ちび姫様と憂鬱なる騎士 ナーセットの王城も、朝をだいぶ過ぎた頃になると、活動時間に入るのか慌しい。城のあちらこちらで、静寂が破られ、人々が動く音がし始める。 執務室も例外ではない。現在ただ独りの宰相補佐役であるミルは、がらんと空いたその場所を確かめると、王宮の廊下を足早に渡った。 無言で表情も固い彼から思うところを読み取るのは大変だが、まだ不在の宰相に苦情の一つでも言いたげであるのは、確かだろう。 宰相が昼近くまで執務室に姿を見せないことはよくある。だが……書類が溜まっていることを知っていて余裕気に出仕しないのでは、補佐役が仏頂面で呼びにきてもしょうがないだろう。 念のため、サリューがだらしないわけではない。朝が不規則な生活の裏には、事情がある。 国政の諸々雑多にいたる手綱を握る宰相が、どれほど見えないところで尽力してくれているか。ミルなど到底及びもしない時間と力を、気が付けば費やして、ナーセットを守ってくれているのだ。 根回しという言葉で薄暗く言われることもあるが、表のみだけではなく、その辺りもやはり抜け目なくこなしてくれている。それが朝が弱いなまけもののように、傍から見えてしまうのは悲しいことだったが、実際はとんでもなかった。 以上のような事情を汲んで、宰相の朝が遅いのは見逃される傾向にあるが、それも時によりである。……起きろ、と念じてしまう部下の気持ちもたまには悟ってほしいものである。 夫妻の部屋までやってくると、そこでは母子が仲良く朝の会話を交わしていた。ミルの顔が少し本気だったのか、用件を言わずとも事情を察した母親は、ちょっとお待ちなさい、と声をかけた。 宰相は未だ寝ているようだった。 シェルにおはよう、と挨拶されたミルは、多少丁寧に、返事を返したはずだった。 「おはようございます」 だが、宰相を取りあえず叩き起こしたい気持ちが出ていたのか、ぶっきらぼうになってしまったところがあった。 「サリューを起こすわね」 母親に、お父様を起こしていらっしゃい、と言いつけられた娘は素直に、はい、と笑顔で応えた。 シェルは元気に寝室の扉まで駆けていくと、自分より少しだけ背の高い位置にあるドアノブを、ぎゅっと引いた。 しーん、と静かに冷たい空気は、父がまだ熟睡しているのだろうと予想がつく。彼女はさて、どう起こそうかな、などと考えずに、ちょっと小悪魔な微笑を浮かべた。 「お父様っ」 口にするや否や、返事も聞かないままに、ベッドの上に特攻した。まるで遊ぶように、無邪気にばたんと飛び乗った。金色のふわふわゆれる髪は、一瞬わっと舞って、布団に着地した。 下で、娘の重みに「……ぅ」という呻きが聞こえたのを、聞かないふりして、シェルは 「お母様が代わりに起こしてきなさい、って」 と、可愛く歳相応の大義名分を述べた。6歳の娘は、軽い方であろうが、それなりの重さを伴っているのは事実である。それが急にどんと来たのだから、……痛かったに違いない、と考えてもいいだろう。しばらく父の反応がなかったので、シェルはばたばたごろんとベッドの隅に転がって、父の身体から降りてみた。 数瞬の緊張と沈黙。 突然、どこからともなく二本の腕が伸びて、王女を捕まえた。きゃ、と驚く暇なく、暗い布団の中に閉じ込められたかと思うと、温かい体温が、誰よりも愛情を込めて彼女を抱き締めていた。 父の胸。ちょっとどきどきするけれど、それはシェルの憧れの人だからだ、……父は。いつかこの人から政を習うのだ、と、それがおそらく敵わぬ願いと頭で悟りながら、夢みている。尊敬しながら、……甘えていた。宰相であり、父であるシェルの一番近い男の人。甘いと思う。ときどき大甘なところがあると思う。 でもそういう、もう、と呆れてしまうところさえ父の愛情の前には小さなことだった。 瞼に感じて雫が落ちるほど、愛されて生きているのが分かる時、人は言いようのない思いを、幸せを抱く。 「シェル」 しばらくして。 落ち着いた父の声は、少し注意を込めた色も加わって、娘の耳に届いた。 びくっとする、それだけで。 視線が合わさって、身体が動かなくなる。呼吸が、震えてできなくなる。 声を荒げて怒られるよりも、言葉を多くして叱られるよりも、辛かった。 ごめんなさい。 飛び乗ったことを父に謝る言葉。顔を下げて、反省した。 空気は途切れて、しん、と素っ気ない静かな時間を紡いだ。 父は怖いか。怖いこともあるに決まっている。 抱き締めてくれる両腕はすごく優しくて温かくても。 「起きようか」 その声が聞こえるまで、シェルは父の腕のなかで、ぴくとも動かなかった。 「お父様、……痛かった?」 ドスッとあの時音がしたような気がしなくもない。つまり「乗りすぎた」気がする。 「全然」 簡単な声が返ってきた。その時合わさった瞳は、含むところなどない、笑みを灯していた。さ、シェル、起きるよ、と身体を両腕で持ち上げられて、ベッドから離れた。 寝室の扉を開くと、その向こうでは、妻と補佐役が待ちかねていたようで、サリューは詫びるように、一言言い訳をした。娘と話し込んでしまった、と。 「……書類が溜まってます」 「すぐ行く」 「シェル様に甘いですよ、サリュー様」 アーシャにシェルを渡して、サリューは肩をすくめた。苦笑というところだ。 小言のようなことを言いながら、ミルも親子の関係を微笑ましく思っていたりするのだが、それは性分からあまり外側には伝わらない。分かるところには分かっているからいいのだ、と思う。 「ミル、後でお勉強手伝ってね」 「はい」 無表情のまま答えると、母親からわかれて、シェルが傍に寄ってきた。 「……シェル様?」 「何よ」 幼い姫の顔を覗き込んで、ミルはふっと驚いた表情をした。 「落ちこんでいませんか」 「そんなことないわよ」 一言で切って、補佐役を、部屋から連れ出そうと、わがままに手を引っ張った。 その仕草が、非常に一生懸命で、ミルは思わず、かすかに笑ってしまった。愛らしい魅力ならいっぱいで、輝く金の髪も、むっとした表情も格別で、どことなく焦っているのが見え隠れする必死な純粋さが更に可愛さを加えていた。 いつのまにか、シェルとミルの引っ張り合いになっていた。 「ミル、……シェルを取るなよ」 上司の冗談じみた一声が聞こえた。 そんなことはしません、と、言ってやりたかったが、寡黙な彼は、黙ったまま、シェルに手を引かれていた。 やがて、着替えた宰相が戻ってくるまで、手は繋がれたままで、その二人の手を離したのは、父親の恨みがましい一言。 「娘が成長するまでは、その騎士の役目は父親に、というのがナーセットの言い伝えにあるらしい」 「シェルは大きくなってるわよ」 「サリュー様、どうされたのですか」 ただ、単に、娘が誰であれ他の男に寄っているのが何となく気に入らない、父親心理だったが、ミルには分かり辛かったらしく、サリューの行動に戸惑っていた。 「それでは、シェル様が成長されたら、その役目を誰かに譲るのですね」 「今のところそのつもりはないのだがな」 「……?」 「さ、遅くなった。執務室に行く」 宰相が、そう言った頃には、ナーセットの刻は昼を告げていたが、穏やかな日で、平和のまま、過ぎていった。 ミルは半日ほど、サリューの言った言葉の意味を考えこんでいたらしいが、答えは、……分からなかったらしい。 end |