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わたしのうたの歴史 

 

目次

戦後三羽烏(田端義夫)

懐メロ歌手(淡谷のり子,藤山一郎,小畑実)

元祖三人娘(美空ひばり,江利チエミ,雪村いづみ)

ラジオドラマ

キング三羽烏(三橋美智也,春日八郎,若原一郎)

唄う映画スター(石原裕次郎,加山雄三)

ロカビリー三人男(平尾昌章,ミッキー・カーチス,山下敬二郎)

三人ひろし(水原弘,井上ひろし,ヒロシ釜萢)

昭和30年代男性歌手四天王(三橋美智也,春日八郎,三波春夫)

コラボでヒット(多摩幸子)

御三家(橋幸夫,舟木一夫,西郷輝彦)

スパーク三人娘(中尾ミエ,伊東ゆかり,園まり)

グループ・サウンズ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

ひとりGS(美空ひばり,奥村チヨ,中村晃子,黛ジュン)

東芝三人娘(小川知子,奥村チヨ,黛ジュン)

演歌の星(都はるみ,藤圭子)

三代目三人娘(小柳ルミ子,南沙織,天地真理)

新御三家(野口五郎,西城秀樹,郷ひろみ)

花の中三トリオ(森昌子,桜田淳子,山口百恵)

シンガ―・ソング・ライター(小椋佳,荒井由実,さだまさし,中島みゆき,松任谷由実)

特徴ある声・歌唱(都はるみ)

フレッシュ三人娘(榊原郁恵,清水由貴子,高田みづえ)

たのきんトリオ(近藤真彦,田原俊彦,野村義男)

ソロ(淡谷のり子,藤山一郎,田端義夫,小畑実,春日八郎,美空ひばり,宮城まり子,江利チエミ,島倉千代子,雪村いづみ,曽根史朗,三橋美智也,若原一郎,石原裕次郎,園まり,三波春夫,伊東ゆかり,平尾昌章,平尾昌晃,ミッキー・カーチス,山下敬二郎,水原弘,井上ひろし,橋幸夫,ヒロシ釜萢,加山雄三,中尾ミエ,舟木一夫,西郷輝彦,奥村チヨ,中村晃子,布施明,小川知子,黛ジュン,藤圭子,かまやつひろし,天地真理,小椋佳,小柳ルミ子,野口五郎,南沙織,荒井由実,郷ひろみ,西城秀樹,森昌子,桜田淳子,山口百恵,中島みゆき,さだまさし,松任谷由実,榊原郁恵,清水由貴子,高田みづえ,近藤真彦,田原俊彦,ムッシュかまやつ)

クインテット(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

6人以上のグループ(和田弘とマヒナスターズ,内山田洋とクールファイブ,サザンオールスターズ)

ロックバンド(サザンオールスターズ)

 

歌手50音順)

天地真理,荒井由実,淡谷のり子,石原裕次郎,伊東ゆかり,井上ひろし,内山田洋とクールファイブ,江利チエミ,小川知子,奥村チヨ,小椋佳,小畑実,春日八郎,かまやつひろし,加山雄三,小柳ルミ子,近藤真彦,郷ひろみ,西郷輝彦,西城秀樹,榊原郁恵,桜田淳子,サザンオールスターズ,さだまさし,島倉千代子,清水由貴子,ジャッキー吉川とブルー・コメッツ,曽根史朗,園まり,高田みづえ,田原俊彦,田端義夫,多摩幸子,中尾ミエ,中島みゆき,中村晃子,野口五郎,橋幸夫,平尾昌章,平尾昌晃,ヒロシ釜萢,藤圭子,藤山一郎,布施明,舟木一夫,松任谷由実,黛ジュン,水原弘,美空ひばり,ミッキー・カーチス,南沙織,三波春夫,三橋美智也,宮城まり子,都はるみ,ムッシュかまやつ,森昌子,山口百恵,山下敬二郎,雪村いづみ,若原一郎,和田弘とマヒナスターズ

その他(野村義男)

 

戦後三羽烏(田端義夫)

 戦後間もない頃人気があった男性歌手3人。

 

懐メロ歌手(淡谷のり子,藤山一郎,小畑実)

 今でもときどきテレビで懐メロ番組が放送されているが,以前はもっと頻度が高かったように思う。そこではそれなりの年齢になった往年のヒット歌手が唄ったり,昔の映像が流されていた。そのような番組で知った歌手も少なくない。

 

元祖三人娘(美空ひばり,江利チエミ,雪村いづみ)

 三人娘と呼ばれる三人はいろんな組み合わせがあって,これらを区別するために美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみを元祖三人娘という。三人娘と呼ばれるようになったきっかけが1955年の東宝映画「ジャンケン娘」の共演であることから,「ジャンケン三人娘」と呼ばれることもある。

 尚,老舗の屋号の元祖や本家などのようにどれが古いのかわからない似た名称もある。例えば「初代三人娘」は黒柳徹子・横山道代・里美京子(または水谷良重)など。

 

キング三羽烏(三橋美智也,春日八郎,若原一郎)

 三橋美智也,春日八郎,若原一郎はキング三羽烏と呼ばれた。三人男と呼ばれることもある。

 

ラジオドラマ(2024.9.20)

 子供の頃は近所の友達と遊ぶ他はラジオと映画が主たる娯楽だった。

 ラジオドラマと言えば1952年から始まった「君の名は」だろう。織井茂子が唄った主題歌「君の名は」も大ヒットだし53年からは映画も作られ,この映画も第一部,第二部,第三部と人気を博した。同時に映画内で織井茂子が唄った「黒百合の歌」などもヒットした。とはいえ私はこの頃は幼くメロドラマには興味がなく,これらの歌も後にナツメロ番組で聞き覚えたものだ。もっとも中学の修学旅行で東京に行ったとき,自由時間にこのドラマの重要舞台のひとつ数寄屋橋まで行ってみた。行ってみた感想は「何だこんな所か」というものだった。

 直接ラジオドラマを聴いたことを憶えているのは1953年から放送が始まった「笛吹童子」だ。主題歌は福田蘭堂作曲の「笛吹童子」。これが私が初めて主体的に聴いたラジオドラマであり,その主題歌だった。主人公兄弟の兄の萩丸を東千代之介,弟の菊丸を中村錦之助が演じ映画にもなった。二人はこの映画でスターになった。この映画には当時の大スターである大友竜太朗や月形龍之介も出演していた

 53年,ラジオドラマの「笛吹童子」は「新諸国物語 紅孔雀」に変わる。後には「笛吹童子」も「新諸国物語 笛吹童子」と呼ばれるようになる。「紅孔雀」の主題歌も福田蘭堂の作曲で「紅孔雀の歌」だ。これも中村錦之助・東千代之介の出演で映画になり,子供には大人気だった。映画は5412月から正月映画として週替わりで第一篇から第四編を経て完結篇まで,後のテレビドラマに匹敵する公開速度だった。

 これらはNHK1放送だが,民放のラジオドラマもあった。1955年ニッポン放送系で放送された「風雲黒潮丸」も大人気だった。これももちろん映画になっており,主演は伏見扇太郎だ。小沢不二夫作詞の主題歌「風雲黒潮丸」に『ルソン 安南 カンボジア はるかオランダ エスパニア』という歌詞があり,小学生の間で大流行し,この頃小学生の社会科の成績が向上したとか。

 このほかのラジオドラマに1957年の「赤胴鈴之介」,1959年「まぼろし探偵」などもあり,これらの主題歌は今でも歌える。

 しかし時代は次第にテレビドラマやテレビアニメの時代になる。

 

唄う映画スター(石原裕次郎)

 映画業界では1953年に松竹・東宝・大映・新東宝・東映が,各社専属の監督・俳優の引き抜きを禁止する五社協定を結んだ。54年には日活も参加し,六社協定になり「スターを貸さない,借りない、引き抜かない」ことを決めた。この協定は次第に抜け穴が多くなっていき,1971年に自然消滅する。

 同様にレコード会社も作詞家・作曲家・歌手は専属だった。1929年に西条八十・中山晋平がビクターと結んだ契約が専属の初めらしい。

 専属制のため,映画俳優は所属する会社の映画以外には出演できなかったが,歌手はどの会社の映画にも出演できた。歌手が出演する映画は多数あった。映画会社所属のタレントを映画俳優,レコード会社所属のタレントを歌手と分類するのが簡単なのだが,いろいろ複雑な事情もあり,この記事では私が歌手だと思えば歌手,映画俳優だと思えば映画スターと分類した。映画スターとしたのは女優も含めようという意図である。

 ところで,レコード会社の専属制だが,非専属の作詞家・作曲家・歌手により作られたレコードで有名なのは1959年の「黒い花びら」(詞:永六輔,曲:中村八大,唄:水原弘)だろう。1963年の「恋のバカンス」(詞:岩谷時子,曲:宮川泰,唄:ザ・ピーナッツ)などもそうだ。これを実現させたのが渡辺プロダクションで,ナベプロは傘下に渡辺音楽出版を設立し,音楽出版社が作詞家・作曲家・歌手に曲を外注し,デモテープをレコード会社に持ち込み,レコードの原盤権は音楽出版社に保持したままレコード制作を外注するシステムを作った。

 当時,各レコード会社は洋楽レーベルを持っていた。東芝ならキャピトルやエンジェル,コロムビアならCBS,ポリドールならグラモフォン,ビクターならフィリップスなどだ。本当かどうか確認はしていないが,最初はハイスクールの生徒などに(英語で?)唄わせ,洋楽の体裁をとって,その翻訳という形で洋楽レーベルから出すことにより,レコード会社専属の作詞家・作曲家・歌手からのクレームを避けたらしい。既存のレコード会社もこのような方法で曲を外注するようになる。

 レコード会社の専属制が有名無実になるのは1967年の「ブルー・シャトウ」(詞:橋本淳,曲:井上忠夫,唄:ジャッキー吉川とブルーコメッツ)の頃か。

 各時代に唄う映画スターはいるが私の中では石原裕次郎や小林旭がその中心だ。

 

ロカビリー三人男(平尾昌章,ミッキー・カーチス,山下敬二郎)

 1958年,第1回日劇ウエスタン・カーニバルが開催され,ロカビリー・ブームが到来。このブームを象徴する平尾昌章,ミッキー・カーチス,山下敬二郎の三人を指す。

 

三人ひろし(水原弘,井上ひろし,ヒロシ釜萢)

水原弘,井上ひろし,かまやつひろしは一時「三人ひろし」と呼ばれていたが,水原弘の曲のテイストが他の二人の曲とかなり異なるので,水原弘は三人ひろしから外され,代わりに守屋浩が入ることになる。

 

昭和30年代男性歌手四天王(三橋美智也,春日八郎,三波春夫)

 高度成長期に入り,戦前からの歌手は世代交代で次第に第一線から退いて行く。このころ人気があった男性歌手がこの4人とフランク永井である。

 

コラボでヒット(多摩幸子)

 ソロ・シンガーとしてのヒット曲より,他の歌手とのコラボ曲が私に強い印象を残している歌手。

 

