残酷な運命が支配する
十二夜
| 1. 街角 「…お……と…」 男は振り向いた。 「音…?どこだい」 少女はしきりに方向の定まらぬ人差し指で、ある場所を指そうとしていた。 「あのオルガンまわしかい?」 「……おと」 「行ってみる…?」 男は少女の顔にかすかな笑みを見出した。 まるでオルゴールを奏でるように、素朴で哀しげなメロディを街角に流していたのは痩せて生気のない老人だった。今にも壊れそうな、古い正方形の箱を大事そうに抱え、彼自身機械であるかのように、静かに一定の正確なリズムをもって、その楽器をまわしている。男は老人に曲を頼んだ。 「なんでもいい、一曲演奏してくれ」 老人は男の言葉を耳にいれてないようにみえたが、まもなく「恋人たちのアリア」をゆっくりと奏で始めた。今、街で流行りの安っぽい唄だったが、それを男と少女は老人の前にならんでじっと聴いていた。オルガンまわしのにぶい音、かわいた街の空気、夕方の淡いオレンジ色の空、もうだれもいなくなった街角。調べは心にしみるように響いた。 「ありがとう」 男は老人にいくらか渡した。 それから男は少女の顔に目をおとした。少女は男の腕にすがりついていた。しあわせそうな顔。しかしその目の焦点はどこかとおくにあわされていた。 また、オルガンまわしは異なる曲を奏で始めた。今度は寂しい曲が二人の耳を満たした。 「…お……と…?」 「音、だよ」 少女が突然男の手を強く握り締めた、とともに男のほうを見上げる。 「好き……、これ…」 「気に入った?」 少女はかすかに頭を動かした。 「……きれい」 瞳の奥からあつい液体が溢れだした。 2. 研究所 その研究所は、ひとの住む街からおよそ離れたところにあった。外装も内実も荒んだ鈍い銀色の建物に、近づくもの、近づこうとするものは一切なかった。人々の関心外の世界だったのである。研究所にはその長と若い研究員のふたりしかいない、ともに灰色の研究衣をまとい、顔は青白く、ある種の人形のように無表情だった。 「ルシフォン君、このどうしようもない分からず屋をお仕置きしておきなさい」 「手足の枷をはずしてはいけないよ、自由になったとたん、それは私達に向かってくるから」 「どうして、今回のは私達の研究を台無しにするような真似をしてくれるんだろうねえ。まったく、政府も不良品を送ってくるんじゃないよ、私は研究がスムーズに進むような研究材料を頼んでおいたはずなのに。いい成果を求めるのならば、こちらの注文を素直に受け入れるべきなのだ。…ああ、ルシフォン君まだそこにいたのかね、はやく行ってきたまえ、それは厳しくしつけなきゃならんようだから」 研究所長は自分と同じ顔色の研究員に命令し、そして彼自身は、膨大な研究書類の山の中に身を沈めた。 地下への階段を降りながら、少女は噛み付いた。爪で引掻いた。大声で叫んだ。つまりは抵抗した。 「離しなさいよ、聞こえてるんでしょ?」 「また、地下に連れてくの?あそこ大っ嫌い、冷たい、暗い、非人間的な場所。あそこにいると気が狂いそうになるのよ」 「もっとゆっくり歩いてよ。私はあなたみたいに自由に歩けないんだから」 「きつく引っ張らないでよ、手足が痛いでしょ?」 「扱いが荒いわ。いいかげん、私をもの扱いするのはやめてよ」 「ああ、とうとう着いてしまったわ、私の嫌いな檻がみえる」 「当然、閉じ込めるのよね?そしてひとりにしておく。それがあなた達の考える罰。ここの真夜中ってどんな風だと思う?なんの音もしないの、無音なの。さびしいってものじゃないの、殺されそうなの」 「寒いの、なんかうえに被るもの持ってきてよ」 「こんな冷たくてじめじめしたところ大っ嫌いなのよ、どこかもっと陽のあたる暖かいところにうつしてよ」 少女はひたすらしゃべり続けた、研究員のうつろな目をきっ、と気をひきしめた表情で見つめあげながら。