+ 王女と宰相 +


 解けない鎖 

  マーセデの宰相の執務室には、このところ、騒がしい訪問者が増えていた。
 しかも、訪問をむげに断ることもできず、当のカルナ宰相は、無言で許可を与え、迎えている。
 
 黒髪の末姫……シアは、最近、四十路の宰相を訪問するのが楽しいらしく、毎日かかさずやってくる。姫の結婚の件で、幾度か関わっているうちに、気に入るところがあったらしい。
 大人しい姫だが、仕事が込んでいる時は避けるが、その他は、構わず、結構積極的に足を運んでいる。

 マーセデの宰相カルナと言えば、冷厳な政治を行うやり手として、海を越えた向こうの大陸まで鳴り響いている。恐れをもよおさせる手腕は、そのまま恐怖として刻まれ、人を簡単に寄せ付けない程だ。
 それを、この姫は、生まれたての子犬のように、飛び込んできて、気にしないのだ。カルナは苦笑するしかない。

「……用件は、何でしょうな」
 冷たく言い放つと、シア姫はいつも、おろおろと、一度視線を床に向ける。
 そして、再びカルナを見ると、「相手して欲しくって」と、年頃の姫より幼い無邪気さで、答える。
 これが、シア姫でなければ、…あるいは宮廷内の別の女の言であれば、カルナは疑って、腹のうちを幾度も読もうとしただろう。…宰相と関わって、何事か叶えようと策する女も多い。
 だが、そんなことを、この末姫が考えているはずもないのは、カルナは呆れるほど早く察していた。だから、容易く扉を開いて、迎えている……というか。 
 正直、断る気がなかった。カルナは、自分のそんな意図に気づくと、苦々しそうにかすれた笑いを漏らした。
 
 ……歳をとったものだ、と。

 年月は流れ、より頑固に、……より狡猾になっていく。マーセデの王国も、以前より強く、以前より大きくなっていく。サリューという跡継ぎを得ることはできなかったが、それでもカルナが現役である限り、この国が崩れるということはないだろう。
 その自分が、疲れた弱みを吐いてしまいそうだと知った時、……だからカルナは苦笑した。
 シア姫の素直な優しさが、心地よく感じられて、別段、傍にいられても迷惑でもないと実感した時、……迷って、しかしどうしようもなかった。
 恋愛、ではない、人の温もりに手を伸ばしたい、寂しさ…、そんなものが、カルナに巣食っていたらしい。
 おかしくて、執務室の休憩間で彼は、額を押さえて笑っていた。

 ……捨てたはずだった。甘いもの全て。
 愛してはいけない女を好きになったせいで、何もかも放り投げてきた。
 ナーセットの王子であった地位も、過去も。
 代わりに、マーセデに来て、ここまで作り上げてきたのに
 …若い姫一人の言葉で、…壊れてしまいそうな自分がいる。

 ……愚かな。 



「…ねえ。…どこにいるのよ? …ねぇ…」
 ふと、一枚布に区切られた休憩間の表から、声がするのに気づいた。
 いつの間に眠ってしまっていたのか、カルナは自分の身体を起こそうとした。
 …と、カシャン、と音がして、光が入ってきた。執務室を区切る一枚布が、訪問者によって、開かれた形だ。
 シア姫は、中を覗いて、少々驚いた風だった。
「扉開いてたから、……入ってきてしまったけれど」
 そんなことをするのは、今でいえば、この姫くらいのものだろうけれど。カルナは、起き上がろうとするのをやめて、シア姫に、休憩間の大きなソファの傍らに座るよう言った。

 そうっと、腰を下ろした姫は、片腕を頭の後ろにやって、未だ横たわったままの宰相を、見下ろした。
 ……今日は、そう、冷たそうにはみえない。
 むしろ観念したように、投げやりだ。
「カルナ……?」
 聞いてないのか、返事はない。聞いていたとしても無視したのかもしれない。
 それにしても、疲れてるみたい、と、シア姫には、カルナの表情の裏が感じ取れた。それに、少し、……寂しそう、と。静かで、しんとするような空気が、シア姫の神経を敏感にしている。

「…もっと、傍に来るか…?」
 遠くから、聞こえたかと思った。
 低く、そして、深い声。長年、込めたかのような、経験豊かな人間の言葉。
 シア姫が、カルナに目を合わすと、………まるで別の男のような、…かつて『彼がそうであった』ものの面影にゆらりとぶつかった。

「カルナ、あなた…何者? マーセデの生まれじゃないことは知ってるわ。……実力だけでのし上って、過去は不問と、王に納得させた、と。…でも、今…」
 
「ああ。……これ、か」
 ナーセット訛り。姫にも、生まれの見当がついたはずだ。あらわになっても、興味なさそうに、カルナは言った。そろっと、シア姫が間を詰めてきた。

 きゃっ、と、細い手のひらが、震えた。不埒な真似をされたからではない。
 隣にきたシア姫の手を、カルナは突然取って、キスする仕草を演じてみた。
「…昔、たった一度だけ、自分のものにしたい女と出遭った。本当に、…嵐のように愛したよ」
「カルナ…?」
 くく…、と、情けなさそうな、苦い笑い声が押し殺されながら、漏れ聞こえてきた。自嘲に近い。
「…姫、……聞いてくれはしないか…?」

 …あ、と、シア姫の声が小さくこぼれた。
 手のひらに、冷たく、…しかし温かい感触。
 そして、そのキスに、狂おしいまでの、過去の恋愛が見え隠れしているようで…知りたくなった。
 宰相の、想い人のことを。