夜明け前   
                    十二夜
         

    序 

 夜明けが近くなると、何故か目が冴えて来る。
 陽の光が窓に映るわけでも、空の色が突然変わるのが、見えるわけでもないのに。
 ただ、夜明けが来るのを感覚で覚えているみたいだ。

 上身を起こすと、いつものように深くカーテンの掛かった窓を開けにいく。
 まだ強くない日差しが部屋の中にこぼれてくる。
 俺はそれから一メートルもしない距離にあるもう一つの窓を、背をのばし、手を伸ばして、カツンと叩く。

「よっ、と…」
 窓辺から落ちそうにならないようにバランスを保って、自分の上半身を自室の方に引き入れる。下はマンションの十三階の谷、落下したらさようならだ。
「起きたぁ…?」
「ちゃんと起きてんだろ。合図しただろ、さっき」

 隣のマンションの住人は、のんびりと窓を開けた。

「何で朝はこんなに早いのに、学校は遅刻するのよ」
「うるせぇ、親がふたりとも仕事だから、俺が昼作ってかなきゃいけないの」
「…まさか。お昼御飯に二時間もかけてるんじゃないでしょうね」
「弁当が三人前。まあそれくらいだな」

「晶久…学校来る前に弁当ちゃんと作ってるってそれ、他の女子学生が聞いたら、怒涛のように自家製のおべんと持ってお昼うちの学級大挙してくると思うよ」
「何だそれは」
「あんた今年の二月十四日忘れたの…? そりゃもう、ご苦労さまって感じで」
「ああ、あんなの気にしたって…」
「あたしが気になるのよ」
「…んなこと言ったってな、明夜」
「いい? 今日はあたしがあんたの分も作っといてあげるから遅刻するんじゃないわよ!」

 ガン、とつんざく音がして、隣の窓が閉まった。呆然とした晶久は、少し額に手を当てて、考えた。

「あれ…、あいつ料理出来たっけ…な?」
 ……。まあ、いいか。作ってくれるっていうんだから。

 早朝五時、明けたばかりの空を見上げながら、何かおかしなものを感じて、晶久は首をひねった。背筋がくすぐったくなるよな気持ちだ。何だろう、すごく新鮮だ、そして懐かしい。こんなの今までにあったのか…?

「あきひさぁー!」
 どたばたと隣が賑やかしい。明夜が両手に皿を持って現れた。
「どっちがいい?」
「…ていうかこれが何なのか説明しろ。原材料が卵だってことしか分からない」
「冗談言わないでよ。あんた卵焼きと目玉焼きの違いが分からない男だとは思わなかったわ」
「それが本当に目玉焼きだったらな」
「ああそうよ、見て分からないのかしら」
「…全然違うよ。…もういい、俺、自分で作るわ」
 呆れた風な晶久は、明夜に背を向けて手を振った。
「あ…。ちょっと……晶久っ!」
 明夜が後ろから、呼ぶ。命令するよな口調だ。
「ん…?」
「晶久っ……!」

 瞬間的に、振返った先には、不思議な光景が。
 明夜の隣に、姫君が映る。

 明夜のそばにいる姫は、ただ笑いかけてくるだけだった。少し、憂いを含んだような微笑み、決して満面の笑みを浮かべることの出来ない口元。

  明夜に似ていた。いやそのものだった。本物の明夜のそばに薄く、幻影のようにもう一人の明夜がいるように。姿装いは全く違っていたが、それも明夜としかいえないと、晶久の感覚がそう訴えていた。

 明夜の幻影は優しい顔を晶久に向けている。話し掛けも動こうともしない。

 何か言いたいのだろう、その為に自分の前に現れているのだろう。
 待ちきれなくなり、口を開こうと口元の筋肉を動かした時、幻影は不意に、晶久に声無く問い掛けた。

『幸せ……?』

…え、……?

 幻影が消えた。


「あのね、さっき晶久の後ろに変なのが見えたよ」
「何か聞かれなかったか」
「ううん」
「何もされなかったか」
「そんなわけないじゃないの。ただこちらみて笑ってただけ。でも…どこか苦しそうだった、辛そうに」
「……。何だったんだろうな」
「ほら、あれじゃない? 御先祖さまとか、前世の関係の奴とか…」
「う…ん」
 晶久は幻影の口走った言葉を考えていた。

…しあわせ?

