+ 王女と宰相 +


 解けない鎖 9

「レイス、…一つお願いしていいかしら」
 
 王妃は、カルナから手を離しつつ、また穏やかな微笑を浮かべて言った。いつもどおりの、相手に隙を許さぬ…強い女の笑みだった。
「何でしょうな」
「その方と結婚する、と、この場で私に誓いなさい」
「っ…?」
 カルナは、王妃の言葉に絶句した。
 まさか、と思った。

 
「変だと思うでしょうね。…私が、あなたの身の振り方にまで口出しするなんて。…けれども、私には、…二十年前ナーセットを去った王弟殿下の、考え方が見えるようなのです。マーセデの名宰相の、…策謀が、筒抜けなのです。…ねえ、レイス、私もあなたの政敵くらいにはなれてよ?」
 冗談というには、少し皮肉過ぎる色合いが見えて、カルナは苦笑を漏らした。
「…嫌な女になりましたな、…あなたは」
「お互いさまですよ。…嫌な男。分からずや。私、…馬鹿な王弟君を、たいそう心配しておりますわ。…幸せになって欲しいのに、…愚かに意地っ張りで、…真剣に怖がりで。…マーセデの末の第三王女と聞きました。まだお若くて、四十路の冷たい宰相とは歳の開きも、体面も、…難しいですわね」
「…シリーン、…何が言いたいのだ…?」
 耐えかねたように、カルナは静かないらだちを込めて、尋ねた。
 どうして、…そのようなことまで、…言われなければならないのだ。

 怒った宰相の頬に、王妃は、両の手の平をぴたっとくっつけた。…にこやかな微笑み、上品な眼差し。それでいて、どこかいたずらっぽい無邪気な…懐かしさ。

 …あ。

 一瞬だけ、カルナの視界は、昔のシリーン姫と王妃の姿を重ねていた。
 ほがらかに、可愛らしく笑う姫…。

「逃げたら、…幸せにはなれませんわ」
「逃げてなど、いない」
 密やかな、沈黙。
 振り切るように、王妃は笑って、言葉を突き出した。
「…そう言いながら、来たではありませんか。このナーセットまで。…あなたは二度と来る気はなかったでしょうに、…私に会いに来た。理由は…自分の想いに決着をつけるため。もしかしたら、姫には…王妃と話をして、過去を清算してくるとでも思わせたかもしれませんが」
「な…」

 かすかに、ため息が聞こえだ。王妃の吐息だ。
「私はこう考えました…あなたはまだその姫を、他の王子に嫁がせようとしていらっしゃった」
「……」
「そして、…その手筈も整えてきたのではないかと」
「……」
「ナーセットに来て、帰るまでに、事が済むように策を立てた。…もしマーセデで、ご自分と姫の醜聞をわざと漏らすようにでも仕組んでおけば、自然と、王宮は姫を早々に片付けようと動くでしょうから。…そうでもしないと、自分を止められそうになかったから。愛した姫を目の前で失うことはできそうになかったから」
「言が過ぎないか、…シリーン」
 乱暴な声が飛んだ。
 同時に、顔を、…著しく紅潮させたカルナは、王妃を睨んでいた。

 
 …カタン


「なら…私はどうすれば、いい……?」

 正直に震えた声音。振り絞ったような、叫び。
 …何もかも、身を守る言い訳を、崩されてしまった後の男の、…素の問いかけ。

「…だから、馬鹿者、と言ったでしょう。…あなたという人は。素直に愛したらいいのです。…たとえ、マーセデで二十年間積み重ねてきた自分を壊すことになっても、それが怖くても。…いつまで、自分を縛っているのですか。…私もそろそろ怒りますよ」

 シリーンは、持たれかかってきた男を、支えるように、抱き締めた。



  +++


 苦い知らせが、シア姫の塞いでいた耳に、注ぎ込まれた。
 『翌々日には、定められた国の王子のもとへと嫁ぐように』
 
 大丈夫だと思っていた醜聞の心配が、現実へと変わったことを知った時、シアの顔は真っ白になった。
 大事になっては遅い、と、女官がシアの手を引く。
 狭い宮廷の一室へと案内され、後は父王の命を待つばかりだった。
 きっと、…噂を重きに見て、どこか適当な所へ婚姻を結ばれるのだろう。決められてしまう。
 それだけではなかった。
 …サリューの時と同じになってしまう。
 醜聞と絡めて陰謀に陥れられてしまった副宰相を思い出す。
 すでに、王宮の宰相を気に入らぬ輩は、格好の理由と見て、工作している最中だろう。
 帰ってきた宰相に、…失脚してもらうために。
 