しかし、研究員は少女を地下の檻に閉じ込めると、よそ見さえせず、さき上った階段のほうへ向かっていった。 「ああ、ルシフォン君」 戻ると所長が待っていた。抑揚のないぼやけた声、その本人も似たような存在感だった。ルシフォンと呼ばれた研究員は所長を焦点のあってないような眼で見ながら、少女を地下に置いてきたことを告げた。 「どうしたものかね、あれでは私たちの研究はうまく進まないよ」 「私が観察してきましょうか」 「そうしてくれるかね、頼むよ」 観察、という名の生態調査。それだけ所長と話すとルシフォンはくるっと方向をかえて地下室へ戻った。 少女は地下でひざを抱えてうずくまっていた。 「あら、帰ってきたのね。ちょうどいいわ、退屈で死にそうなの、私の話の相手をしてよ」 「お前の相手はできない」 「いいじゃないの、そんな暗い表情でむすっとしてないで。私はひとと話するのって好きだわ、だって、面白いじゃない、どれひとつ同じ会話ってないのよ。少しずつでいいわ、お話ししましょ」 「……」 ルシフォンは少女を無視して、眼をそらした。 「私の名は知ってると思うけど、一応言っておくわね、マーシャっていうの。母さんの死んだお姉さんの名なんだけど、すごくおしとやかで、街の中でも一番かその次くらいに綺麗な人だったんですって。私の名はそれにあやかってつけてもらったんだけど、母さん失敗したって言ってた、名前がもったいないとまで言われちゃった、ははは…」 マーシャのおしゃべりだけが静かな地下に響く。 「…それでね、ここへ来るまでは私、街でマーシャと呼んでもらえなかった。マーシャじゃなくて、マシャ。マシャマシャってなんか猫の名前みたいで私は好きになれなかった。私はマーシャなのに、皆はマシャって呼ぶの、私はマーシャだって大きな声で叫んで訂正したかった。だってそうでしょ、名前ってとても大切なものだと思うの、せっかく素晴らしい名前をもらったのにそれを呼んでもらえないの、くやしいじゃないの。ねえ、なんとか言ってよ」 「髪もね、こげ茶で綺麗じゃないの、伯母さんはさらさらの金髪だったのに。毛の先もくるっと丸まっててくせ毛だから、朝、鏡を見るといつも変。なおすのに苦労するの。眼の色も好みじゃない、私はもっと濃い青がよかったのに、どうしてこんななんだろう」 マーシャは檻の中から外をのぞきこんだ。面白くなさそうな研究員の顔が眼につく。 「ねえ、なんとか言ったらどうなの?いいじゃないの、何故駄目なの、禁止されてるの、嫌いなの」 「お前は研究材料なんだ。話なんか必要ない。黙っていろ」 「ねえ、どうして、人間だって分かっているのにそんな風に私を扱えるの、「研究材料」そう呼んで一般の人々と区別したつもりでいるの?見てよ、私、普通の人間じゃないの。どこが違うの、ねえ、言ってみせてよ」 ルシフォンはマーシャのがなるような物言いから耳を塞ごうとした。 「言ってくれたっていいでしょ。ちょっとおかしな力を持ってるくらいよね、私って。それだけで、隔離されて、こんなじめっとしたところに閉じ込められて、ついてないわ、私」 マーシャは勝手にため息をついた。しゃべり疲れたせいもある、さっきから、口がまわるかぎり青白い顔の研究員に向かってまくしたてていた。ほんと、ついてないと思う、ただ予知能力があるだけなのだ、それも当たるときもあるが、はずれるときだって多いのだ。どうしてこういう運命におちいってしまっているのだろう。神さまって平等じゃなかったのかしら。 マーシャがぼんやりと思っていると、扉が開く音が聞こえた。見ると、研究員がマーシャの方へ近づきつつあった。 「観察だ」 「観察?何すんのよ」 「何もしない」 ただ、マーシャの行動を見守るだけだ、ルシフォンは白い紙と鉛筆を手に、それらとマーシャを交互に見た。 「ねえ、お話ししましょうよ」 「嫌だ」 「名前は何?」 