御三家(橋幸夫,舟木一夫,西郷輝彦)

 それまでの男性歌手は私の感覚だとオジサンだった。橋幸夫はオニイサン歌手の登場と感じた。股旅ものなどやや古風な歌の感じもするが,次第に青春歌謡を唄うようになる。

次いで,舟木一夫が登場する。舟木は最初から学園ソングで私のような若年リスナーとの距離が近く,これらのヒット曲に刺激されてか,青春ソング・学園ソングを歌う若手歌手が次々と現れた。三田明・梶光夫・安達明・久保浩・美樹克彦・・・。

 最後に登場したのが西郷輝彦だ。橋と舟木の歌は従来の日本風流行歌風だったが,西郷の歌はポップス風の印象を受けた。それまではポップスと言えば米国発,あるいはイタリア発などがほとんどだった。もちろん以前にもポップス風の曲をかいた日本の作曲家もいたのだが,どこか違和感があった気がする。

 やがて当時の代表的若手歌手が御三家とよばれるようになる。当初,橋・舟木・三田だったらしいが,舟木がコロムビアで橋と三田がビクターということで,レコード会社のバランスをとるためにクラウンの西郷が選ばれたとか。真偽のほどは知らない。舟木・三田・西郷のほうが青春歌謡で統一されているような気もするが,ビクターで一番人気だった橋は外せなかったのかもしれない。

 

スパーク三人娘(中尾ミエ,伊東ゆかり,園まり)

 フジテレビ系音楽バラエティ「森永スパーク・ショー」に出演していた,中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりを指す。三人が渡辺プロダクション所属だったことからナベプロ三人娘と呼ばれたこともある。三人娘で二代目といえばこの三人しか思い浮かばないが,二代目三人娘という呼称はポピュラーにならず三代目三人娘が現れる。

 

グループ・サウンズ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

 ベンチャーズのヒットによりエレキ・バンドが流行っていた頃,これに歌を付けたのがビートルズだ。当時フォーク・ソングも流行っていて,こちらのほうは素人が唄ってもいいんだという雰囲気を醸成し,エレキバンドに日本語の歌を付けたのがグループ・サウンズだろう。

 

ひとりGS(黛ジュン,奥村チヨ,美空ひばり)

 歌手というより曲の分類のひとつ。GSっぽい曲。例えば美空ひばりの「むらさきの夜明け」(1968年,詞:吉岡治,曲:原信夫)などはGS調なので『ひとりGS』と呼ばれることがあるが,美空ひばりがひとりGSというわけではない。

 

東芝三人娘(小川知子,奥村チヨ,黛ジュン)

 当時,東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)に所属していた小川知子,奥村チヨ,黛ジュンの三人。『ナベプロ三人娘』に対抗しての命名か?

 

演歌の星(藤圭子)

 Wikipediaの演歌の項目には長大な解説?があるが,私の認識は以下のとおり。

 『演歌』という言葉自体は明治時代からあったが当初は『演説歌』で政治的風刺を歌(リズム)に載せたものだった。大正・昭和と進むにつれ,日本調流行歌が登場し,これが昭和後期の『演歌』に繋がる。

歌詞は7775の定型詩が多く,内容は「貧困」,「別れ」,「望郷」,「失恋」等で,これに「義理」と「人情」が加わって来る。「前時代の男女」や「アウトロー」が歌われることもある。これらを体現するものとしての「股旅もの」や,心の憂さを捨てるための「酒」がテーマになったりすることもある。もちろん,これらを歌えば「演歌」というわけでなく,例えば「別れ」の歌でも演歌ではない歌は山ほどある。

 1970年頃から「古くさい」と感じる曲が「演歌」と呼ばれるようになる。

 元々日本的歌謡曲は進歩的文化人の間では「低俗」とされ,不人気だった。しかし,60年安保闘争後に登場した新左翼は従来の進歩的文化人に反抗し始める。1963年,寺山修司は『思想の科学』10月号で,「うたごえ運動」の歌が「連帯」を価値とするのに対し,歌謡曲は「孤立したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。

 五木寛之は小説「艶歌」1)で,本来「演歌」は社会批判の歌だったはずが「インテリゲンチャによる警世の歌」に成り下がってしまった。「『虐げられた者の心の叫び』が『艶歌』だ」と言っている(私の記憶)。「艶歌」の本質は「暗さ」と「感傷性」だと定義した。

 五木は「艶歌と援歌と怨歌」2)や「怨歌の誕生」3で藤圭子のファーストアルバムを「正真正銘の『怨歌』だ」と絶賛している。

 1970年版の「現代用語の基礎知識」(自由国民社)に「演歌(艶歌)」の項目が立てられ,「艶歌」という用語が一般に使われるようになった。しかし,手元にある1973年版の同書の記述は「演説歌」に近いものであり,五木の用法はまだ一般的とは言えなかったようだ。

 この頃,「艶歌」,「援歌」,「怨歌」などの言葉が使われていたが,次第に五木の意味の「艶歌」に統一されてきて,表記は「演歌」となっていった。1970年にオリコンが「演歌ランキング」を始め,この頃が「演歌」の現在の用法が確立されはじめた時期だろう。

 五木寛之は「艶歌と援歌と怨歌」で畠山みどりの歌について「援歌」のようだが「援歌」ではないと言っているようだ。私の理解が間違っているかもしれないが,五木は「援歌」は上から目線で他人を「応援」する,あるいは「みんなで一緒に頑張りましょう」と「うたごえ運動」のような臭いがすると感じていたのではないだろうか。五木は畠山の歌について「自分自身を鼓舞する歌」,「慷慨の詩」であり「援歌」とは別の物としている。

 その後,五木の認識とは違う気がするが,水前寺清子などにみられる「援歌」も「演歌」の一種とみなされるようになる。

以上は歌詞の特徴だが,日本調と呼ばれる曲の特徴はヨナ抜き音階の短調が多い。歌唱での特徴は「こぶし」だろう。

 演歌の特徴を全て備えた歌を唄った最初の歌手は都はるみではなかろうか。しかし当時は「演歌」にこのような歌を指す用法はなかった。私の理解では昭和後期に使われた「演歌」という用語の用法は藤圭子により体現された。それ以前の歌でも後から考えるとあれは「演歌」だったという歌は少なくない。平成以降は歌謡曲をJ-POPと演歌に分けているように感じる。日本調歌謡曲を全て演歌と呼んでいるように感じる。

 私は「演歌の星」というと藤圭子だと思うが,星は多数あってもよいので,ここでは私が演歌と感じる歌を唄った歌手を演歌スターとした。

1)  「艶歌」(五木寛之:「蒼ざめた馬を見よ」(作品集)収録,1967年,文藝春秋)。これは文庫で持っていたのだが,探してもない。一時,本の保管が悪く,虫に食われて小さな本箱一つ分捨てたことがる。このとき捨てたのだろう。筑摩文学大系92に「蒼ざめた馬をみよ」が収録されているのでそれでいいと思っていたが,今回確認してみたら直木賞を受賞した同タイトルの作品が収録されているだけで,「艶歌」は収録されていなかった。本文中の記述は私の記憶に基づくものである。

2)  「艶歌と援歌と怨歌」(五木寛之:「ゴキブリの歌」。毎日新聞日曜版に連載されていたエッセイ。毎日新聞社から1971年に出版。後に新潮文庫,講談社文庫,集英社文庫。手元にあるのは角川文庫1972年)

3)  「怨歌の誕生」(五木寛之:初出,オール讀物(文藝春秋)197010月,1971年『四月の海賊たち』と単行本化。1975年『四月の海賊たち』が文春文庫化)

 

三代目三人娘(小柳ルミ子,南沙織,天地真理)

 小柳ルミ子,南沙織,天地真理は三人娘(美空ひばり,江利チエミ,雪村いづみ)・スパーク三人娘(伊東ゆかり,中尾ミエ,園まり)に次ぐ三代目三人娘と呼ばれた。スパーク三人娘や東芝三人娘などを飛ばして新三人娘と呼ばれることもある。

 

新御三家(野口五郎,西城秀樹,郷ひろみ)

 御三家は人気があったがアイドルとは呼ばなかった。初期のGSもアイドルとは呼ばなかったが,後期のGSにはアイドル的なグループも出てきた。新御三家はアイドルの先駆けだろう。

野口は演歌出身だから演歌っぽい歌を唄わせれば一番歌唱力がある。西城はポップス系の歌が上手い。郷は最もアイドル性がある。

 

花の中三トリオ(森昌子,桜田淳子,山口百恵)

 日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」出身の森昌子・桜田淳子・山口百恵。学年進行により花の高三トリオまで続いた。

 ほぼアイドルと言っても良いが,私の中ではアイドルというより歌手だ。

 

シンガー・ソング・ライター(小椋佳,荒井由実,さだまさし,松任谷由実,中島みゆき)

 作詞・作曲・歌唱全て行う歌手。数が増えてきたのはフォーク・ソングが流行してからか。その後,ニュー・ミュージック・演歌・J-POPなど自作の曲を歌う歌手もいるが,歌う曲の大部分が自作の曲の場合にシンガー・ソング・ライターと呼ぶようだ。

 

特徴ある声・歌唱(都はるみ)

 ヒットした曲は,誰が唄った曲かすぐに判るが,歌手によっては声や歌唱の特徴により他の歌手の曲のカバーでも誰が唄っているか判る特徴的な声や歌唱の歌手がいる。ここでは声や歌唱が特徴的な歌手を私の独断で選んだ。

 

フレッシュ三人娘(榊原郁恵,清水由貴子)

 花の中三トリオが高校を卒業し解散した1977年にデビューした三人を花の中三トリオの後継として期待して名付けられたが歌手としては花の中三トリオほどのヒットはなかった。

 

たのきんトリオ(近藤真彦,田原俊彦,野村義男)

 ジャニーズ所属のアイドル,トシちゃん・ヨっちゃん・マッチの三人。TBS系ドラマ『3B組金八先生』の第1シリーズに生徒役で出演。

 『イモ欽トリオ』は唄うとき三人グループで唄ったのでトリオに分類だが,たのきんトリオは個人での歌手活動が主だった。

 野村義男は,私に彼の歌の記憶がないので,歌手には入れず,その他という項目を作った。

 

ソロ淡谷のり子,藤山一郎,田端義夫,小畑実,春日八郎,美空ひばり,宮城まり子,江利チエミ,島倉千代子,雪村いづみ,曽根史朗,三橋美智也,若原一郎,石原裕次郎,園まり,三波春夫,伊東ゆかり,平尾昌章,平尾昌晃,ミッキー・カーチス,山下敬二郎,水原弘,井上ひろし,橋幸夫,ひろし釜萢,加山雄三,中尾ミエ,舟木一夫,西郷輝彦,都はるみ,奥村チヨ,中村晃子,布施明,小川知子,黛ジュン,藤圭子,かまやつひろし,天地真理,小椋佳,小柳ルミ子,野口五郎,南沙織,荒井由実,郷ひろみ,西城秀樹,森昌子,桜田淳子,山口百恵,中島みゆき,さだまさし,松任谷由実,榊原郁恵,清水由貴子,高田みづえ,近藤真彦,田原俊彦,ムッシュかまやつ)

