校歌のページ
このページでは懐かしい??校歌を特集します。皆様の希望の学校がありましたら
メールでお知らせください。
Email : h-river@cty-net.ne.jp
四日市市立富洲原小学校
作詞 伊藤信一
作曲 伊藤亘行
1.三つの錨を しっかりと
くんであらわす 校章は
歴史に誇る 私らの
力と平和の 象徴(しるし)です
2.本気に元気に 根気よく
手をとりあって 進むのは
明日を築く 私らの
はげみの道の 理想(めあて)です
3.青空高く 鈴かけの
緑に薫る 富洲原
大きな希望(ゆめ)を 胸にひめ
わたくしたちは 進みます
(関係ないけど/閑話)
「わが街四日市」のページに「富洲原には住めない」の歌が紹介されています。
そこに出てきます、廃校になった??「はまぎく保育園」についての話題です。
はまぎく保育園について、昭和32年の四日市市社会福祉事業施設一覧表には次のように
あります。
名 称 ・・・ 四日市市立はまぎく保育園
所在地 ・・・ 富田一色
職員数 ・・・ 9 定員数 ・・・ 160 建坪数 ・・・ 205 敷地坪数 ・・・ 555
設立年月日 ・・・ 昭和26年9月1日 備考 ・・・ 木造平屋
また、初の市立保育園となった「なでしこ保育園(川原町)」の園名について、「子どもたちと50年
四日市市立保育園が歩んだ道」によりますと、「終戦直後の市民生活は極度に窮乏し、心の潤い
が乏しくなっていた。少しでも明るく優しい気持ちが持てるようにとの願いを込めて、草花の名をとり
「なでしこ」と名付けられた」、とあります。はまぎくも同様の趣旨で、地区にふさわしい草花の名をとっ
て名付けられたのではないでしょうか。
ちなみに、「はまぎく保育園」は、昭和46年に「富洲原保育園」と改称され(市内の保育園すべて
が、地名等による名称にあらためられています)、現在も富州原町31-35にあります。定員は130名
(0-5歳)だそうです。
余談ですが、私は富洲原幼稚園の卒園生です。また、同じく廃校になるという??小学校の分校
って??富洲原小学校に分校はないはずなので全くのジョークでしょうか・・??
四日市市立八郷小学校
作詞 井崎すすむ
作曲 欠塚白蘭
1.雨風雪を耐え抜いて 緑に輝く松の木は
学びの庭のほこりです 栄える八郷小学校
元気でしあわせ 迎えます
2.朝明の川はうつくしく 鈴鹿の山脈仰ぎみて
のぞみを大きく抱きます 伸びゆく八郷小学校
身体とこころを 鍛えます
3.小山に赤い家あって 小鳥がさえずる花の園
喜び溢れて通います たのしい八郷小学校
友だち仲良し ばかりです
四日市市立海蔵小学校
作詞 三井政善
作曲 鈴木寛
1.黒けむりはく つつばしら
林のごとく ならびたつ
わが海蔵の まちこそは
四日市市の 偉観(いかん)なれ
2.伊勢の海づら 和やかに
広きをおのが かがみとし
平和の道を うちたてし
海のあなたと 交わらん
3.学びのもとは 誠なり
誠のなるは つとめなり
誠実勤勉 身にしめて
わが学びやの 名をあげん
海蔵小の校歌は、Koji mizutaniさんからの情報で掲載させていただきました。
ありがとうございました。
mizutaniさんからは、特に1番を「すごい歌詞だと思いませんか」とご紹介いただきました。歌詞を
聞くだけで四日市の風景が頭にうかぶそうですが、確かにそのとうり!だと感動させていただき
ました。この校歌が作られたのは昭和25年だそうですが、そのころからこの風景、文字どおり「四日
市市の偉観」と言ってもいいのでは・・
<閑話休題>
「黒けむりはく つつばしら」って何?
