過ちに降り注がれる祈り 『……ここが、ナーセット?』 馬車から降り、初めて、それからのち暮らすことになるナーセットの王城を見上げたとき、彼女はそう言ったという。傍には、婚約者である兄王子が添うようについていた。 『ああ、そうだよ。これから全て紹介しよう。城の中も、人も。……無愛想な弟が一人いてね。これがまた頭が堅くて』 『弟君ですか……?』 婚約者の弟。レイス・ナーセットはそうやって、シリーン姫の前に初めて現れた。 ただ、彼は、兄王子が連れてきた婚約者に、弟として挨拶をしただけ、だった。 そのはずの光景は、思わぬ誤算を孕んで、……彼は、至近距離で顔を合わせた異国の王女にすっと静かに瞳を奪われていた。寡黙で真面目で、と横から弟を評す兄の声が、ぼやけて遠くに聞こえるほど、意識が辛く、息のつまる時間だった。 彼は、うっすらと目を伏せて、兄の婚約者の手をかすかに震えながら離した。 「ようこそ、歓迎いたします。シリーン姫」 その日、その刻-とき-、一緒に、目を合わし、言葉を交わした瞬間から、……暗く激しい嵐の中に投げ込まれていた。 おそらく、初めて紹介を受けて、名前を口にし、ゆっくりと手を握った瞬間から、狂い始めていた。 それは……過ちだった。 「……カルナ。聞いてますか……? カルナ?」 はっと、意識を戻される。ここは、……ああ、と彼は今の状況を振り返った。 『王宮』だ。 「あなたは、やはり私よりここ -ナーセットの城-をよく知っているのですね。目が懐かしそうだ」 図書室の高い天井が、サリューの呟きをゆらりと響かせた。視線の先にいたマーセデ宰相は、面白くなさそうな顔で、馬鹿なことを言うものではない、とぴしり会話を途切らせた。 そうかな……と、割にのんびりした感想を持ったサリューは、カルナを眺めながら微笑していた。きっと、嘘だ。顔に書いてあるとまでは言わないが、流れてくる空気が、相手の本当の気持ちを伝えてくれる。少なくとも、……嫌ではない、だろう。先に交わされたナーセットとマーセデの間の友好条約は、こうして彼がナーセットを再び訪れることを可能とした。他国の宰相としてではあるが、数十年ぶりに公に踏めた祖国が、……感慨深いものではないと、誰に言えるだろうか。 もっとも、口に出して、正直に感情を教えてくれる人だとは思っていない。これは、サリューの勝手な想像だった。 「話というのは」 「王妃がぜひにお会いしたいと」 「断る」 それしかないと言わんばかりに即答して、カルナはサリューを睨んだ。 「帰るのですか」 「当たり前だ。この城での会談も終わった以上、長居は害になる。王妃には失礼のないようお前から言っておいてくれればよい」 何だか、急に慌てた風を装って、カルナが扉の方へ向かっていく。王妃の名を聞くやいなや、早々の帰国を望んだ様子はいかにも、だった。 「ですが……」 「お前は知らなくてもよいことだ」 カチャリと、扉が開いて、廊下の冷たい空気が流れ込んできた。 そこより先に、カルナ宰相の歩は進まなかった。 押し返すように、人がいたからだ。 「お久しぶりですわ」 にこやかに、ナーセット王妃が挨拶した。 +++ 「あらあら、逃げるつもりだったのですか。人が、話があると頼みにきたというのに、薄情な人ですね」 「私には無い」 振り切って、廊下へ出ようとするカルナを、王妃は手に握った扇の端で制止する。瞳はじっと強い調子で相手の瞳を「射て」いた。 「通していただけないか」 「そのつもりはありません」 王妃は、おだやかに返した。だが、上品に大人しく口に出された言葉も、瞳を見れば激しさの裏返しなのだと分かった。すこぶる手強い、この王妃は。岩のような意志強さと頑固さだ。カルナは、王妃と闘っている自分を感じた。負けるわけにはいかなかった。 王妃とカルナ宰相は、お互いを見たまま、動きを止めていた。 +++ 硬直した空間というのは、実に息苦しい。微動だにせず、王妃と宰相は見上げ、見下ろしたそのままで闘っていた。それが何分間もの緊張を持続させ、異様な火照りと乾きを生んでいた。 パン 頬をひどく打つ音。カルナの両方の頬に、王妃の手が置かれていた。カタンと、扇が床に落ちる音が、遅れて続いた。 「……あ」 「このまま、兄君のところまで引きずっていきましょうか、レイス」 「おやめください、王妃。いささか感情的になりすぎではないか」 「レイス……」 実際にうろたえているのは、カルナの方で、呼ばれた本名にぴくんと震えていた。捨て身に近い王妃の体当たりに、乱されかけていた。 「時が戻せるものなら……絶対行かせはしなかった」 ぴん、と通る声。きりきり鳴りそうな悲しい訴え。それはカルナの心をくっと貫いた。 王妃の声が途切れるとともに、視界の先が崩れた。王妃の顔が見えなくなり、代わりに、人の、一人分の重みが続いた。まさか、とカルナは胸元を見た。 息をのみ、確かめる。そのまさかが、起こっていた。芯が鉄のようなあの王妃が、燃焼して倒れ、果てたかのように、意識無くカルナの胸に寄りかかっていた。 時が戻せるなら……。まだそのようなことをあなたは言うのか。 渋く、カルナは言葉を呑み込んだ。 「……サリュー、すまないが」 「承知しました」 カルナの意を読み取るように、サリューは二人に向かって退出の礼をした。 よく分かったな、というように、カルナは半分口を開けかけた。王妃を運んでくれ、と言いたかったわけではない。言いにくいが、……二人にしてくれ、と頼みたかったのだ。それを察したサリューに、カルナは感心し、ゆっくりうなずいてみせた。 大変な場面を目撃したわけであるが、サリューは極めて冷静を装って行動していた。 後はお任せします。声は聞こえずとも、元弟子の視線は最後にそう告げていた。 パタンと、背後の扉が閉まると、彼は王妃をゆっくりと抱えて図書室のソファに移動した。ゆっくり柔らかい場所に寝かせると、しばし後ろめたい気分になった。このようなところを人に見られたら、大した醜聞となるのだろう。互いに今は伴侶と子供がいる身なのだから。 それなのに、身体を張って、はっきり求める王妃……いや、シリーンという女性は、凄まじく強い。 誤解も体裁も全て超えるほどに、彼女の思いは固かった。…… いつの間に、このような強い女にしてしまったのだろうと思った。昔の姫だった女性は、そう、もっと、……可憐だった。なのに。 +++ してはならない出会いというものがある。 重ねてはいけない関係というものがある。 おそらく、初めて紹介を受けて、名前を口にし、ゆっくりと手を握った瞬間から、狂い始めていた。 好きになってはいけないものを好きになるという甘い毒が全身をまわってしまったのだ。 そして。 『ナーセットを壊すおつもりですか……? 自分の国を? 私がリイン様の婚約者だと知っていて……。兄君を敵に回すつもりですか? だって、今日嬉しそうに教えてくださったのですよ、自分は国王になって、弟のあなたが宰相になれば、ナーセットは平和で安泰だって。そんな……』 想いを打ち明けた日。 その刻は、戻りはしない。 続く ※おうさい系図、参照 |