 何故だろう、すごく重たい言葉に感じる……

「ねえ、七時過ぎちゃうよ。お弁当作って、学校行こうよ」
「ああ…」
「じゃ、あたし下に行ってお弁当の中身詰めてくるから」
「ああ……、ってあれ食べられるのか…!」
「晶久が食べてよね。あたし責任持たないから」
「俺…自分で作る。遅刻してもいい」
「あたしのがあるでしょ?」
「俺には見えない。そんな怖いものは見えない。さて…、弁当に何を入れようか…」
「ちょっと、待ちなさい晶久…!」

 …騒がしい朝の風景が繰り返される。
 ここは現代。過去と未来、そのどちらでもない場所。 「今」しか見えない場所。だから、彼等には必要の無くなったものがある。二つの個体、ただそれだけでことたりるから、過去も、記憶も、運命も、意味をなさなくなる。千年も昔に溯る必要も無くなる。

「晶久、遅れるよっ!」

 全てを超越して現代は流れる。


    一

 千年の昔。京に平安の都がなじんでまだ久しい。
 今上帝の父君、前の帝が亡くなられたばかりの都は、暗い気に包まれていた。通りを行く牛車は当然のごとく数を減らし、毎夜行なわれる筈の、華やかな宴も姿を消した。

 それというのも、この前の帝は、歴代の帝の中でも指折り数える位の、立派な帝であったからだ。人々は上下の身分関係無く、その死を悲しんだ。しかし、都が憂いたままであるのは、先の帝の崩御という理由一つではなく、若き帝に政の意志が見られず、貴族等の言うに任せる様であったことによる。帝の放り出した権力に、飛びつこうとする者は多く、勢力争いに紛れ、宮中は穏やかでない。

 だが、一歩内裏を離れれば、京の都はそれ本来の落ち着きと、時間の流れを保っていた。景気の暗さに包まれてなお、京は京であり続けた、そんな時代…。


「父上、御殿から帰られたのですか」
 外の牛車の音を聞きつけて、活発そうな少女が着物を床に引きずりながら、廊下を歩いてきた。
「まあ、そうだな」
 簡潔に答えた父の応えを、怪しむように少女は父を問い詰めた。

「どこを通って来られたのですか。いつもの通りを戻って来られた筈ですが」
「まあ、そうだな。あそこしか通らないから」
「では、それはどこで拾って来られたのですか」

 少女の視線は、父の大臣の後ろに向いていた。

「拾った…? …ああ、これは橋の近くでうずくまっていたのを、私が車を止めて、屋敷まで連れてきた」
「そう…なのですか? む…、父上は面白いことをなさる」

 興味深そうに、少女は大臣の後ろを覗き込んだ。
 目が合ったそれは、まだ見たこともない人間であった。

 大臣の姫君が出会ったことのある人間の種類は知れている。貴族、町人、田舎を訪れたときに見た農民、それくらいしか知らなかった。不思議な格好をしているその人物を、少女はもっと知りたいという風にじっと見つめた。

「明夜、そのくらいにしておきなさい。怖がっているではないか」
「それでは父上、わらわに教えて下さい。これは何という者なのか」
「明夜は知らないのか」
「はい、見たこともない、不思議でしょうがありませぬ」

 首をかしげたような仕草が幼く見える姫君は、父の大臣にねだるように、言った。大臣は、後ろを振り向いて、そこに居る者を明夜の前に進ませた。

「武士を見たことがないか。そういえば、この屋敷には一人もおらぬな。おそらく親に見捨てられたのであろう」
「武士…?」
「貴族等の中にも己が身を守る為に、側におく者もいる。いわば、護衛を役目とする者と姫は思っていればいい」
「では、わらわにも武士を下され。面白そうじゃ」
大臣は少し考えるような姿を見せ、
「ああ…、そうだな。姫を世話するのは乳母や侍女だけでは足らぬな。ちょうど…どうしようかと考えていたところだ、姫の護衛でもさせて、働かせるのもいいだろう」
 大臣がそう言うと、少年は大臣の方に礼を言うように頭を下げた。

「名は何と言う…?」

 少年が大臣から姫君に視線を戻すと、待ち構えていたように目をきらきらさせた姫の質問が飛んできた。