+ 王女と宰相 +


 裏おうさい 1

 まぶたの向こうに穏やかな光を感じて、一夜明けたのだと知る。
 ひんやりと絡まる早朝の空気とは裏腹に、愛しい人に抱かれている身体はしっとりとあたたかい。
 瞳を開くのが怖いほど、胸の中が幸せな安心感で満たされていて、シアはまだ夢なのではないかしらと思った。
 音一つ響くにも、透明でスロウに鳴り渡りそうな幻想を帯びた、甘くて眠い朝。
 目を覚ましたくない、このままでいたいと願ってしまう。
 抵抗するように目を瞑りながら、夢とも現ともつかない意識のさなかで、シアは自分を包む二本の腕に、もっと深く身を沈めた。
 昨夜、抱きすくめられて眠ったそのままに、今朝もしっかりと、いだかれている。
 
 おそるおそる、ゆっくり、まぶたをあげると、どきっと至近距離に、恋人の顔が映った。
 唇がすぐに重なるほど近くで、シアは、カルナの表情を目でなぞっていた。
 普段見ることもないだろう寝顔。ほとんど無防備かと思われたが、ふっと直感で彼は起きているのではと感じた。狸寝……それにしても、他人には絶対見せない表情であることは確かだ。
 歳のことを考えると、若くないとは思うが、……昔はかなり目立つ青年だったろうことが伺える顔立ちをしていた。というのも、じっと視線を注いでいて、シアは見惚れてしまっていたからだ。ああ男の人なのだな、と変に見入ってしまっていた。宰相という衣を脱いだら、余計に意識させられた。……体温を直接感じる距離というのは、おかしくも心地よい。起こそうという気はなく、ただ静かに、カルナを見つめていた。
 シアにとっては、初めてのひとである。愛しくてしょうがない。
 夜明けも去った朝の中、まどろみがちな空気に身を横たえて、幸せな刻は針を失ったように、ただ不規則に過ぎていった。
 
 + + +

 このように二人でいられるのも、昨日ちょっとした事件があったからだった。
 もとはと言えば、シアが悪かったのであるが、反省しつつも、心は浮き上がっていた。
 昨日までは一人だったからだ。
 宰相は仕事で帰ってこなかった。それだけで、シアは大変なことを起こしてしまった。
 普通待てるものだと思われるだろう。どんなに恋しくても愛しくても、たった一日二日、まあ三日くらいなら。……だが。

 たった三日間の宰相不在で、シアは、いてもたってもいられず、不安の底へと己が心を迷わせた。
 待つのが震えるほど長く思えた。
 宰相が仕事で国をあけることなど、日常茶飯事で、今まで気になったこともなかったのに、恋愛とは恐ろしいほどに人を狂わせた。外交の二文字を意味もなく憎んだ、逆恨みのように悔しがった、宰相の……その立場さえ。
 だから、と、全てを擁護してしまうには、あまりにもわがまま過ぎたが、カルナが遠方からの成果を持ち帰って城の玄関へついた時、シアはそれしかないと言わんばかりに、走り寄って彼の肩に抱きついた。
 城の人々の目前で。

 宰相の帰りを迎えようとしていた文官も女官、そこにいたもの皆が、驚き固まって、姫の大胆な行動を茫然と眺めていた。

 目を見開いて、ぽかんと口を半開きにしていた者もいた。

 まだ結婚前の姫なのである。
 カルナとシア姫の事情は、まるで公のことのように、城中に知れ渡っていたが、良い意味で見て見ぬ振りをされていた。
 宰相は以前と変わらず卒なく仕事をこなし、公私のけじめを抜かりなくつけていた。
 姫の件は政務とは別、と割り切った態度は、むしろ潔く城の人々の目には映ったようで、周りは気を遣って、宰相の恋路から目を逸らしてやろうとしていたのだ。責める者は反宰相側の人間ばかりだった。
 ごく稀に、宰相と姫の逢瀬に出くわす文官や女官もいたが、好意的に、ひっそりとその場を離れるのが常だった。

 どうせばれている関係ではあったが、正式な報告はまだで、そのせいで一応秘密の関係ということになっている。
 王さえ認めているのだから早く国内外へ知らせればいいように思われるが、準備がいろいろあるらしく、なかなか実現しない。敵も多いマーセデ宰相のことである、そういう薄暗い事情を汲んだ者達は、まだかまだかと待っていたりする。
 噂では後一ヶ月もすれば、公に発表されるらしく、それまでは大人しく口を塞いでいようとする城の人々であった。

 だが、彼らの目の当たりにしてしまっている光景は、シア姫が外交から帰ってきた宰相にぎゅっと抱きついている、言い訳のきかない色恋場面だった。
 そういう関係ではないという建前になっている宰相と姫が、大勢の前で、密着した姿を晒している。
 宰相も焦っただろうし、周りの者達も焦った。
 姫の暴走は致命傷になりえた。
  