迷惑だ、とルシフォンは思った。自分はこんな小娘の話し相手になるためにここにいるわけではない、これは、仕事なのだ、自分がやっているのは研究なのだ。この娘の特別な能力を調べて、政府に報告するという立派な役目なのだ。なのにこの娘は騒いで、自分を困らせて、研究に協力してくれない、所長も同じことを言っていた、一体どうしたものだろう、何故こうもわけの分からないものなのだろう。理解できない。 「ルシフォンでいいね」 ともにいるうちに、マーシャはとうとう名前を聞き出していた。 3. 唄 ・ 運命 「ルシフォン君、研究は進んでいるかね」 「いいえ、全く」 そう答える日々が続く。ルシフォンは日の日課であるかのように、マーシャのいる地下に下りていく。マーシャはいつもなにかしら退屈しのぎにいろいろなことをしていた。あるときは唄をうたっていたりした。 「唄って好きなの、話すことと同じくらい。だって、素敵じゃない、限られた言葉で、美しいメロディにのせて、それがどんな長くてありがたい説教よりもひとの心をゆさぶるの」 「唄なんて知らない」 マーシャはぽかんと口を開いたまま、眼を大きく見開いた。 「唄を知らないなんて、不幸だわ」 「研究に必要なものじゃない」 「大変だわ、唄は誰にとっても等しく要るものなのよ。なんて形容したらよいのかしら、とにかく「きれい」なのよ、ずっと聴いていたくなるくらい。きっと誰だってそう、世界中の人々の心は音楽を必要としているんだと思う、そうでなかったら唄がはるか昔から永遠とうたい継がれているはずはないもの。どこででも、ひとはうたう、たとえ、世界にたったひとりになっても声をだしてうたってるわ。それほど唄はなくてはならないものなのよ」 恍惚として、マーシャは語った。ルシフォンは黙ってその様子を白紙に書きとめた。 マーシャの存在は時としてルシフォンを悩ませるわけの分からない生物として映った。しばしば、理解不能の感覚をマーシャから聞かされた、彼自身はくだらないと思うようなささいなことだったが、だがそれも研究のためには理解しなければならないように思われた。 日に三度、ルシフォンはマーシャのもとに通った、「研究材料」を調べるために。それは、日を重ねるごとに回数を四度、五度と増やしていき、地下にいる時間も最初はほんの数分だったのが、何時間という長さに伸びていった。ときどきはマーシャと話しこむこともあった。 興味深い話がいくつもあった。そして、そのときマーシャの意見を受け入れてしまいそうになる自分に気づくことも度々あった。彼にとってそれは危険なことに思われた。自分の研究がだめになる、彼にとって何にもましておそろしいこと、あんなものに振り回されるとは。 ルシフォンは愕然とした、…振り払わなければならない。ルシフォンは、皆研究のため、と自身の胸に確認しながら、マーシャのもとに向かうのだった。 「ねえ、何故ここにいると思う?」 ある日、突然マーシャが切り出した。 「どうして、自分がここにいるの、そう問いかけるの。ひとはこの世のなかに嫌になるほどいる、そして、自身はそれのたったひとかけら、くずれおちたって誰もなにも言わない、気づかないかもしれない、その自分がほかのどこでもなく「ここ」にいる、これって不思議なことじゃないかしら。たとえば私は、あなたにとって、研究材料。手と足に重たい枷をつけられて、檻に閉じ込められている。これって不思議」 マーシャのいつもの「話」だ、ルシフォンは無視しようとした。マーシャの話は彼女の退屈をまぎらわす、単なる言葉遊びなのだと思い込もうとした。馬鹿らしい、くだらない、すべて空想だ。 「誰だって一度は考えたことがあるものなのよ、けれど、答えは出ない、どれだけ思案しようと、どれだけ研究しようと。なにをためしてみても、どれもお手上げ。