
(1)持穴小学校
持穴小学校については、明治24年に同校から大野郡役所に報告された資料があり、その報告書の
大要を記すると、
「大野郡の東南に穴馬郷の一区あり。その東南濃越国境を距ること僅か二里半にして、上穴馬村持穴
あり。その地の東南高燥の地に校舎を建設せり。その地たる方形にして周囲の後は山にして、前面九頭
竜川に望み空気流通すこぶる宜しくかつ往来を離るるをもって閑静なり。気候は冬季寒気強しといえども、
夏季は極暑の頃も清涼なり。組合は持穴、箱ケ瀬、荷暮をもって維持しその戸数99、人口629人なり。
学齢児童103人にして在籍生徒22人とす(明治24年3月)」
同校の由来は、
1.明治7年大谷小学校が創設されたが、道路不便のため、間もなく荷暮、持穴、箱ケ瀬は分離した。始
め箱ケ瀬道場で箱ケ瀬小学校と称して校下の子弟を教育した。
2.明治13年10月区内協議して隣校の日進校と合併し、その支校とした。
3.明治18年、持穴に地を定め、校舎を新築したが、元通り日進校の支校であった。
4.明治20年に小学校令が改正されて簡易科を設置し、簡易科持穴小学校と称した。
5.明治24年に至り簡易科は廃せられ、持穴尋常小学校となった。
その校地は後の阿部藤継氏の倉屋敷で、校舎は2階建で、階下の一部は上地区7ケ村(後の区)連合
戸長役場に使用した。
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明治22年の町村制実施以後は、役場は大谷に移し、建物は学校に全部使用した。やがて持穴小学校
は廃止されたので、廃止後の校舎は移転して水口氏の居宅とし、水没移住するまで使用された。
なお、持穴小学校の廃校年月日は、現在明らかでないが、明治30年より以前で明治27年頃と推定される。
(2)水没した上穴馬の学校たち(沿革)
明治7年 大谷小学校創設、箱ケ瀬小学校開設
明治9年 面谷小学校開設
明治10年 日進小学校(上半原)を大谷小学校から分離開設
伊勢、久沢に大谷小学校の分教場設置
明治13年 日進小学校の位置を下半原に移転
箱ケ瀬小学校を日進小学校に合併して、日進小学校の支校(分校)とする
東市布、荷暮に分教場設置
明治18年 持穴に箱ケ瀬分校を新築し、持穴小学校開校
東市布、荷暮の分教場廃止
明治22年 荷暮に日進小学校の分教場設置
明治23年 荷暮の分教場廃止
明治28年 この頃持穴小学校廃止
この頃持穴小学校の廃止に伴い、荷暮に日進小学校の分教場を設置
明治29年 久沢分教場の校地を同区上居山に定め、校舎を新築する
明治30年 荷暮分教場の校地を同区東端の荷暮川に沿った地に定め、校舎を新築する
明治31年 伊勢分教場が羅災し、校地を同区中伊勢の川向いの向島に定め、校舎を新築する
明治39年 児童数の増加に伴い校舎が狭隘となったため、大谷小学校の校地を同区東方に移転
明治40年 面谷小学校校舎新築
大谷小学校の校舎移築
明治40年 日進小学校を下半原尋常小学校と改称
大正4年 東市布分教場開校
大正15年 大谷に大谷青年訓練所、下半原に下半原青年訓練所設置
※青年訓練所は16歳から20歳の男子を4ケ年にわたり訓練するため青年訓練所令により設けられたもの
昭和元年 面谷分校廃止
昭和9年 大谷校は校地を大谷橋のしもに移転し校舎新築
昭和10年 青年学校令公布により、大谷に大谷青年学校、下半原に下半原青年学校設置
※「青年男女に対し、その心身を鍛練し、徳性を涵養するとともに、職業および、実際生活に須要な知識
技能を授け、もって国民たる資質を向上せしむるを目的とする」と規定。昭和13年には義務制となった。
昭和14年 面谷分教場が復活
昭和16年 大谷校を第一国民学校、下半原校を第二国民学校と改称
昭和22年 六・三制の実施により、第一国民学校を大和小学校、第二国民学校を日進小学校と改称
大和中学校、日進中学校発足
六・三制の実施により、青年学校廃止
昭和29年 日進小学校白馬分校(持穴)開設
昭和31年 和泉村誕生
昭和33年 大和、日進の両中学校を統合して東部中学校を持穴に設置
昭和34年 大和、日進両小学校の学校区の一部改変に伴い、白馬分校廃校
昭和38年 九頭竜川電源開発決まる
大谷幼稚園開設
昭和39年 水没移住始まる
日進小学校廃校
昭和41年 大和小学校、東部中学校廃校
九頭竜川電源開発に伴い廃校になったのは以下の学校です(後の数字は廃校までの年数)
大和(大谷)小学校 92年
日進(下半原)小学校 89年
大谷小学校伊勢分校 89年
大谷小学校久沢分校 89年
日進小学校荷暮分校 77年
朝日小学校宮前分校(元は石徹白小学校宮前分校) 62年
日進小学校東市布分校 51年
東部中学校 20年
「友をつれ夏草しげる市布に おりて偲びぬ遠き昔を」
「この地にて妻子ねたあと夜半まで 学びし昔今よみがえる」
「山の幸求めて生きし人の跡 今おとずれて涙わきいず」
「青々と水をたたえし九頭竜湖 昔の姿しのぶすべなし」
「ダムのため故里底に沈めども 訪れ客に穴馬賑わう」
以上は、昭和28年に東市布分校に赴任してみえた角川丸夫先生が、昭和51年に東市布を訪れた際に詠ま
れた短歌です

(3)大谷小学校校歌
地域の様子をあらわしていますのでここに紹介します。なお、他の学校の校歌は資料が手元になく不明です。
大谷校校歌
作詞 尾崎邦夫
1. 海抜二千五百尺
流れも清き九頭竜の
水源地帯にそびえたつ
みよや大谷小学校
2. 山野緑に気は澄みて
玉水砕く渓流は
清き我らの心意気
正義の念を培わん
3. 秋は紅葉に色はえて
血湧き肉とぶ少年よ
白がいかいの冬の日は
堅忍不抜の意気高し
(4)面谷節(民謡)
1. 金がなあ 出る出る 面谷山は
銀と 鉛と 赤 よう 金がよう
2. 金がなあ 出りゃあこそやれ 面谷山は
霧や霞のやれ 中に住むよう
3. 小袖なあ 着せてもやれ 面谷はこわい
つるべ切れればやれ 鍋伏せるよう
4. ああ 面谷鉱山 けちなとこ
家内多うても 少なうてもよ
にしん 三ばに 酒三合と
餅米三升で 年おくる

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