 主に一人で唄う歌手。私が歌手とは思わない歌いて(アイドル,俳優、力士など)もここに入れた。

( )内の掲載順序は概ね歌手デビューの年代順だが,芸能界デビューや最初のヒット曲の年,あるいは改名など種々の理由で前後する場合もある。掲載順序に関してはデュオ以下も同様。)

                                                               

クインテット(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

 5人のグループならどんな演奏形式でもここに入れた。

 

6人以上のグループ(和田弘とマヒナスターズ,内山田洋とクールファイブ,サザンオールスターズ)

 コーラスグループやバンドはメンバーの出入りがあり,数が一定しているとは限らないが,私がよく聴いた時代の記憶によるメンバー数で分けた。

 

ロックバンド(サザンオールスターズ)

 ロックとは何かよく知らない。私の中では8ビートなのだが4拍子系ならロックの可能性ありだ。3拍子系はロックではないと思う。歌詞が上品なものはロックではなさそうだ。ロックが下品というわけではないが。叙景歌もロックになりそうには思わない。ここでは,私がロックだと感じるものを選んだ。

 

歌手50音順)

 

天地真理(2025.1.5)

 1971年,TBSドラマ「時間ですよ」(森光子)で隣のマリちゃん役でデビュー。同年,「水色の恋」(詞:田上えり/Pesce C.,曲:田上みどり/Latasa F)でデビュー。

1972年の「ちいさな恋」(詞:安井かずみ,曲:浜口庫之助),「ひとりじゃないの」(詞:小谷夏,曲:森田公一),「虹をわたって」(詞:山上路夫,曲:平尾昌晃),「ふたりの日曜日」(詞:山上路夫,曲:平尾昌晃),1973年の「若葉のささやき」(詞:山上路夫,曲:森田公一),「恋する夏の日」(詞:山上路夫,曲:森田公一),「空いっぱいの幸せ」(詞:山上路夫,曲:森田公一),1974年の「恋人たちの港」(詞:山上路夫,曲:森田公一),「想い出のセレナーデ」(詞:山上路夫,曲:平尾昌晃)など,多くのヒット曲がある。

三代目三人娘の中では後のアイドル歌手に最も近いと感じる。

 

荒井由実(2024.10.30)

 1972年,「返事はいらない」がデビュー曲らしいが私は知らない。1976年,結婚で松任谷由実と改姓。

 1973年,ファースト・アルバム「ひこうき雲」,これに収録されていた「ひこうき雲」が荒井由実を知った最初だ。いや,荒井由実に注目したのはもっと後だったような気もしてきた。

 1974年の「やさしさに包まれたなら」ははっきり覚えている。その後1975年の「ルージュの伝言」「あの日にかえりたい」,1976年の「翳りゆく部屋」」などでユーミンブームが到来した。

 他のシンガーに詞と曲を提供した歌も多数ヒットした。1975年,ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」・バンバンの「『いちご白書』をもう一度」,1983年,原田知世の「時をかける少女」他多くのヒット曲がある。

 その他,呉田軽穂名義で他のシンガーに提供した歌も多い。例えば松田聖子に曲を提供したのが1982年の「赤いスイートピー」(詞:松本隆),1983年の「瞳はダイアモンド」(詞:松本隆)・「蒼いフォトグラフ」(詞:松本隆),薬師丸ひろ子には1984年の「WomanWの悲劇より」(詞:松本隆)などを提供している。

 多くの記録を持ち,受賞歴も数多くある。2022年,シンガーソングライターとして初の文化功労者。

 ニューミュージックとくくられるシンガ―・ソング・ライターは多数いるが,私が過去の歌と大きく違うと感じるのは丸山圭子と荒井由実だ。丸山(1976年の「どうぞこのまま」)に関しては私がそれまでボサノバに親しみが無かっただけかもしれない。ユーミンのほうがヒット曲数が圧倒的に多く,聴きなれないコードを使用したりして,ニューミュージックの旗手と言えば荒井由実だろう。

 

淡谷のり子(2024.11.30)

 東洋音楽学校声楽科首席卒業。昔は専門的な声楽教育を受けた歌手が少なくなかった。

 1930年,「久慈浜音頭」でデビューらしいが,この歌については知らない。

 1935年,「ドンニャ・マリキータ」がヒットし,日本のシャンソン歌手第1号と言われているらしいが,この曲も私は知らない。

 1937年,「別れのブルース」(詞:藤浦洸,曲:服部良一)が大ヒット,38年の「雨のブルース」(詞:野川香文,曲:服部良一)もヒットした。

 残念ながら私が知っているのはテレビのバラエティ番組(歌マネ番組等)で辛辣な批評をしている姿だ。唄っている姿は記録映像しか観ていないように思う。

 

石原裕次郎(2025.3.20)

 日活の俳優。1963年には石原プロモーションを設立。『太平洋ひとりぼっち』や『黒部の太陽』などの映画を製作。また,1972年には『太陽にほえろ』などテレビドラマへの出演も始めた。

歌手デビューは1956年の「狂った果実」(詞:石原慎太郎,曲:佐藤勝)で,同タイトル日活映画に初めて主役で出演したときの主題歌である。

多くのレコードを出しているが,ヒット曲をいくつか挙げると,1957年には「俺は待ってるぜ」(詞:石崎正美,曲:上原賢六),「錆びたナイフ」(詞:萩原四朗,上原甚六),1958年に「嵐を呼ぶ男」(詞:井上梅次,曲:大森盛太郎),1961年には牧村旬子とのデュエットで「銀座の恋の物語」(詞:大高ひさを,曲:鏑木創),1962年「赤いハンカチ」(詞:萩原四朗,上原甚六).1965年「二人の世界」(詞:池田充男,曲:鶴岡雅義),1977年「ブランデーグラス」(詞:山口洋子,曲:小谷充),1987年「北の旅人」(詞:山口洋子,曲:弦哲也)などがある。

 

伊東ゆかり(2025.2.5)

 1958年,キングレコードより「かたみの十字架/クワイ河マーチ」でデビュー。このとき伊東は11歳。私はこの歌は知らないが,インスツルメンツ(?口笛あり)の「クワイ河マーチ」は運動会の行進練習で耳にタコができるほど聞いた。

 渡辺プロダクションに移籍し,60年代には日本テレビの「シャボン玉ホリデー」などに出演し,「ポケット・トランジスター」「大人になりたい」「悲しきクラウン」「セコハン・ラヴ」「ヴァケイション」「恋の売り込み」「ボビーに首ったけ」「夢見る片想い」など多数のポップスを和訳で唄っていた。当時,私はこれらのオリジナル曲を聴いていたのだが,伊東が唄う歌の元歌は男性歌手の歌・女性歌手の歌・ロック系・カントリー系・カンツォーネ系等何でもありだったように感じる。恐らくナベプロの方針だったのだろう。

 1967年,オリジナルの「小指の想い出」(詞:有馬三恵子,曲:鈴木淳)が爆発的ヒット。続く「あの人の足音」(詞:有馬三恵子,曲:鈴木淳),68年の「恋のしずく」(詞:安井かずみ,曲:平尾昌晃),「星を見ないで」(詞:安井かずみ,曲:平尾昌晃),「朝のくちづけ」(詞:有馬三恵子,曲:鈴木淳),69年の「知らなかったの」(詞:山口あかり,曲:平尾昌晃)などもヒットした。

 1970年に渡辺プロダクションから独立。1971年にDENONから出した「誰も知らない」(詞:岩谷時子,曲:筒美京平)がヒットしたが,歌う曲が次第に洋楽寄りになり,私はあまり聴かなくなった。

 

井上ひろし(2025.4.20)

 1960年,「雨に咲く花」(1935年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:関種子)を唄いこれがヒット,リバイバル曲が流行し,佐川ミツオやフランク永井などもリバイバル曲を唄った。井上自身も61年に「別れの磯千鳥」(発表年不詳,詞:福山たか子,曲:フランシス・カイチ・ザナミ,唄:戦後にハワイで流行したらしい)(1952年,近江敏郎によりカバー)や「並木の雨」(1934年,詞:高橋掬太郎,曲:池田不二男,唄:ミス・コロムビア)などを唄いヒットさせている。

 61年にはNHK紅白歌合戦にも出場しているが,次第にヒット曲に恵まれなくなる。

 

内山田洋とクールファイブ(2025.5.31)

 キャバレーやナイトクラブで活躍していたらしいが,1969年に「長崎は今日も雨だった」(詞:永田貴子,曲:彩木雅夫)でデビュー。第11回日本レコード大賞新人賞受賞。

 クールファイブだから5人グループに入れてもいいのだが,内山田を入れると6人になるので6人以上に入れた。私の印象に残るメンバーはリーダーの内山田洋とボーカルの前川清だ。1987年に前川が脱退し,その後も併せて半分くらいのメンバー交代がある。

 私の独断でヒット曲をいくつか挙げると,1969年には「逢わずに愛して」(詞:川内康範,曲:彩木雅夫),70年は「愛の旅路を」(詞:山口あかり,曲:藤本卓也),「噂の女」(詞:山口洋子,曲:猪俣公章),72年の「そして,神戸」(詞:千家和也,曲:浜圭介),76年「東京砂漠」(詞:吉田旺,曲:内山田洋)などだ。

「あぁあぁ〜 長崎は今日も雨だった」の「あぁあぁ〜」とか,「どうせ私は噂のぉ〜女」の「噂のぉ〜」など,前川の声も特徴的だが,この程度で特徴的な声に入れるとその範囲が膨大になるので,まあちょっと独特ではあるが普通の声としておく。

 

江利チエミ(2024.10.25)

 江利チエミは美空ひばりと同年の生まれである。少女歌手としての活動は1949年,12歳の頃からで,進駐軍のキャンプ中心の活動だった。

 1952年,15歳のとき「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューした。当時は海外ポピュラーミュージックはなんでもジャズと呼ばれている時代で,江利チエミはジャズ歌手をいうことになる。私は一時期を除いて洋楽はほとんど聴かなかったのでチエミの歌はあまり聴いてはいないが,54年の「ウスクダラ」,55年の「チャチャチャはすばらしい」などは『ウスクダラギデーリケンオールダビリヨンムール』1)とか『ワンドケケーロケチャッチャッチャッ トードケターバリノーバイラ』2)などと聞き覚えた。

 チエミは民謡・都都逸のような俗曲なども多数レコーディングしている。実家には民謡のレコードもあったが,その中にチエミが唄ったものがあったかどうか今となっては判らない。

 歌謡曲としては1964年の「新妻に捧げる歌」,74年の「酒場にて」など大ヒット曲だろう。前者は一時期結婚披露宴でよく唄われていた。

 江利チエミも多数の映画に出演している。特に私の印象に残っているのは「サザエさん」だ。1956年の東宝映画「サザエさん」が最初で,その後も何度も映画になり,65年にはテレビドラマにもなっている。