ひとはそれに意味付けを試みるけれども、そのどれもが役不足。ここにいることを説明することさえできないのよ。運命ってそれをいうけれど、とても不可解だと思うわ。誰も知らないものなのに、どうしてそれで悩まなきゃならないのかしら」 マーシャは、手をあごのところへやった。ルシフォンは、無視を続ける。 「ここにいるって、ここにいるって、他の誰にも代えられないの、私なの。わがまま言ったって、何したって私なの。始めから、終わりまで私。ここにいたいと望んだわけでもないのに私でしかないの」 馬鹿らしい、くだらない、すべて空想だ。 「だって、そうでしょ、あたりまえのことかもしれないけど、私なの。私でしかないの。でも、たしかにここにいる、まぼろしではないの」 わけの分からないことを言う「もの」が在る、でたらめばかりだ。 「ルシフォン、認めてよ」 マーシャはルシフォンの手をそっと強くつかんだ。 「同じじゃない、ふたりとも生きているじゃない、分からないの?」 ルシフォンが手を引っ込めようとする。 「だめ、怖がらないで。一緒にここにいるじゃない」 逃げようとするルシフォン、必死でそれをとめているマーシャ。 「分かってるはずよ、私のいうこと、あなた理解できるはず」 「ちゃんと聞いて、おねがい」 「ルシフォン!」 「なんて分からず屋なの、あなたは。考えてみてよ」 悲鳴に近い金切り声。ルシフォンはかすかに顔の筋肉をつりあげた。マーシャは気がふれたのかと思われた。何故なのだ、どうして、動揺―そう呼んでよいものならば―が走るのだ、「もの」が音を出している、それだけで、たったそれだけで…、これは「もの」だ、相手にしては、…それとも違うのか、そんなはずは…。 ぽつりとマーシャがこぼした。 「残酷な運命が支配しているの。生きるとは、そのしもべになること。私達は何もかえられない、ただ、いつづけなければ、存在しつづけなければならない、何のためか分からないまま。…それでも、ここにいて、生きているの私達、分かってよ…」 マーシャはルシフォンの手にしがみついて、けっして離さなかった。 「ルシフォン君、私は決めたよ。あれは、何の成果も期待できない欠落品だ。政府に処分してもらって、また次のを送ってもらおう」 そう、所長が切り出したのは、ある曇った日の午後のことだった。 ルシフォンは普段半分閉じているような瞼を大きく開いて、所長の一定の音程しか用いない言葉を聞いた。 「だめだね、あれは。失敗だ。私達は、あんなのに関わっていてよいような者ではないのだ、ルシフォン君、分かっているだろうが」 所長は言い終えるとさっさと自分の書類のもとへとひきあげていった。彼の眼に研究員の意図を確認するような色は映っていなかった。ただ、もともと感情がかけているのかと思えるような冷たさだけがうかがえた。 ルシフォンは地下へ続く階段をうつろな眼で見つめた。 「あら、こんにちは」 マーシャは、ルシフォンがやって来たことに気づくと、かすかに笑みをうかべた。 「お話ししましょうよ」 いつものとおりマーシャが話し相手を求める。ルシフォンはマーシャの方を凝視したまま、しばらく動かなかった。 「どうしたの?」 ルシフォンの顔にめずらしく表情らしきものが浮かんだのをマーシャは奇妙に思いながら、思案した。そのうち、彼女の顔にも、ルシフォンとはまた別の表情が、あらわれた。すべてを理解したような顔。 「殺されるのね、私」 ルシフォンがうなずく。 「やっぱり。そう思った」 「政府に送り返されるんだ」 ふたりは硬い床に、両足を前にのばした格好で座った。 「こわくないよ、覚悟してたから」 「明日…、多分そうなる」 「わざわざ知らせてくれたんだ」 「……」 「いいよ、ありがとう」 「…君は研究材料なんかじゃない」 「……」 「人間、だ」 ルシフォンは、マーシャを見つめた。