなさる。
「最後まで聞いて下さい」
「嫌よ。ああ、もうっ」
泣きそうよ。アーシャは、こらえてサリューを見る。
「サリューは私の初恋の人なのよ? なのに、どうしてサリューの初恋は私じゃないのよ!?」
「…いつ、アーシャじゃないと言いました?」
「え…」
良く見ると、少し、動揺したように、赤くなっている宰相様が言うには…
「『姫』…って、私があなたをお呼びしていた頃を、忘れましたか? その…ずっと前。アーシャが私の恋人になってくれる前です…」
手繰りよせられた王女様は、言葉を失って、きょとんとなさっている。
ゆっくりと被さってくるものに、真摯な感情を感じて。
温かくて、懐かしくて、時に強引なほどの想いを働かせて。
…どうして、こういう時に、キスは降りてくるのか。
ナーセットの温かな朝はもうしばし続いていく。
第9話 end
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