1) Uskudara giderken aldida bir yangmur

2) Quando sugiero que Cha Cha Cha, Todo que estaba vino a bailar

 

小川知子(2025.1.31)

1966年にビクターから久保浩とのデュエットで「恋旅行」という曲を出しているらしいが,私はこの曲を知らない。

最初の大ヒット曲は1968年に東芝から出した「ゆうべの秘密」(詞:タマイチコ,曲:中州朗)だ。同年の「恋のときめき」(詞:有馬三恵子,曲:鈴木淳),「誰もいない処で」(詞:タマイチコ,曲:中州朗)などもそれなりにヒット。

1969年の「初恋のひと」(詞:有馬三恵子,曲:鈴木淳)も大ヒットと言っていいだろう。同年の「恋のなごり」(詞:なかにし礼,曲:大沢浄二),「銀色の雨」(詞:松井由利夫,曲:鈴木淳)くらいまでは2大ヒット曲の余波でそれなりに売れたのではないか。

私が知っているその後の歌は1972年の「別れてよかった」(詞:なかにし礼,曲:川口真)くらいだ。

尚,小川のデビューは1960年のテレビドラマらしい。その後,映画に多数出演しており,テレビドラマはもっと数多く出演している。そういう意味では唄う女優と分類できなくもないが,私がよく知っているのは歌手の小川知子だ。

 

奥村チヨ(2025.2.25)

 1965年,東芝レコードから「あなたがいなくても」でデビュー。この曲を私は知らない。

 毎年5曲くらい(B面曲も数えるとその倍)の新曲を出していたようだが,知らない曲も多い。推しの歌手なら新譜が出る都度チェックしていたのだが。

私の記憶にある曲を少し挙げてみると,1965年の「ごめんネ・・・ジロー」(詞:多木比佐夫,曲:津野陽二),1967年「北国の青い空」(詞:橋本淳,曲:ザ・ベンチャーズ),1969年「恋の奴隷」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦),1970年「中途半端はやめて」(詞:なかにし礼,曲:筒美京平),1971年「終着駅」(詞:千家和哉,曲:浜圭介)などだろうか。

「北国の青い空」などGS調の曲なので『ひとりGS』と呼ばれたこともある。

 私が推すbestは「終着駅」だろう。

 

小椋佳(2024.12.31)

 1971年,アルバム「青春〜砂漠の少年〜」でデビュー。アルバム中の曲「しおさいの歌」がプロデューサーの気に入られたようだ。当初は勤務先の日本勧業銀行に知られないようにか,東大卒の謎のシンガーということで売り出された。

 1971年の「さらば青春」,1974年の「少しは私に愛をください」,1975年の「めまい」,1976年の「揺れるまなざし」などの他,1975年に作詞・作曲して布施明に提供した「シクラメンのかほり」,「傾いた道しるべ」,中村雅俊に提供した「俺たちの旅」,1976年に作詞・作曲して中村雅俊に提供した「盆帰り」,曲を中村雅俊に提供した「時」(詞:塚原将),1982年に作詞・作曲して梅沢富三男に提供した「夢芝居」,1986年に作詞・作曲して美空ひばりに提供した「愛燦燦」,詞を堀内孝雄に提供した「愛しき日々」(曲:堀内孝雄)など多数のヒット曲がある。

 

小畑実(2024.12.30)

 日本音楽学校出身。1941年ポリドールから「成吉思汗」でデビューするも売れず。

ビクターへ移籍後,1942年に藤原亮子とデュエットした「婦系図の歌(湯島の白梅)」(詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄)がヒット。これは東宝映画「続婦系図」(長谷川一夫,山田五十鈴)の主題歌だ。

1943年には再び藤原亮子とのデュエットで「勘太郎月夜唄」(詞:佐伯孝夫,曲:清水保雄)がヒットした。この歌は,一時私が毎日のように飲みに行っていた店の常連客の一人が,酔うとよく唄っていた。

1948年の「小判鮫の歌」(詞:高橋掬太郎,曲:木村農章),1949年「薔薇を召しませ」(詞:石本美由起,曲:上原げんと),「アメリカ通いの白い船」(詞:石本美由起,曲:利根一郎),1950年の「星影の小径」(詞:矢野亮,曲:利根一郎),「長崎のサボン売り」(詞:石本美由起,曲:江口夜詩),1951年の「高原の駅よ,さようなら」(詞:佐伯孝夫,曲:佐々木俊一),「山の端に月の出るころ」(詞:矢野亮,曲:利根一郎),1953年の「花の三度笠」(詞:佐伯孝夫,曲:吉田正),1954年の「そよ風のビギン」(詞:杉本襄之,曲:利根一郎)など,多数のヒット曲がある。彼の歌唱は『クルーナー唱法』というらしいが,マイク使用を前提として優しく発声する歌唱法のことか。確かにオペラの発声に比べればはるかに優しく発声しているようだが。

「高原の駅よ,さようなら」は,ヘタながら,カラオケ喫茶へ行っていた頃,他の客が私より年上だと判断したときに唄っていた。まあ,同世代と判断したらフランク永井の「霧子のタンゴ」だ。若い客はいない店だったが,若そうだとみれば山本譲二の「みちのくひとり旅」と行くところだが,そのような機会は無かった。

小畑は春日八郎や三橋美智也が登場するまで,雑誌「平凡」の人気投票では男性歌手の一位を続けていたらしい。

 

春日八郎(2024.10.20)

 昔の歌手は(音楽系の)学校教育を受けている者が少なくなかったが,春日も東洋音楽学校に入学し後に東京声専音楽学校に転校し卒業している。

 1947年にキングレコードの第1回歌謡コンクールで合格し,歌川俊の名でキングの準専属歌手になる。作曲家細川潤一の指導を受け,三門順子の前座歌手をやっていたが,唄う機会もあまりないうちに,キングの内紛により細川が人員整理の対象となってしまう。

 1952年,江口夜詩が春日の為に「赤いランプの終列車」を作曲。11月に発売された。この頃春日八郎と改名しており,岡晴夫の前座歌手になっているが,「赤いランプの終列車」はキング内の販促では10枚のうちの最下位との位置づけだったらしい。しかし,1953年になるとこれが名古屋から売れ出し,やがて全国で50万枚という大ヒットになる。当時は青木光一,三浦洸一と並び歌謡界の若手三羽烏として注目された。

 1954年「お富さん」(詞:山崎正,曲:渡久地正信)が125万枚の大ヒットになる。当時は街(商店街など)で道路に向け音楽を流していることが多く,最もよく聞いた歌がこの「お富さん」だろう。

 1955年「別れの一本杉」(詞:高野公男,曲:船村徹)は船村の出世作である。

 1957年「あン時ゃどしゃ降り」(詞:矢野亮,曲:佐伯としを),1963年「長崎の女」(詞:たなかゆきを,曲:林伊佐緒)などのヒット曲がある。

 1959年の「山の吊橋」(詞:横井弘,曲:吉田矢健治)など,NHKののど自慢の出場者が唄うのを何度も聞いた。のど自慢出場者にこの歌を唄いたいと思わせるものがあったのだろう。

 

かまやつひろし→ヒロシ釜萢

 

加山雄三(2025.5.5)

 1960年に東宝入社。1961年「夜の太陽」(詞:三田恭次,曲:中村八大)で歌手デビュー。

 ヒット曲として1965年の「恋は紅いバラ」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),「君といつまでも」詞:岩谷時子,曲:弾耕作),「夜空の星」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),66年「蒼い星くず(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),「お嫁においで」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),「夜空を仰いで」(詞:弾耕作,曲:弾耕作),「旅人よ」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),67年「幻のアマリリア」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),1976年「ぼくの妹に」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作),「海その愛」(詞:岩谷時子,曲:弾耕作)などがある。

加山は「加山雄三とザ・ランチャーズ」というエレキバンドを結成していた。唄う際,バックに「寺内タケシとブルージーンズ」(恋は紅いバラ),「大橋節夫とハニーアイランダース」(お嫁においで),「ザ・ワイルドワンズ」(二人だけの海)などのGSバンドを従えて唄った歌も少なくなく,GSと言ってもよいほどだが,ジュリーやショーケンはGSを離れてからソロとして活動したのに対し,加山はザ・ランチャーズを従えて「旅人よ」を唄った際にも歌手名は加山雄三となっているようで,GSとしては唄っていないようだ。GSバンドを従えての歌唱でも,唄を聴いてみるとGSというより加山雄三で,これは曲が独特でGSっぽく聞こえないということで,GSにもひとりGSにも入れなかった。

 弾耕作名義で自身が作曲した曲が多数ある。ヒット曲のほぼすべてと言ってもよいかもしれない。「夜空を仰いで」のように少数だが自身で作詞した曲もあり,シンガー・ソング・ライターの先駆けである。しかし,ヒット曲の大部分が岩谷時子の作詞なのでシンガー・ソング・ライターには入れなかった。

 

小柳ルミ子(2024.11. 5)

1970年にNHK連続テレビ小説『虹』で女優デビューした。歌手としてのデビューは1971年「わたしの城下町」(詞:安井かずみ)(第13回日本レコード大賞最優秀新人賞受賞)である。同年の「お祭りの夜」(詞:安井かずみ),72年の「雪明りの町」(詞:山上路夫),「瀬戸の花嫁」(詞:山上路夫)(第3回日本歌謡大賞受賞),「京のにわか雨」(詞:なかにし礼),「漁火恋唄」(詞:山上路夫),73年の「春のおとずれ」(詞:山上路夫),「十五夜の君」(詞:安井かずみ),「恋の雪別れ」(詞:安井かずみ)など,多数のヒット曲がある。例外的に「春のおとずれ」が森田公一,「十五夜の君」が浜圭介の作曲だが,これら以外の上に掲げた曲は全て平尾昌晃の作曲である。

 その後の小柳は曲調の違う曲を唄うようになり,ヒット曲出現の頻度は減った。その後のヒット曲として,1974年の「冬の駅」(詞:なかにし礼,曲:加瀬邦彦),75年の「ひと雨くれば」(詞:麻生香太郎,曲:井上忠夫),77年の「星の砂」(詞:関口宏,曲:出門英),83年の「お久しぶりね」と「今さらジロー」は共に作詞・作曲が杉本真人だ。

 

近藤真彦(2025.6.12)

 1979年,TBSテレビドラマ「3B組金八先生」に出演。同ドラマに出演していた田原俊彦,野村義男と共に「たのきんトリオ」として活躍。

 1980年「スニーカーぶる〜す」(詞:松本隆,曲:筒美京平)で歌手デビュー。ジャニーズ事務所のタレントは最初の「ジャニーズ」からアイドルっぽかったが,近藤は正真正銘のアイドルだった。昭和末期のアイドル歌手の中にはあまり歌が上手いとは言えない歌手もいて,私はそのような歌手を心の中で唄うアイドルと呼んでいたが近藤は十分歌手レベルの歌唱力があった。歌手レベルの歌唱力などと低い評価に聞こえるかもしれないが,彼の歌(詞と曲)が私の好みから外れていたことが原因だろう。