もう彼の顔は人形然としたものではなくなっていた。忘れられていたはずの感情は、彼の頬にかえってきていた。彼はマーシャに話した、今までの彼を、政府の非人情的な研究に身を捧げ、感覚を麻痺させてしまっていた頃のことを。わっとでてきた彼の感情は強く激しく、それを聞きいれていたマーシャがルシフォンの泣いているのにつられてしまうほどだった。 「上で声がしてるみたい」 「所長が僕の戻ってこないのを不思議に思ってるんだ。気にしなくていいよ」 「行かないとひどい目にあうかもしれないのよ」 「行きたくないんだよ」 ルシフォンは、感情をこめた声で言った。 隣でマーシャが身震いをするのが分かった。ルシフォンはそっとマーシャの床に無造作におかれた手を握った。 「寒い…?」 少女は首を振った。 「寒くなんかないよ」 ふたりは、ひやりとする冷たい壁を背に、たがいにもたれあって眠った。地下の空気はいつもどおり湿っぽく、地下室は暗く音の無い世界であったが、その夜はそこにふたつの穏やかな寝息が響いた。 「遅いな、ルシフォン君。研究材料の積み込みは終わったかね、政府の連中はうるさいからね、ああ、そうか、御苦労だったな。また今度のに期待しよう、私達は常に実りある研究に携わっていなければならないのだ、…ああ?どうしたのかね、ルシフォン君、どこへ行くつもりだ、君はここで私と研究を続けなければならないのだよ、そっちは出口だ、もう外へ行く用はないはずだよ、戻ってくるんだルシフォン君、まだまだやることは残っているんだよ、それをほうりだすのかね、君はどこへ行こうというのだ、研究衣を脱いでしまってはいけないよ、大声を出してはいけないよ、何と叫んでいるのかね、…あんなつまらんものの名かね、ルシフォン君いったいどうしたというのかね、戻っておいで…」 4. 街角 夕方の空の色は陽が沈んで光を失う。街角はぼやけた景色。うすい暗闇が世界を覆い始め、そして夜が訪れる準備をととのえる。 「これ…、う…た……?」 にわかにマーシャの指先が震えだした。ルシフォンはその小さな手のひらを包み込むように握り締めた。なにかを求めるように動いていた細い指は、ルシフォンの手のなかでおとなしくなった。 「そうだよ、唄、だよ」 「…う……た」 マーシャは一音ずつゆっくりと発音した、早口でしゃべることはできなかった、不可能なのだ。ルシフォンは分かっていた、少女が心を閉ざしてしまっていることを。その瞳は彼女の前に広がる世界を映していない、言葉はもはや意思のほんの破片があつまっただけ。 ルシフォンは至る所へ足を向け、…マーシャを探した。政府の秘密の研究で使われ、そして廃棄される、そういうものの行きつく先である寂しい処理場にマーシャは人形の一体であるかのようにうち捨てられていた。見つけたときには目に生きた光は灯っていなかった、まるでこわれた機械のよう。政府でなにが行われたか、今となっては知る術もない、悲惨だったろうことだけが確かだ。 「…きれい」 「きれいだね」 もとのままでないと分かっていても、おきざりにしてくることなんてできなかった。ただ、もう夢中でマーシャを廃棄場から連れ出して、後のことなど考えてなかった。それでかまわなかった。 「これ…、す…き」 「僕もだよ」 ふと、自分の手のほうに目をやる、マーシャと自分の重ねた手が尋常でなく震えている。ルシフォンは強い意志の働きを予感した。 「マーシャ…?」 「なんてきれいなんでしょうね、唄って…」 刻は一瞬止まって、また動き始める。 暗くなりかけた街角でふたりは顔を見合わせた。おたがいの表情は、なつかしいひとに再会したときのよう。おどろき、困惑、安堵、いろいろな感情がまじりあっていた。 「あ……」 「ルシフォン」 オルガンまわしのにぶい音、ひとつになった影が街の狭い路地の壁に、おぼろげにうつしだされた。 |