つつばしら(筒柱)って煙突のことですよね。現在の私たちの抱くイメージから考えると、コンビナ
ートの煙突をイメージしませんか??四日市市が苦しんだ産業公害の象徴ともいえる、しかも黒い
煙を吐き出している煙突を小学校で歌い継いでいるなんて・・・
ところが・・ここで大事なポイントが2つほどあったのです。まず、この校歌が作られたのが昭和25年
だということ。そして、海蔵地区にある小学校の校歌だということです。
まず、歌詞には「黒煙を吐く筒柱が、林のごとく並び立つ」とあります。海蔵地区から見えるコンビ
ナートといえば、午起地先の第2コンビナートになりますが、ここの埋立事業は昭和32年開始で、
25年にはまだ埋め立てすらされていません。では、塩浜の第1コンビナートはどうでしょう。塩浜は
海蔵地区からは遠く離れており、そんな離れた風景を校歌に読み込むことも考えにくいのですが、
そもそも塩浜地区の海軍第2燃料廠跡地の民間への払下げが決定したのが昭和30年の鳩山内閣
による閣議決定以降であり、昭和25年といえば、まだ、米軍による空襲の傷跡を生々しく残した時代
でした。そうしますと、この「つつばしら=煙突」はコンビナートのものではないということになります。
じゃあ、海蔵地区に昔からある産業は??・・・ここまでくると地元の人はもうぴんと来ましたね。そう
です、四日市が誇る地場産業の萬古焼の煙突なんですね。だから、この歌詞が今でも地元の小学
校で誇りを持って歌い継がれているんです。
今でこそ萬古焼の窯(かま)はガス窯ですが、当時はまだ石炭窯でした。それこそ「黒けむりはく、
つつばしら」、つまり、四日市萬古の繁栄を象徴する存在だった耐火レンガの煙突が黒煙を吐き
出す風景が、町の至るところで見られたそうです。
四日市市立楠小学校
作詞 サトーハチロー
作曲 大中 恩
1.日はのぼる 伊勢の海原(うなばら)
名草浦(なぐさうら) やさしさざなみ
朝やけの 雲は流れて
学び舎は きょうも明るし
楠町 楠町 楠小学校
2.豊かなる 町に生まれて
すこやかに 育つよろこび
ふるさとの 心つたえて
そよかぜは 松にうたえり
楠町 楠町 楠小学校
3.みなもとは 山の鈴鹿よ
星うつす 清きせせらぎ
よき友と 常にかたりて
永遠(とこしえ)に まこと求めん
楠町 楠町 楠小学校
四日市市立富洲原中学校
作詞
作曲
1.伊勢の海原 旭(ひ)が昇る
進取の意気も高らかに
出船(でふね)遥けき 大つ洋(おおつわだ)
ここ須賀浦(すがうら)の松青く
むつぶ我等の学舎を 築かん 中学富洲原
2.近代科学の粋を行く
工業日本の面目を
世界の果てに 誇らんと
はげめ若人 幾千人
工場(こうば)の息吹さながらに
興さん 中学富洲原
3.西に連なる鈴鹿嶺(すずかね)に
高き理想をを育みつ
永久(とわ)につきせぬ 尚深き
文化の華を咲かすべく
日毎につどう我が校庭(にわ)に
樹(た)てん 中学富洲原
富洲中の校歌は、Mikiさんからの情報で掲載させていただきました。
ありがとうございました。
富洲原(特に天ヶ須賀)は私にとって、楽しかったこと、悲しかったこと、つらかったこと・・
いっぱい思い出がつまった街です。ずいぶん変わってしまいましたが・・、本町の天ぷら屋さん
(寺本さん)、友人がおぼれた運河なんかは今も変わらずに・・。
私は、ひょっとしたら、富洲中に行くはずだったのですが、市教委(四日市市教育委員会)
の許可が出ませんでした。実は、両親の仕事の都合で、祖父母の家から富洲原小に通って
いたのですが、「両親の住民票のある地区の中学校での入学しか認めない」との指導で、当
時小2だった弟共々、俗にいう「かぎっ子」になりました。
四日市市立朝明中学校
作詞 山口誓子
作曲 伊藤亘行
1.朝明川 流れゆるくて
低き丘 続きしたがう
ああここに 吾等は和む
2.平津山 諸木茂りて
静けさの うちにこもれる
ああここに 吾等は学ぶ
3.開けたる 土に立ち出で
いや広き 空をいただく
ああここに 吾等は鍛う
四日市市立楠中学校
作詞 佐佐木信綱
作曲 信時 潔
1.朝日輝ふ 楠の若葉
明るき心 信念かたく
真理と自由を 愛する我ら
日ごと日ごとに 楽しく学ぶ
ああ楽しきかな
楠中わが学び舎