 多くの曲を出しているが,私の記憶にあるヒット曲を少し挙げておく。1981年は「ギンギラギンにさりげなく」(詞:伊達歩,曲:筒美京平),これで第23回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞している。82年には「ハイティーン・ブギ」(詞:松本隆,曲:山下達郎),87年には「愚か者」(詞:伊達歩,曲:井上堯之)で第29回日本レコード大賞を受賞している。90年を過ぎると次第にレコード発売は減っていくが2010年には「ざんばら」(詞:川内康範,曲:HAL)で第52回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞している。

 タレントとしてテレビドラマや映画出演も多数あるが,自動車レースの分野でも活躍している。

1984年に富士フレッシュマンレースに日産マーチで参戦し,自動車レースを始めた。1993年までは全日本F3選手権に参戦,94年にはル・マン24時間レースにポルシェ962Cで参戦。95年にはポルシェ911を駆りGT1クラスで優勝しているらしい。国内レースでは何度も優勝しているらしい。

 その後も自動車レースに参戦し続け,ついにはレーシングチームの監督やオーナーになる。2023年には中嶋悟の後任として日本レースプロモーション(フォーミュラ・レースの興行などを主催する企業)の取締役会長に就任。

 

郷ひろみ(2024.12.15)

 ジャニーズ事務所に所属し,フォーリーブスとステージに立つなどしていたが,メジャーデビューは1972年のNHK大河ドラマ『新・平家物語』で古谷一行が演じた平経盛の少年期を演じた。またフジテレビの森田健作主演ドラマにも出演している。

 1972年,CBSソニーから「男の子女の子」(詞:岩谷時子,曲:筒美京平)でデビュー。オリコンでベスト10入り。新御三家のなかでデビューは最も遅いが,ベスト10入りは最も早かった。この曲で第14回日本レコード大賞新人賞受賞。

 1973年,「裸のビーナス」(詞:岩谷時子,曲:筒美京平)で第4回日本歌謡大賞放送音楽賞受賞,「小さな体験」(詞:岩谷時子,曲:筒美京平)で第6回日本有線大賞大衆賞受賞。

 1974年,「よろしく哀愁」(詞:安井かずみ,曲:筒美京平)がヒット。

 1975年,ジャニーズ事務所からバーニングプロダクションに移籍。

 1976年,「あなたがいたから僕がいた」(詞:橋本淳,曲:筒美京平)で第18回レコード大賞大衆賞受賞。

 その後も1978年の樹木希林とのデュエット曲「林檎殺人事件」(詞:阿久悠,曲:穂口雄右),1981年の「お嫁サンバ」(詞:三浦徳子,曲:小杉保夫)はじめ,数々のヒット曲がある。また1984年には『ジャパ〜ン』で有名な国鉄のキャンペーンソング「24千万の瞳―エキゾチック・ジャパン」(詞:売野雅勇,曲:井上大輔)もヒットした。

 郷が新御三家の一人でなかったら,特徴ある声・歌唱に分類していただろう。

 

西郷輝彦(2024.11.15)

1964年「君だけを」(詞:水島哲,曲:北原じゅん)でデビュー。同年の「チャペルに続く白い道」「星空のあいつ」「十七才のこの胸に」「青空の下夢がいっぱい」「君と歌ったアベマリア」全てが水島哲作詞,北原じゅん作曲である。

1965年の「青年おはら節」では詞を星野哲郎、曲を米山正夫が書いている。65年にも多くの曲をだしているが,私の好みからは外れて行ったようだ。印象に残っているのは浜口庫之助作詞作曲の「星娘」くらいだ。浜口は66年にも大ヒット曲「星のフラメンコ」を作り,67年には「願い星叶い星」を作っている。

1968年には「月のしずく」(詞:銀川晶子,曲:伍代けん)を発表しているが,作詞の銀川,作曲の伍代とも西郷のペンネームである。西郷は我修院健吾のペンネームで雑誌に連載小説も書いた。尚,このペンネームは米国の作曲家ガーシュウィンをもじったものだそうだ。

橋と舟木は従来の歌謡曲路線を引き継いでいると感じるが,西郷はややバタ臭いと私は感じた。「星のフラメンコ」など,当時ギターを弾き始めていた私はフラメンコ風に弾く練習をしてみたりしていた。

その後,西郷は私にとって歌手というより俳優になる。

 

西城秀樹(2024.11.10)

 1972年に「恋する季節」(詞:麻生たかし,曲:筒美京平)でデビュー。作詞の麻生たかしは後のたかたかし。この年のレコード大賞新人賞は森昌子・三善英史・麻丘めぐみ・郷ひろみ・青い三角定規で西城は選に漏れている。

 1973年の「ちぎれた愛」(詞:安井かずみ,曲:馬飼野康二)(第15回日本レコード大賞歌唱賞受賞),「愛の十字架」(詞:たかたかし,曲:鈴木邦彦),1974年の「激しい恋」(詞:安井かずみ,曲:馬飼野康二),「傷だらけのローラ」(詞:さいとう大三,曲:馬飼野康二)(第16回日本レコード大賞歌唱賞受賞)

 1976年「君よ抱かれて熱くなれ」(詞:阿久悠,曲:三木たかし),「ジャガー」(詞:阿久悠,曲:三木たかし),1978年「ブーツをぬいで朝食を」(詞:阿久悠,曲:大野克夫),「ブルースカイブルー」(詞:阿久悠,曲:馬飼野康二)(第20回日本レコード大賞金賞受賞),1979年「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」(詞:V.Wills, H.Belolo,日本語詞:あまがいりゅうじ,曲:J.Morali(10回日本歌謡大賞,第8FNS歌謡祭グランプリ受賞。日本レコード大賞は外国作品のカバーであることからエントリーされていない。)など,多数のヒット曲がある。

 その後も1983年の「ギャランドゥ」(詞:もんたよしのり,曲:もんたよしのり)まで日本レコード大賞金賞を6年連続受賞しているが私はあまり聴かなくなった。

 

榊原郁恵(2025.2.20)

1977年,「私の先生」(詞:橋本淳,曲:井上忠夫)で歌手デビュー。78年の「いとしのロビン・フッドさま」(詞:藤公之介,曲:馬飼野康二)がやや売れたほか,「夏のお嬢さん」(詞:笠間ジュン,曲:佐々木勉)をこの年に出し,これが彼女の最大のヒット曲だろう。

1981年,ホリプロ初のミュージカル「ピーター・パン」を座長として公演し,その後7年間毎年公演を続けた。

その前からドラマ等にも多数出演している。その後,ヒット曲には恵まれず,次第に歌手から女優・タレントになっていった。

 

桜田淳子(2024.10.5)

桜田淳子は1972年の「スター誕生!」第4回決戦大会でグランドチャンピオンになる。1973年レコードデビュー。彼女に多くの詞を提供しているのは阿久悠である。デビュー曲の「天使も夢見る」「天使の初恋」「わたしの青い鳥」「花物語」と73年の曲は全て阿久の作詞,作曲は全て中村泰士である。「わたしの青い鳥」は第4回日本歌謡大賞放送音楽新人賞,第15回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。

1974年の「花占い」も阿久・中村だが,「黄色いリボン」「初めての出来事」は阿久の作詞で曲は森田公一が提供している。75年の「十七の夏」「天使のくちびる」「ゆれてる私」,76年の「夏にご用心」,77年の「気まぐれヴィーナス」も全て阿久・森田のコンビが提供している。もちろん,桜田は他の曲もだしているが,上記の曲は私の記憶にある曲だ。私は阿久・森田コンビの曲が桜田に合っていると感じる。

1977年に「しあわせ芝居」と「追いかけてヨコハマ」がヒットしたがこれらは中島みゆきの作詞・作曲である。中島は1981年にも「化粧」を提供しているが中島自身が唄った「化粧」のほうが良いように思う。

私はトリオの中で桜田が最も年相応の印象を受けた。

 

サザンオールスターズ(2024.8.25)

 サザンオールスターズのメジャーデビューは1978年の「勝手にシンドバッド」だ。79年の「いとしのエリー」,82年の「チャコの海岸物語」など,大ヒットしているのは知っていたが,私が昔,橋幸夫・舟木一夫・野口五郎・伊東ゆかり・小柳ルミ子・山口百恵などに心魅かれたようにはサザンには魅かれなかった。

 サザンのメンバーは桑田佳祐,関口和之,松田弘,原由子,大森隆志,野沢秀幸だが,大森は2001年に独立している。

 サザンの歌は聴いて理解はできるのだが,なぜか共感力が私に対しては弱い。サザンの登場が私の歌への関心を薄めた分岐点のような気がする。その後,平成になると私が聴いて感情移入できる歌が激減していった。私が世間の流れについていけなくなったのだ。

 2000年には「TSUNAMI」で日本レコード大賞を受賞している。

 

さだまさし(2024.12.5)

さだのレコードデビューはフォーク・デュオのグレープの一員としてのデビューで,デビュー曲は1973年の「雪の朝」という曲らしいが,私は知らない。74年に2作目「精霊流し」がヒットした。グレープとしては1975年の「無縁坂」もそれなりのヒットをしているが1976年にはグレープは解散する。

1976年からソロ活動を始めるが1977年の「雨やどり」が大ヒット。「案山子」もヒットしただけでなく山口百恵に提供した「秋桜」も大ヒット。

1979年には「関白宣言」が大ヒット。その後も「親父の一番長い日」,1980年の「道化師のソネット」「防人の詩」など数多くのヒット曲がある。

 

島倉千代子(2025.3.30)

 1953年,私立の日本音楽高等学校入学。1954年,コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。同社の専属となる。

 1955年,「この世の花」(詞:西條八十,曲:万城目正)でデビュー。同タイトルの大映映画(川喜多雄二,淡路恵子)の主題歌で,島倉最大のヒット曲だ。当時,毎年30曲以上をだしている(例えば1957年には37曲)が,私の記憶に残る曲をいくつか挙げる。

 1955年「りんどう峠」(詞:西條八十,曲:古賀政男),1956年「東京の人さようなら」(詞:石本美由起,曲:竹岡信幸),「逢いたいなァあの人に」(詞:石本美由起,曲:上原げんと),「東京だョおっ母さん」(詞:野村敏夫,曲:船村徹),1958年「思い出さん今日は」(詞:星野哲郎,曲:古賀政男),「からたち日記」(詞:西沢爽,曲:遠藤実),1961年「恋しているんだもん」(詞:西沢爽,曲:市川昭介).「夕月」(詞:菊田一夫,曲:古関裕而),「襟裳岬」(詞:丘灯至夫,曲:遠藤実).1963年には守屋浩とのデュエットで「星空に両手を」(詞:西沢爽,曲:神津善行),1965年「ほんきかしら」(詞:岩谷時子,曲:土田啓四郎),1968年「愛のさざなみ」(詞:なかにし礼,曲:浜口庫之助).1987年「人生いろいろ」(詞:中山大三郎,曲:浜口庫之助)などである。