 
 数分、沈黙があっただろうか。冷たく冷え切った玄関の空気を剥ぎ取るように、事に決着をつけたのは、宰相の機転だった。

「明日、全てを明白にする。……いいな?」
 
 一言で十分だった。
 それだけ口にした宰相に、皆こくりとうなづいた。
 公でないなら、それを公にしてしまえばいい。だが、そうするのが難しいのだ。

「……ごめんなさい」
 取り返しがつかないことをしてしまったことを悟ったシアは、カルナの肩に手を置いたまま、早口で呟いた。
「今は黙ってください」
 小声で、シアにだけ聞こえるように囁きが漏れた。
「だっ……」
 口を開こうとした末姫の身体を、強い力が抱き上げた。ひょいと持ち上げるようにはいかなかったが、カルナはさほど問題ではないという顔をして、シアを腕の中に運び込んだ。
 周囲に、驚きというより衝撃が走っているのが見て取れる。
 普段、固い態度を決して崩さない真面目な宰相が、女を抱き上げているのだ。それも自分より二十は若い、年頃の姫を、である。
「……な」
 シア姫は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた。それとは正反対に、カルナ宰相は冷静そのものの表情で、周囲に牽制の視線を送っている。
「……カルナ」
 シアは気づいてすまなそうに顔をさげた。この時、彼が大胆に抱き上げたのは、シアを庇うためだった。人々の、姫が宰相に抱きついた映像は、おそらく、それより衝撃的な宰相の行動に上書きされてしまっただろう。
 
「あの……」
「理由は部屋で聞きましょう」
「降ろしてください」
「……ひけないのです」
 低い声で、シアの耳に重く響いた。辛い決断のようなものが、ちらついた。
 シアを抱き上げている上に、城の者達に固唾を呑んで見守られている。注目を姫の分まで一身に庇い受けて、その一挙一動が針の筵にのぼるような痛さだっただろう。
 下手をすれば、宰相としてこれまで積み重ねてきたものを、全て壊しかねない危険を孕んでいた。
 プライドも、経験も、名声も、……シアはぎっと唇を閉じて、後悔した。
 そんなことをしてまで、庇わなくてもいいではないか、と、心のどこかでカルナに叫びもした。


「……宰相。お願いしたいことがあります」
 このさなか、緊迫した空気を縫って、女官が一歩前に立った。勇気ある行動である。彼女は、シアが最も信頼している女官の一人で、いかにも心配そうに、そろそろと歩を進めて、宰相と姫の前へ出た。

 最初、うろたえ気味だった女官だが、震えた足元をただすと、意を決したように、しゃんとして宰相に言った。

「……まわりくどいことは、お止めくださいませ。ここにいる者達は、皆、姫様とカルナ様のことを知っております。ああ、こんなことを何故言うかと申しますと、つまりは、……じれったいのですわ。カルナ様、明日、お話を内外に公にされるのはいいことだと思います。なれば、この場で、後ろめたい思いなどされることはありませんわ。当然のように姫様をお抱きになればいいですわ、ねえそうですわよね……皆?」

 女官は振り返りつつ、言い終えると、後ろから、大粒の拍手が返ってきた。わっと突然歓声が湧いて、女官の言葉を後押しした。
 カルナは、聞こえない程度の息をついた。まさかこのようなことになっているとは……という意味の感慨だった。知らない間に、……城の中は大きく変化していたようだ。
 味方が増えていた。

「一人、いや、お二人と思わないでくださいね」
 とは、女官の元気のいい応援の言葉だった。

 
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 シアは、眠ってしまったようで、目を覚ますとカルナの瞳にちょうど捕らえられた。
 さっきまで眠った顔を見ていたので、少し驚いた。しかも、なんだかシアが起きるのを待っていたような視線だったので、恥ずかしくなった。自分が見つめていたように、カルナもおそらくシアを近くで見ていたのだろうと思うと顔が火照りそうだ。
 お互いに、言葉が出てこなかった。言葉を失うに十分過ぎる恥じらいが、まだ残っていたというべきか。
 間が悪いともいう。
 それを解くように、柔らかく一回、唇が重なった。どちらともなく。
「……あの」
「先にお伝えしますと、五日後に、帰れるか分からない会談がありますし、その少し先には昨日のような遠出する予定が入っています」
 丁寧に、事務的な口調でカルナは言った。一つ前のキスをした口から出たとは思えないような、完璧な台詞。当たり前であるが、仕事と恋は別で、シアを甘やかすつもりはない、と暗に示すような言葉だった。

「もうわがままは言いませんわ」
 そう決心しながらも、シアは心細いものも胸に秘めていた。
 ……寂しいのはやはり寂しいのだ。
 
「早めに式はあげられると思うのですが」
「……え」
「ユイスに言って館を調えて、私の方も事を済ませば……」
「結婚の……準備をしてもいいのですか……?」
 途端、シアの頬に明るく朱がさした。非常に嬉しそうである。
 考えてみれば、国内外に公のこととして知らせるということは、そういうことも意味する。式が現実のものとなるのは必然である。

「政務で構えないかもしれませんから……姫は準備で気を紛らわせて……」
 と、余計なことを言い出す、宰相の慇懃な口を、シアは少しふくれて強く塞いだ。
 ……と、一瞬、キスの隙間から、見たことがない笑顔を垣間見た気がした。
 まだ解けてない鍵が開いた感覚。
 ドキとしたままの口づけは、知らない間にリードを許していた。

 その日、マーセデの王宮から発せられた報告は、確実に国内外に影響と衝撃をもたらしたという。