2.我ら友垣 力あわせ
いそしみ励み 親しみ睦み
勤労重んじ 責任もちて
明日の日本を 築かん共に
ああ雄々しきかな
楠中わが学び舎
3.見よや静けき 伊勢の海を
鈴鹿の嶺は 白雲清し
すぐれし環境 我らをつつむ
我ら心を 豊かに持たむ
ああ気高きかな
楠中わが学び舎
三重県立四日市南高等学校
作詞 谷川俊太郎
作曲 武満 徹
1.登城ヶ丘の草の上
ひたむきに若さを生きる
歌声の海へひろがる
この丘にわれらはまなぶ
喜びも悩みも共に
2.はるかにのぞむ伊勢湾は
ゆれ動く歴史をうつす
たえまなく今日をのり超え
この国はわれらがひらく
ふるさとの誇りを胸に
3.心にひめた問いかけは
限りない未来をめざす
夢はらむ高みのかなた
この空は宇宙へつづく
新しい答を待って
実は南高校の校歌は改訂されています。私が3年生の時に上の校歌に改められました。
最初の校歌は、
3.炎をあげるスタックが
限りない未来をてらす
夢はらむ高みのかなた
この空は宇宙へつづく
新しい力を待って
というものでした。これは南高が開校した時代と関係があります。南高は高度成長のさなか、
昭和34年に開校しました。これは、四日市市立富洲原中学校の旧校舎を仮校舎とするあわた
だしいものでした。その時代は、高度成長がはじまろうとする、コンビナートが四日市の、そして日本の
未来を輝かしく照らしていると信じられていた時代でした。その後、四日市公害を初めとした産業
公害が問題となり、多くの尊い命を奪うに至り、大きな疑問が投げかけられました。そのような背
景があり、南高は昭和53年10月11日の創立二十周年記念式典を機に、校歌の一部を変更
するに至ったのです。
三重県立四日市高等学校
作詞 佐佐木 信綱
作曲 弘田 竜太郎
1.地球をめぐる潮の音
耳にとめつつ学ぶ吾等
かがやきみちて平らけく
和む朝日の伊勢の海
2.学びの道をひたすらに
真理求むと進む吾等
明るく清く紫に
におう夕日の鈴鹿山
3.心をあわせ新しき
文化日本を創造り成さん
正義と自主と信念を
共にうたわん高らかに
四日市南高校は、昭和49年から平成6年度までの20年間、県内屈指の進学校である
四日市高校と三重県第1学校群として総合選抜を実施し、合格者は抽選によりどちらか
の高校に振り分けられる(合格者を成績順等により、両校の合格者の質が均等になるよう
にグループ分けし、学校長がくじを引いて決めたらしい)ことになっていました。当時は、
姉妹校(兄弟校?)として、毎年交流会も開かれました。
<閑話休題>
学校群制度に組み込まれていた6校、それぞれの組み合わせは、第1群が伝統校(四
日市高校)と四日市地区の2番手校(四日市南高校)、第2群が伝統校(津高校)と新設
校(津西高校)、第3群が伊勢地区1番の進学実績校(伊勢高校)と伝統校(宇治山田高
校)でしたが、平成7年度から学校群の廃止に併せて、四日市と伊勢は国際科学コース、
四日市南は数理科学コース、津西は語学・人文コースと自然科学コース(平成12年から
国際科学科に発展・統合)、宇治山田は自然科学コース(平成17年度募集停止)を新設
するなど、学校群廃止後を見据えた対策を打ち出しました。
四日市南高校は、単独選抜になれば四日市高校に遅れをとるのはやむを得ないとしな
がらも、理数系に強い高校として個性を打ち出し、生き残りを図ろうとしたわけです。
それから9年、現在の大学の進学実績と中学における進路指導を見ますと(高校の評価
は進学成績だけで決まるものではないことは十分に承知していますが、これらの高校在籍
する生徒の大多数が大学等への進学を希望している現状に鑑みて、あえてこの指標で述
べます)、旧1群の両校の間にはかなりの格差が生じています。四日市市内の中学の進路
指導においても、四日市高校への入学が少し難しいと思われる生徒に対して、市内北部
の中学校では川越高校、南部の中学校では南高校を勧めており、近年の大学進学実績
を併せますと川越高校が四日市地区第2の進学校という声も出てきています。
というわけで、開き直って、そろそろ甲子園にでも行こうゼ (^_^)v
ガンバレ!南高生!!
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