 最後の曲は,2013年の「からたちの小径」(詞:喜多条忠,南こうせつ,曲:南こうせつ)。この曲の吹き込みは当初予定より10日早めることを島倉から希望し,吹き込みの3日後,島倉は肝臓癌のために亡くなった。

 尚,19575859年の紅白歌合戦の紅組のトリは美空ひばり,19606162年は島倉千代子,1963年から1972年までは再び美空ひばり,19737475年は再び島倉千代子が紅組のトリになっている。このうち,島倉が大トリだったのは1975年の1回だが,美空ひばりが大トリでなかったのはわずか2回で,このときの大トリはどちらも三波春夫だった。当時のNHKの評価はひばりが絶大で,女性歌手では島倉が続いていたということだろう。

 ついでながら,紅組のトリだが,ひばりの前は54年が渡辺はま子,55年は二葉あき子,56年は笠置シヅ子だ。島倉の後は76年が都はるみ,77年が八代亜紀,78年は山口百恵と続いている。

 NHKの評価が絶対というわけではないが,島倉が世に出たころ,世の中はひばりの時代だったといえるだろう。

 美空ひばりはどんな歌でも歌いこなし,レパートリーの幅が広く,男っぽい歌も唄っていた。それに比べて初期の島倉は和服でいかにもか弱そうな雰囲気で大和撫子風なのでひばりとファン層が違っていたのだろう。

 

清水由貴子(2025.3.31)

 1976年,日テレのオーディション番組『スター誕生!』の第16回決戦大会で根本美鶴代と増田啓子のペア(後のピンク・レディー)を押さえてグラドチャンピオンになる。1977年に「お元気ですか」(詞:阿久悠,曲:三木たかし)でレコード・デビュー。それなりにヒットはしたものの,日本レコード大賞の新人賞には一歩及ばなかった。この年の新人賞は清水健太郎,高田みづえ,狩人,太川陽介,榊原郁恵が受賞した。

 その後,あまりヒット曲に恵まれず,テレビドラマやバラエティに活動の場を移動した。

 

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(2025.1.10)

 古い歴史があるバンドらしいが,あまり古いところは私も知らない。私が知っているのはフジテレビ系の「ザ・ヒットパレード」でバックバンドをしていた頃からである。この番組は渡辺プロダクションの番組で,歌手はナベプロの歌手である。同じ番組にはスマイリー小原とスカイライナーズというバンドもバックを務めていた。

 メンバーはジャッキー吉川,高橋健二,三原綱木,井上忠夫,小田啓義が有名だと思うがいろいろ出入りがある。

 1966年,コロムビアから英語版の「Blue Eyes」と日本語版の「青い瞳」を出し,まずまずのヒット(日本語版は50万枚)だった。この年ビートルズが来日した際には前座として出演している。

 1967年の「ブルー・シャトー」は150万枚の大ヒットで,第9回レコード大賞を受賞している。また,美空ひばりの「真っ赤な太陽」のレコーディングにも参加している。こちらも140万枚の大ヒットだとか。

 エレキバンドやGSには不良のイメージがあったせいか,NHKへの出演が許されなかった中,ブルー・コメッツとワイルドワンズだけが出演を許されていたのはNHKが許容するバンドのイメージったのだろうか。

 

曽根史朗(2025.3.15)

 1954年,ポリドールから「雪之丞変化の唄」で歌手デビュー。残念ながら私はこの歌を知らない。

 1955年にはビクターレコードに移籍。1956年に「若いお巡りさん」(詞:井田誠一,曲:利根一郎)が大ヒット。58年には「白いジープのパトロール」(詞:井田誠一,曲:利根一郎)がヒットした。私が知っている曽根の歌はこれだけだ。

 小学生の頃,町内会で小学生がリヤカーを引き廃品回収をしていた。そのとき皆で唄った歌が,春日八郎の「お富さん」と「若いお巡りさん」だった。それほどのヒットだったのだ。もちろん学校ではこのような歌を唄うものではないと指導されていた。

 

園まり(2025.3.5)

 1956年,12歳のとき本名の薗部毬子でキングレコードから「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてデビューしたらしいが,この頃について私は知らない。

 1961年,渡辺プロダクションに入社。その後洋楽の日本語カバーを唄ってそれなりにヒット。当時の洋楽カバーは何人もの歌手が唄っており,誰が唄った歌が最もヒットしたのかは簡単には解らないが,「太陽はひとりぼっち」,「花はどこへ行った」などはヒットしたほうだろう。

 1964年「何も云わないで」(詞:安井かずみ,曲:宮川泰)が歌謡曲の最初のヒットだろう。その後1966年の「逢いたくて逢いたくて」(詞:岩谷時子,曲:宮川泰),「夢は夜ひらく」(詞:中村泰士/富田清吾,曲:曽根幸明),1967年「愛は惜しみなく」(詞:川内康範,曲:宮川泰)などがヒットした。

 中尾ミエは米国の歌を直訳的に日本語で唄っている印象でポップスにしか聞こえない。伊東ゆかりが洋楽を唄っていたときはイタリア語の印象が強い。伊東はその後日本語歌謡曲に完全に転向した感があるがその後ポップス系に移った。園まりは洋楽を唄っていた時も,日本語の歌を唄っているような印象だった。日本語歌謡曲でいえば伊東は標準的,園は甘え声で唄うのが特徴か。園の歌声はメロディーが高音で休止にはいるときに特徴がある。

 

高田みづえ(2025.5.10)

 1976年,フジテレビの『君こそスターだ!』で第18代グランドチャンピオン。1977年「硝子坂」(詞:島武実,曲:宇崎竜童)でデビュー。同年,同じ作詞・作曲で「だけど・・・」,「ビードロ恋細工」と立て続けにヒット曲をだしている。他にいろんな作者の歌を唄っているが,私の独断と偏見で,桑田佳祐の作詞・作曲によりヒットしたと感じる曲を挙げておくと,1980年の「私はピアノ」,1983年の「そんなヒロシに騙されて」などがある。

 1985年,当時大関の若島津と結婚の為引退。

 

田原俊彦(2025.3.25)

 1980年,「哀愁でいと」でデビュー。唄う時の振り付けなどという範疇を遥かに超えて激しく踊りながら唄う。とてもまともに唄えるとは思えない動きだった。以後,激しいダンスを伴うアイドル歌謡が増えてきたような気がする。

 「哀愁でいと」はLeif Garrettの「New York City Nights」のカバーで日本語詞は小林和子,原曲は作詞・作曲ともにAndrew Joseph DiTaranto, Guy Hemricである。フジテレビ系ドラマ『ただいま放課後』(本田博太郎,たのきんトリオも出演している)挿入歌。

 多くの曲を発表しているが,初期の曲をいくつか挙げておく。1980年には「ハッとして!Good」(詞:宮下智,曲:宮下智),81年「悲しみ2(TOO)ヤング」(詞:網倉一也,曲:網倉一也),82年「君に薔薇薔薇・・・という感じ」(詞:三浦徳子,曲:筒美京平),「NINJIN娘」(詞:宮下智,曲:宮下智),83年「ピエロ」(詞:来生えつこ,曲:網倉一也),84年「チャールストンにはまだ早い」(詞:宮下智,曲:宮下智)などである。

 1980年,第22回日本レコード大賞・最優秀新人賞をはじめ,多くの賞を受賞している。デビュー曲から37曲連続でオリコンのトップ10入りしている。通算のオリコントップ10入りは38曲で,これは2004年にサザンオールスターズの「愛と欲望の日々/LONELY WOMAN」に抜かれるまで歴代1位の記録だった。

 

田端義夫(2025.6.4)

 1939年,ポリドールから「島の船唄」(詞:清水みのる,曲:倉若晴生)でデビュー。「大利根月夜」(詞:藤田まさと,曲:長津義司)や1940年の「別れ船」(詞:清水みのる,曲:倉若晴生)もヒットした。1941年テイチクに移籍。

戦後は1946年「かえり船」(詞:清水みのる,曲:倉若晴生),47年「ズンドコ節(街の伊達男)」(詞:佐々木栄之助,曲:能代八郎),49年「玄海ブルース」(詞:大高ひさを,曲:長津義司),50年の「玄界灘の狼」(詞:大高ひさを,曲:倉若晴生),1962年「島育ち」(詞:有川邦彦,曲:三界稔),1975年「十九の春」(沖縄民謡)など多くのヒット曲があり,映画にも多数出演している。

 子供の頃自宅にゼンマイ式の蓄音機があり,歌謡曲のレコードは「玄海ブルース」と「玄界灘の狼」だけがあったように思う。私の記憶の中では前奏は間違いなく「玄界灘の狼」なのだが,いつの間にか「玄海ブルース」に変わってしまうのでそう思っている。他には民謡のレコードと童謡のレコードがあった。

 尚,私が初めて買ったレコードは浪曲のレコードだった。

 

多摩幸子(2025.4.5)

 東邦音楽学校卒業後1958年に歌手デビュー。1961年に和田弘とマヒナスターズと共に唄った「北上夜曲」がヒットした。

この曲は1940年に水沢農学校の生徒であった菊地規が作詞,安藤睦夫が作曲した。戦後,歌声喫茶などで作者不詳の曲として唄われていたが,1961年レコード(ソノシート)が発売され,週刊誌にもとりあげられて作者が名乗り出た。日本グラモフォンから高城丈二という歌手が唄ったレコードが出たらしいが私はその歌手もレコードも知らない。その後,ダークダックス(キング),多摩幸子&和田弘とマヒナスターズ(ビクター),菅原都々子(テイチク)などの競作でレコードが作られた。但し,菅原の曲は,同じ題材だが別の歌のようだ。

「北上夜曲」の題材で映画が複数作られている。日活は『北上夜曲』(川地民夫,松原智恵子)でダークダックス盤が主題歌として使っている。この題材の歌ではダークダックス盤が当時最大のヒットとなった。同じテーマで大映は『北上川の初恋』(六本木真,高野通子),新東宝では『北上川悲歌』(田浦正巳,村田弘子)を製作,新東宝版には菅原都々子も出演してい』るようで,主題歌は確認できていないが,菅原の『北上川悲歌(エレジー)』(詞:大高ひさを,曲:陸奥明)が主題歌のように使われたのではなかろうか。

尚,最近までのレコード累計売り上げでは多摩・マヒナ盤が200万枚を超え,1位らしい。

もちろん多摩は他にも曲を出しているようだが,私は「北上夜曲」以外は知らない。

 

中尾ミエ(2025.1.15)

 1962年の「可愛いいベイビー」がレコードデビューで,かつ最大のヒット曲だろう。元歌はConnie Francisの「Pretty Little Baby」(詞:Don Stirling,日本語詞:漣健児,曲:Bill Nauman)。この歌は日本語でも20人近い歌手によってカバーされており,日本語以外でもスペイン語,スウェーデン語,台湾語,中国語などの歌詞がある。