 二人も。…二人も、自分のせいで。……。


 部屋の隅で、嗚咽して、シアはしゃがんだ。自分はやはり、泣いているだけの姫君なのだろうか。…サリューの時、…ずっと自分は、…泣いていた。泣いているだけだった。
 …その横で、ずっと、見守ってくれていたのは、…泣きも笑いもしない、…ただ冷たいと思っていた、…カルナだった。

 …もう一回、…泣きたくない。

 今度は、一人きりで、…好きな人を失って泣いてなんかいたくない。

「…負けない」
 シアは、床にぽとぽとと落ちる涙を拭った。




 +++

 婚姻の日を翌日に控えたシアの身体は、いくつか傷がついていた。
 普段大人しい姫だと思われていたシアが、…何度も、脱走を試みたり、…不慣れな抗いを実行したりしたからだ。
 結局、全部失敗に終ったが、…宮廷内では相当な衝撃だったらしく、女官達などに、同情的な言葉が聞かれるようになっていた。

 所詮、世間知らずの姫君の抵抗で、…大した力もなかったのだから、容易に食い止められる類のものだっただろう。しかし、シアは、…床に、へたりこんで、茫然としていた。
 …泣きたくないのに、…涙だけが、頬に流れ落ちてくる。
 そんな姫君ではいたくないのに…。

 夜になった頃だった。
 眠る気にもなれず、このまま更ける時間を朝まで過ごしてしまおうとシアは思っていた。
 カルナと自分のことを考えることのできる、最後の刻だと思った。

 明日の朝には、今日のような我侭も許されず、とうとう嫁がされてしまうのだろう。
 …そして、帰国した宰相は牢獄へと。

 …駄目。…それは駄目。
 いっそ、カルナを捕らえるくらいなら死んでしまうと、父王を脅そうか。…あの人を失うのは嫌……!

 はあはあと、シア姫は、汗をかいて、己が想像をかき消した。夢中で、…部屋に誰かが忍び込んできたのにも気がつかなかった。

「…やはり、私は、弱い姫君なのでしょうね。…あの人だけでも救えたら良かったのに…」

 本当にそうだったら良かったのに。
 闇の降りた部屋で、シアは自嘲しかけた。
 なんて、非力な…。

 壁に、打ちつけるように背をあてた。
 痛いくらいに、傷つけるくらいに、音を立てて。
 そんな時だった。ぼやっとしたシアの感覚に、突然ドクンと敏感な音が走ったのは。
 ふっと、自分以外の気配を察して、辺りを探ろうとした。

「だ…」
 誰、と声を掛けようとするより先に、ぎゅっと、両腕がシアに絡みついて、肩を抱かれていた。
 はじめ、優しく、肩を滑っていた腕は、…段々と下りてきて、シアの身体全体をきちんと包んだ。
 …ああ。
 声はなかったが、問わなくてもお互い感じとっていた。


「カルナ…」
 暗闇の中で、シアは恥ずかしそうに、話し掛けた。
「誓います」
「え…?」
 そっと、顎を持ち上げられ、唇を重ねられた。
 びっくりしたシアは、少しだけ腕で抗った。それを、抑えるように、きつく身体を抱かれ、徐々に、安定して、キスが続けられるようになった。
 真摯で、…辛いくらい正直な感情をぶつけられているのが、シアは分かった。
 熱そのものの、…愛情だった。
 何度か、息苦しくなってしまって、腕を動かすたびに、押さえ返されて、…でも、嬉しいくちづけだった。

「あの…」
「シア。…嫌では…なかったか?」
「どうしてです」
「何でもない。…素直になるというのは、難しいものだと思ってな」
 片手を口にあてて、…少々カルナは困惑していた。
 普段理性が邪魔するが、自身で信じられないくらいの行動を取る。

「…誓うって、…何を誓ってくださるのですの?」
 ちょっと、ぼけた、姫の問いが遅れて飛んできた。
 
「それは…」
 舌が固まった。声にはっきりと出すのを憚るように。
 カルナは、王妃の言葉を思い起こして、…自身を奮わせた。

「シア…」
「はい…?」
「明日になったら、ここからあなたを助けます。…宮廷の方は任せておいてくださればいい。…それがうまくいったら」
 また、舌が、停止しようとした。それを、…素直になろうと、自身に言い聞かせて、シアの耳元に、ふっと囁いた。

「あなたを私の妻にしたいと思っています。…よろしいですか」

 

 しばらく、…静寂が降りて、返事は聞こえてこなかった。
 姫のピクと動いた様子や、震えているのを、腕の中に感じていた。
「…はい」
 
 ゃっ…。

 シアは真っ赤になった。本気で、己がものにするように、抱きすくめられた。
 愛される、…初めての充足を闇のさなかで知った。
 マーセデの夜明けまで、カルナは優しくシアの身体を抱いていた。