師弟論理
雪が降る。
真っ白の、手に籠もるとすぐに消える冷たい結晶は、空から無言でやってくる。土の上に重なって、それはもうすぐ白い景色をつくるだろう。
寂しく降り続け、マーセデ王国の空を埋め尽くしている、雪という名の到来者。
天を見上げ、舞い降りてくる冷たいそれに手を伸ばした者は、静かに、今年の寒さを予感する。
凍えるような、小さな固まりが手のひらに与える感触は、けして優しく温かいものではない。マーセデの冬は、大陸を異なるナーセットとは比べものにならないほど雪に侵略され、閉ざされた世界となる。
そして肌と体温で思い知る、ここが……、……生まれ育った土地だと。
白い息が乱れ、幻想のように意識が一瞬揺れた。
ほのかなめまい。
ナーセットの気候に慣れきった身体が起こした、ごく当たり前の反応だと分かっていたが、愕然とした。……ああ、と。生きている世界が変わった結果がこれだった。もはや、元に戻れないものを感じた。
先ほどから、舞い降りるというより、吹き付ける勢いになろうとしている雪に、手をかざそうと窓を開けたのは浅はかな思慮だった。異変を察せられるや、後ろから引っ張られ叱られた。
それは子供じみた行動だった。だが、ただ、懐かしかっただけなのだった。雪に触れたとき、過去とやっと接点を見いだせたような気がして。昔この国にいたはずの自分と、今ここにいる自分が、雪に手をかざしたひとときだけ重なった、それが本当、……懐かしかったのだ。
サリューは、元の師だった人に謝った。まるで、少年のような純粋な申し訳なさで、頭をさげた。
その様子を、十年前も今も変わらない固い表情でマーセデの宰相は凝視している。最後、会ったそのままの人だった。……シア姫と結婚したと聞いたが、そんなこと微塵も触れさせないような、鉄面の男性がサリューの前に立っていた。
「手紙は受け取ったな」
「ええ」
「罠だと思わなかったのか。愚か者め」
「ちょっと、待ってください。……あの、私は、……だまされたのですか? 書面には、……ただ会ってみたい、とあり……」
焦ったサリューは、カルナがうつむいた瞬間に、唇をほころばせたことに全く気がつかなかった。その上に、この元弟子の馬鹿なまでの自分への信頼と無警戒っぷりに、元の師は思うところがあった、などと見破れるものではなかった。
「何もなくば、呼ぶと思うか?」
「それは……」
「おそらく、罠であろうと思いながら、来たのだろうな? そうでなければ、マーセデ宰相が手紙を送るはずはないと、速攻思い当たったはずだ。両国の国交は開かれていないし、お前の大陸ではまだ恐れられている、独裁大国だ。そして、私は、大陸で何と言われているか知っているな……? 策略の一つも浴びずに、帰れると思ったとしたら、大したお人好しの宰相であるといえるな」
「カルナ、……私はただ」
「たとえば、現在ナーセットの友好国であるセルシュと、マーセデが手を結ぼうとしているという情報はどうだ。これは、機密だが事実だ。こちらは大陸への足がかりとして申し分ないし、セルシュ側も、随分熟考した上得策だと判断したようだ。じきに両国間に条約が結ばれ、マーセデは異大陸の見知らぬ国ではなくなる。その隣にあるナーセットも影響を受けないではないだろう」
「脅しですか……」
低くこもった声が聞こえた。ようやくサリューの目の様子が変わり、細く緊張した視線を感じた。ようやく、だった。ここまで、何とも思わなかったほうが、むしろカルナには心配だった。
今日は、手紙のこともあるが、わざと宰相の出で立ちではない。貴族か王族だとわかる上品な壮年紳士の服装をしてはいるものの、故意に職務に関わるものは、おいてきたのだった。場所も、マーセデ王宮から遙か離れた、地方のこじんまりとした私的な別荘である。
朝方に訪れた、青年を卒業しかかった年代の男は、お久しぶりです、と深く礼をするなり、非常に無邪気な笑顔を見せた。
名前を呼ぼうと発音しかけた唇が、いったん止まって、ナーセット宰相と、言い直した。
何故だろう、と自然おこなった行動に自問してみたが、答えは、元弟子を見ているうちに、だんだんと解けていった。
……まだ、師弟のまま、だから、だ。
サリューに、教えねばならないものが、まだ残っていたとは、皮肉なものだなとカルナは思った。
思い出話も悪くはないと思っていた頭を素早く切り換えて、彼は宰相に転じたのだった。師に変じたのだった。
弟子を叩くために。
「セルシュを切り崩せば、ナーセットもおのずと時間の問題と心得る。そのとき、お前は、対等に私と渡り合えるだろうか。……よもや油断はしまいな。弱音は吐くまいな」
「相手をしろと言われるなら、……以前から覚悟はできておりますが」
「二言はないな?」
「はい」
「……鈍るようなら、王女と王子を預かってもいい」
「……カルナっ。それだけは許せません」
「気安く名前を呼ぶな。……シェルシー王女は5歳か。お前に似ていれば、さぞ聡明で頭の切れる子供だろうな。生まれたばかりの世継ぎの君でもいい。……マーセデがセルシュに変わってナーセットに力を持てば、どのようにもなると、思いつきはしないか」
「阻止、します」
私が全力で、マーセデからナーセットを守ります、そう、サリューは言った。
傍で、心地良い笑い声が聞こえた。
はっと、視線を向けると、カルナは呆れ顔で、その表情はもはや堅く難しいものではなかった。今まで我慢していたような、こそばゆい温かささえ、その頬にあった。
は……?とぽかり口を開けるばかりのサリューには、状況を読み取れなかった。何だ……何だったのだ?