 当時は映画俳優が五社協定に縛られ,他社の映画に出演できなかったのと同様,レコード会社は専属の作詞家・作曲家・歌手を抱え,自社完結でレコードを出していた。

ナベプロは自社の歌手の活動の場としてテレビ番組を作成し,外国曲のカバーを唄わせていた。ナベプロは渡辺音楽出版をつくり,ここにレコードの原盤権を保有し,社外の作曲家・作詞家を起用し,そのうちにナベプロの歌手もオリジナル曲を唄うようになる。この頃がその移行期だろう。

 その後,ナベプロ全盛期となる。

 

中島みゆき(2025/6/16改訂)

 1975年に「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。当時はプロモオーション・ビデオなどというものは無かったと思うが,毎日毎日ラジオのスポットCMで流されていた記憶がある。あるいは曲は「時代」だっただろうか。

 私が彼女の歌をよく聴いたのはかなり初期の頃である。かなり初期と書いてしまったが,それでも数年は聴いていた。彼女の活動時期が長いのでかなり初期という印象になったのだ。

 当時は『ふられ歌』を唄う,あるいは他人に提供するというイメージだった。『ふられ歌』だから暗い。4枚目のアルバム1978年の「愛していると云ってくれ」に収録されている「元気ですか」を(メロディーはなく,詩の朗読なのだが)夜,一人で聴いていると,心の底まで落ち込んで行く。

もともと,ときどき明るさの片鱗はみせてはいたが人物像のイメージが大きく変わったのは1979年にニッポン放送の『中島みゆきのオールナイトニッポン』に出演するようになってからかも知れない。

 『愛が好きです』1)に収録されている『魔女の辞典』の「荒井由実」の項に,「職業にかかわらず,アミタイツをはいて何が悪いか,という開き直りを身をもって証明した女流画家」と記載するなど,彼女の人柄が想像できる。

 ヒット曲を何曲か挙げておこう。特に記載がないものは彼女自身の作詞・作曲・歌唱である。

 1975年「時代」,1977年「わかれうた」,1978年「おもいで河」,1981年「悪女」,1994年「ファイト」,1998年「糸」,2000年「地上の星」など多数のヒット曲がある。

 他の歌手に提供した歌も多数ある。1976年「あばよ」(唄:研ナオコ),1978年の「この空を飛べたら」(唄:加藤登紀子),1988年「FU-JI-TSU」(唄:工藤静香),「MUGO・ん…色っぽい」(唄:工藤静香)などである。

1983年の「春なのに」(唄:柏原芳恵)は第25回日本レコード大賞金賞w受賞した。2006年の「宙船(そらふね)」(唄:TOKIO)では第48回日本レコード大賞作詞賞を受賞している。

 2009年に紫綬褒章を受章したが,その時のコメントで「ふつう,何かをいただけそうな場合には2度くらいは辞退して,それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが,褒章となりますと『ふつう』ではないことですので,事態などしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして,即座に『いただきます』と,お返事してしまいました」と中島らしさを感じる。

 ところで,中島の声も歌唱も個性的ではあるが,特徴ある声・歌唱に分類するほどではないかと思う。

1) 「愛が好きです」(中島みゆき,新潮文庫,1982年)

 

中村晃子(2025.5.25)

 1964年に松竹と契約した女優。当然多くの映画に出演しているらしいが私は知らない。私の印象では吉永小百合レベルのスターではなかったようなので,唄う映画スターには入れなかった。

 1965年に「青い落葉」(詞:横井弘,曲:小川寛興)でレコードデビュー。1967年の「虹色の湖」(詞:横井弘,曲:小川寛興)が最大のヒット曲である。

 1968年の「砂の十字架」(詞:横井弘,曲:小川寛興)もそれなりにヒット。このようなGS調の歌は『ひとりGS』と呼ばれたりもした。

 その後もそれなりのヒット曲はあるようだが,私の興味は別の歌手に移っていた。もちろん、本職?の映画やドラマの出演は多数ある。

 

野口五郎(2024.10.10)

 野口五郎は1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューしたが,全く売れなか・った。2曲目はアイドル路線に変更して「青いリンゴ」を出し世の中に認知された。しばらくアイドル路線を続けたが,1974年,山上路夫作詞の「甘い生活」からやや演歌っぽくなったと感じる。多くの作詞家の詞を唄っているが,「私鉄沿線」「女友達」など山上の詞が野口の歌唱力を最も生かしていると私は思う。

 男性アイドルのさきがけがこの新御三家だという説もある。私はフォーリーブスあたりだと思うが,実際の所,当時はまだだれもアイドルとは呼ばれていなかったように思う。

 

橋幸夫(2024.9.5)

 橋幸夫は1960年の「潮来笠」でデビュー。これは第2回レコード大賞新人賞を受賞している。60年の「おけさ唄えば」,「喧嘩富士」,「木曽節三度笠」,61年の「磯ぶし源太」まで,全て同タイトルの大映映画の主題歌だ。映画とのタイアップで新人歌手を売り出したのだろう。これが橋と言えば股旅ものという印象になった。60年の「あれが岬の灯だ」だけが映画の主題歌ではない。61年には10曲,62年には12曲,その後も多数のレコードを出している。B面曲も含めればこの倍ということだが。

 強く私に印象を残した歌と言えば61年の「南海の美少年」,62年の「江梨子」,63年の「白い制服」,64年の「恋をするなら」などであるが,それ以外にも多くのヒット曲がある。ビクターの歌手だったので曲のほとんどが佐伯孝夫の作詞,吉田正の作曲だ。1961年の「いつでも夢を」は吉永小百合とのデュエットで,第4回レコード大賞を受賞している。1965年の「霧氷」(宮川哲夫作詞)は珍しく佐伯以外が作詞で第8回日本レコード大賞を受賞した。

 橋の大ヒットは次第に減っていくが,1971年に出した115枚目のシングル,小池一雄作詞の「子連れ狼」は久々の大ヒットだ。

 レコード会社は橋を股旅もの主体のやや古風な歌手として売り出したかったのだろうが,私は現代を歌った歌の方が好きだ。

 

平尾昌章(2024.12.25)

 デビュー曲は1958年の「リトル・ダーリン」。これはそれほど売れなかったようだが,次の「監獄ロック」(Elvis Presleyの主演映画「監獄ロック」の主題歌)がヒット。ロカビリー三人男の一人と呼ばれるようになる。ポール・アンカの「ダイアナ」やニール・セダカの「恋の片道切符」なども唄っている。

 この頃,芸名を本名の平尾昌晃に戻し,歌謡曲に転向。1958年には「星は何でも知っている」(詞:水島哲,曲:津々美洋),1960年には「ミヨチャン」(作者不詳)が大ヒット。

 1965年頃から作曲家としての活動が増え,布施明の「霧の摩周湖」,「恋」,じゅんとネネの「愛するってこわい」,梓みちよの「渚のセニョリーナ」などのヒット曲を出した。

 1971年には五木ひろしの「よこはま・たそがれ」,小柳ルミ子の「私の城下町」がヒット。72年には小柳の「瀬戸の花嫁」,73年には五木の「夜空」など。

 1974年には平尾昌晃音楽学校を創立。1978年には生徒の畑中葉子とデュエットした「カナダからの手紙」がヒットした。

 作曲者として多数の作品があるが,ごく一部を挙げると,アグネス・チャンの「草原の輝き」,「星に願いを」,梓みちよの「二人でお酒を」,アン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」,伊東ゆかりの「恋のしずく」,小柳ルミ子には先に挙げた曲以外にも多数の曲を書いている。他にも中条きよしの「うそ」,「理由」,西崎みどりの「旅愁」,山口百恵の「赤い絆(レッド・センセーション)」等々,一大ヒットメーカーだ。

 

平尾昌晃→平尾昌章

 

ヒロシ釜萢(2025.5.30)

 1959年に釜萢ヒロシの名で東宝映画に出演したのが芸能界デビューのようだが,私は知らない。1960年に「殺し屋のテーマ」でテイチクからレコードデビューしたらしいが,これも私は知らない。

 1960年には「おおキャロル」,「恋の片道切符」,「悲しいインディアン」,「悲しき16才」,「月影のナポリ」,「赤鼻のトナカイ」などのレコードを出しており61年には「遥かなるアラモ」,「恋の記者ポッポ」,「GIブルース」等々,多くのレコードを出している。ここで上げた曲は私が知っている曲の一部だが,ヒロシ釜萢の唄は記憶にない。当時は(恐らく)米国でヒットした曲の邦訳を多数の歌手が競作でレコードを出しており,私が聴いたのは他の歌手が唄ったものか,場合によっては原曲だった。当時は映画でも音楽でも外国作品にはほぼ全てに邦題が付けられていた。

 グループ・サウンズのザ・スパイダースは1961年の結成で,釜萢もゲストシンガーとして一緒に活動していたが,1963年に釜萢はザ・スパイダースの正式メンバーとなる。当時のステージネームはかまやつひろしと名乗っていた。

 ザ・スパイダースは19965年にかまやつが作詞・作曲した「フリフリ」でクラウンからデビュー。その後もかまやつはザ・スパイダースの曲「あの時君は若かった」,「いつまでもどこまでも」,「バン・バン・バン」ほか多くの曲を作曲している。

 1970年以降はソロで唄っているが,1975年の「我が良き友よ」(詞:吉田拓郎,曲:吉田拓郎)が最大のヒット曲だろう。

 他の歌手にも多くの曲を提供しており,本人の映画・テレビドラマなどの出演も多数ある。

 私がかまやつを知ったのはザ・スパイダースの時代だが,当時のかまやつの愛称はムッシュだった。1989年以降は正式名としてムッシュかまやつを名乗っている。

 

藤圭子(2025.6.8)

 1969年,「新宿の女」(詞:石坂まさを,曲:石坂まさを)でデビュー。その後のヒット曲は1970年「女のブルース」(詞:石坂まさを,曲:猪俣公章),「圭子の夢は夜ひらく」(詞:石坂まさを,曲:曽根幸明),そのB面の「東京流れもの」(詞:石坂まさを,曲:不詳),「命預けます」(詞:石坂まさを,曲:石坂まさを)などがヒットした。第1回日本歌謡大賞大賞,第12回日本レコード大賞大衆賞,第3回日本レコードセールス大賞,第3回日本有線大賞優秀スター賞を受賞。

 五木寛之が彼女の歌を本物の「怨歌」だと絶賛した。当時,「艶歌」「援歌」などの言葉があったが,この後の昭和時代には「演歌」という言葉で藤圭子の1970年の歌のような歌ということになった。「演歌」で「演説歌」を表す用法は歴史的用法として残っている。

 「演歌の星」というのは1970年のファースト・アルバム「新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて」からとったものだ。

 演歌歌手は多数いるが,「演歌」という言葉の昭和末期の意味を決定した藤は「演歌の星」という称号がふさわしい。彼女以外以前の演歌(例えば都はるみ)は,振り返ってみればあれも演歌だったということだ。

 藤は「暗さ」で売り出したのだが,どうも本人は明るい性格だったように感じる。売り出し法に無理があったのか,71年からは彼女の歌から感じられる「怨念」が弱くなったように思う。私が慣れたからかもしれない。