……と、隙も何もありまくりのサリューの身体が、戸口までぐっと引かれていく。
「……ち、ちょっと」
抵抗しようにも、カルナの方が力的にも勝っていて、そのままずるずると玄関から極寒の銀世界へと追い出された。すぐに、閉められた扉をドンドンと叩く。
外は、雪が綺麗だ、なんて呑気いっている天候ではない。長時間放りだされていたら、確実に体温を失って死ぬ。
無茶だ。何を考えているのだ。
「開、けてください。……カルナ、私が悪いことをしましたか」
あがくように、凍る扉に拳をぶつける。早く、早くと苦しく焦る。
吹いてくる雪は強烈に、サリューの身体を襲っている。凍えて、倒れそうだった。
「私こそ、お前に何をした?」
内側から、扉越しに声が聞こえた。
「えっ……」
「油断が過ぎる。無防備過ぎるのもたいがいにしろ。お前を降すのは簡単過ぎる。どうしてこのような事が起きると思う? そこで、胸に手をあてて考えてみろ」
傍目には、冷酷で惨い仕打ちに見えた。胸に手を置こうとしても、凍えた腕はいうことをきかない。やっとの思いで、扉にぶつけるだけた。
思考も、寒さで回転が遅れ鈍りつつある。何で、何で……子供のようにサリューは考えた。
絶対勝てない。……本気で闘いたくない。
尊敬している、自分の師である人。
心のどこかで、信頼しきっている、…………ああ、そういうことか、と弱った。
身体が、ずるりと滑るように倒れる。
……すみません、と心の中、意識を失う最後のときに思った。
いつまでも弟子のままだって、言いたかったのでしょう?
しょうがないじゃないですか……。私が……るような人は……
扉が開く音を、サリューは聞かなかった。
+++
「ひどいですね。他国の宰相を、雪吹き荒れる天候の中追い出し、あやうく凍死させるところだったとは。この責任、どう取られるおつもりですか」
「どうも何も、お互い、王宮には内密で来ているのだから、予想はつくのではないか。本来は、お前の顔を見るだけのつもりだったのだが、……そういうわけにもいかなくてな。つい、世話を焼いてしまう」
「は……?」
「私も結局は、お前の師から抜け出せていないというところか。……頭を起こすな、寝ていろ」
押さえつけられるように、手が伸びてくる。馬鹿野郎と、年甲斐もなく、現在の自分らしくもなく心で愚痴った。
「以前から思っていたのですが」
「何だ?」
「……師があなたでよかった」
「熱があるか」
「ありませんよ。こんなときでもないと言えないと思って。……次に会うときは、間違いなく両国の宰相としてでしょう。分かっています。私が甘いのだ、と。あなたから手紙が来たとき、何も考えずにただ嬉しくてここまで来てしまったのも、愚かであるのでしょう。でも、それほど、あなたに会いたかったのかな、と思います。……職務じゃなく、ね」
「サリュー」
多分その答えは、気がついている。
甘えのようなものだと、
唯一、素で負けられる。と、ここまではカルナには言えないが。
「帰れ」
「は? この大雪の中行けるわけないでしょう。これからもっと酷くなるようですし」
「明日、王宮にどうしても出向かねばならない」
「こっちだって同じですよ。あまり長居するつもりはないですし、下手に怪しまれると困ります」
「知らん。早くナーセットに帰れ」
「カルナ、……何、怒っているのですか」
枕越しにつぶやく。
破門だ、と、小声で低く聞こえたのを、耳にした。……ああ、そうですか、とサリューはうつろに思った。
この人も、師であることをやめられなかったのだ。
「キーリスがお前に似て、育って困る」
「……」
「あるいは、お前のように育てばな、と。あれは、成人するまで生きられるか危うい」
「どうして、私に話すのです」
それが、カルナの息子の話だと分かったがいいが、サリューは糸口をつかめなかった。一体謎の話だった。
「さあ。なぜだろうな。聞き流せ。……いずれ、ナーセットと国交を結ぶにつれ、お前に託すものもあるかもしれない、と思ったまでだ」
「うちのシェルはやりませんよ」
「どうしてそういう話になる?」
「あなたの息子を差し出されるなら、私の娘をもしかしてマーセデに取られるかもしれない、と思ったのです。あり得ませんが」
「悪くないな」
「カルナっ……」
「今日は安静にしていていい。明日、送ってやる」
額を抑えられ、また枕に押しつけられる。
視線が合った。まったく……、とお互いに呆れていた。
+++
二年後、ナーセットとマーセデの国交が始まり、キーリス少年がナーセットへと招かれることになる。
運命は、そこから転がりおちるように変異する。
end
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