 1971年の「さいはての女」(詞:石坂まさを,曲:彩木雅夫),「京都から博多まで」(詞:阿久悠,曲:猪俣公章)は印象に残っているが,他にも多数出した曲は私の記憶から消えてしまった。

 

藤山一郎(2024.9.25)

 藤山一郎は東京音楽学校を主席で卒業している。在学中に校則の網を破り,1931年「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」と古賀政男作曲の歌を唄いヒットする。

「酒は涙か溜息か」などはコロムビアから発売されていたが,藤山は1033年学校卒業後にビクターに入社,クラシック・民謡・歌謡曲など各種唄っているようだ。1936年にテイチクへ移籍,36年の「東京ラプソディ」「男の純情」, 37年の「青い背広で」「青春日記」なども全てコロムビアからテイチクに先に移籍していた古賀政男の作曲である。テイチクでは多くの歌謡曲を唄っており,戦時中は「愛国行進曲」などの戦意高揚のための歌も多数唄っている。

 1939年,古賀政男と共にコロムビアへ移籍。

戦後も1949年「長崎の鐘」(曲:古関裕而),「青い山脈」(曲:服部良一。奈良光枝とのデュエット)などのヒット曲がある。

1954年にNHKの嘱託になる。1956年には三代目の「ラジオ体操の歌」(詞:藤浦洸)の作曲をしている。この歌は58年に藤山自身が吹き込んだレコードが日本コロムビアから発売されている。

私は懐メロ番組に登場した藤山を何度も観ているが,強く印象に残っているのはNHKの紅白歌合戦の最後に「蛍の光」の指揮をする藤山の姿だ。

 1972年,東海林太郎の跡を継ぎ日本歌手協会会長に就任。同協会はそれまで任意団体だったが,藤山時代の75年に社団法人となった。

 1992年国民栄誉賞受賞。

 

布施明(2025.5.15)

 1965年「君に涙とほほえみを」(詞:M.Rapetti,訳:安井かずみ,曲:Marchetti, R.Satti)でデビュー。同年に発表した他の曲も含め,ヒットしたという記憶はないが,1966年の「おもいで」(詞:水島哲,曲:平尾昌晃)や「霧の摩周湖」(詞:水島哲,曲:平尾昌晃)はかなりのヒットだった。67年には「恋」(詞:平尾昌晃,補作詞:水島哲,曲:平尾昌晃),68年の「愛の園」(詞:山上路夫,曲:平尾昌晃)などのヒット曲がある。

 その後もそこそこヒットした曲はあるが,私はあまり聴かなかった。次に印象に残った曲は1974年の「積み木の部屋」(詞:有馬三恵子,曲:川口真)である。75年には「シクラメンのかほり」(詞:小椋佳,曲:小椋佳),「傾いた道しるべ」(詞:小椋佳,曲:小椋佳)がヒットし,前者で第17回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞した。

 1976年には「落ち葉が雪に」(詞:布施明,曲:布施明)をだし,以後,積極的に自身で作詞・作曲した曲を唄うようになる。その意味ではシンガー・ソング・ライターだが,私がよく聴いた時代はシンガー専門だったのでシンガー・ソング・ライターには入れなかった。

 また,布施はこの時代の歌手としては声量がある。マイクに齧りつくように唄う唄い手もいる中で,マイクロホンが無くても歌を聴かせることができる歌手の一人だ。

 

舟木一夫(2024.10.15)

舟木一夫は1963年「高校三年生」(詞:丘灯至夫)でのデビュー。同年には「修学旅行」(詞:丘灯至夫),「学園広場」(詞:関沢新一),「仲間たち」(詞:西沢爽)を出し学園ソングというジャンルができるほど,舟木の人気も高かった。64年の「あゝ青春の胸の血は」(詞:西沢爽)も当時は好きな歌だった。以上は全て遠藤実の作曲である。しかし何10年も経って,高校の同窓会でよく唄われるのは「高校三年生」だけだ。この歌はリアルタイムで聴いた世代には強く印象に残っている名曲だ。

1964年以降は遠藤実以外の曲もかなり唄っているが,64年の「君たちがいて僕がいた」(詞:丘灯至夫),「まだ見ぬ君を恋うる歌」(詞:丘灯至夫),「花咲く乙女たち」(詞:西條八十),「右衛門七討入」(詞:西沢爽)など私が関心を持って聞いた曲は全て遠藤実の作曲だ。(64年に舟木は15枚のレコード,AB面で30曲の新曲を出している。)

1966年にはフジテレビの『銭形平次』(大川橋蔵)の主題歌「銭形平次」(詞:関沢新一,曲:安藤実親)を唄っている。この年,「絶唱」(詞:西條八十,曲;市川昭介)で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

66年の「絶唱」,67年の「夕笛」(詞:西條八十,曲:船村徹), 71年の「初恋」(詞:島崎藤村,曲:若松甲)のような文学作品をモチーフとした曲も唄っている。

一方,1999年には「燃えよドラゴンズ!’99」も唄っている。登場する選手を全て掲げることは冗長過ぎるのでやめるが,立浪和義,山崎武司,山本昌,川上憲伸,岩瀬仁紀などだ。もう少し追加すると福留孝介,関川浩一,レオ・ゴメス,井上一樹,中村武志。まあ書き漏らした選手には申し訳ないが,時代が解っていただければそれでいい。

 

松任谷由実→荒井由実

 

黛ジュン(2025.4.10)

 1964年渡辺順子(本名は渡邊順子)の名でデビューしたが売れず。1967年に石原プロモーションに移籍。黛ジュンと改名し,東芝音楽工業から「恋のハレルヤ」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦)で再デビュー。

 再デビュー後間もない時期の曲をいくつか挙げると,1967年「霧のかなたに」(詞:なかにし礼,曲:中島安敏),68年「乙女の祈り」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦),「天使の誘惑」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦),「夕月」(詞:なかにし礼,曲:三木たかし),69年「不思議な太陽」(詞:なかにし礼,曲:三木たかし),「涙でいいの」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦),「土曜の夜何かが起きる」(詞:なかにし礼,曲:鈴木邦彦)などである。

 「天使の誘惑」は第10回レコード大賞を受賞している。

 また,当時流行していたグループ・サウンズ(GS)風の曲(例えば「乙女の祈り」や「霧のかなたに」など)を唄い,『ひとりGS』と呼ばれたこともあった。

 

水原弘(2025.3.10)

 1959年,東芝レコードから「黒い花びら」(詞:永六輔,曲:中村八大)でデビュー。この曲で第1回日本レコード大賞受賞。新人でレコード大賞を受賞したのは最初で最後。

 黒いシリーズとして59年に「黒い落葉」(詞:永六輔,曲:中村八大),60年に「黒い貝殻」(詞:永六輔,曲:中村八大)を出しているが最初の歌ほどヒットしなかった。

 その後もレコードを出すがあまりヒットせず,代わりに映画出演での人気が出る。

その後は酒浸りやギャンブル等により一時芸能界から消えるが1967年「君こそわが命」(詞:川内康範,曲:猪俣公章)でカムバック,第9回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

1970年には「へんな女」(詞:浜口庫之助,曲:小谷充)がヒット。これはコミカル・ソングで私には水原弘の歌というより浜口庫之助作の歌という印象が強い。

 

美空ひばり(2024.9.10)

 歌謡界の女王・美空ひばりは1945年,8歳でデビュー。家族(母親?)が設立した「青空楽団」の所属で既存の歌を唄っていたが,「子供らしくない」「非教育的だ」「大人の真似をするゲテモノ」などの批判も受けていた。まずは映画出演し,映画の中で歌を披露していた。正式レコードデビューは11歳のとき,1949年の「河童ブギウギ」である。これは松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌だ。50年には松竹映画「悲しき口笛」に初主演,同名の主題歌レコードは当時の史上最高の売り上げだった。

 ヒット曲は山ほどある。ほんの少し例を挙げれば,1949年「悲しき口笛」(詞:藤浦洸,曲:万城目正),50年「東京キッド」(詞:藤浦洸,万城目正), 52年「リンゴ追分」(詞:小沢不二夫,曲:米山正夫),56年「波止場だよ,お父つぁん」(詞:西沢爽,曲:船村徹),57年「港町十三番地」(詞:石本美由起,曲:上原げんと),64年の「柔」(詞:関沢新一,詞:古賀政男)(第7回レコード大賞受賞),66年「悲しい酒」(詞:石本美由起,曲;古賀政男),67年「真っ赤な太陽」(詞:吉岡治,曲:原信夫),87年「みだれ髪」(詞:星野哲郎,曲:船村徹、),89年「川の流れのように」(詞:秋元康,曲:見岳章)(第31回日本レコード大賞特別栄誉歌手賞受賞)などがある。一見してわかるのは多くの作詞家・作曲家が彼女に歌を提供していることだ。いろんな歌を唄わせることができると作詞家・作曲家に思わせたのだろう。

 「むらさきの夜明け」(1968年,詞:吉岡治,曲:原信夫)などはGS調なので『ひとりGS』などと呼ばれることもある。

 長期間活動しているので当初と後では唄い方が変わってきた曲もあるようだ。後になってからの「悲しい酒」等,さすがの私も各音を伸ばし過ぎだろうと思うほどだ。

 多くのヒット曲がある中でも「港町十三番地」で「あぁ〜あぁ〜 港町 十三番地」と唄う時の「あぁ〜あぁ〜」などがひばりの声の魅力を最大にだしていると私は感じる。

1989年(没後)国民栄誉賞を受賞。

 

ミッキー・カーチス(2025.1.30)

 ロカビリー歌手といってもどんな歌を唄っていたのか私は知らない。

 1959年,フジテレビの『ザ・ヒットパレード』の初代司会者となる。この番組は当時開局間もなかったフジテレビの資金不足を補うため,製作費を渡辺プロダクションが肩代わりしていたそうだ。当然出演タレントはナベプロ所属のタレントだ。尚,ミッキー・カーチス自身は植木等と共にナベプロ最古参のタレント。

 多才で多くの分野で活躍。ドラマ・映画にも多数出演。五十嵐信次郎という名を使ったこともある。他にも作詞家として川路美樹,レーサーとしてブライアン・カーチス,落語家としてミッキー亭カーチス,華道家として加千須岩水などという名も使っている。

 

南沙織(2024.12.10)

 1971年,「17才」(詞:有馬三恵子,曲;筒美京平)でデビュー。以後71年の「潮風のメロディ」,72年の「ともだち」,「純潔」,「哀愁のぺージ」,73年の「早春の港」,「傷つく世代」,「色づく街」,「ひとかけらの純情」これらすべてが有馬・筒美による歌だ。

 1975年の「人恋しくて」(詞:中里綴,曲:田山雅充)までに出したレコードで有馬・筒美コンビ以外の曲は1973年の「カリフォルニアの青い空」(詞:A.Hammond,曲:M.Hazlewood)だけだ。

尚,1971年には第13回レコード大賞新人賞を受賞,「人恋しくて」は第17回レコード大賞歌唱賞を受賞している。

 

三波春夫(2025.5.20)

 南條文若という名の浪曲師だったが1957年に三波春夫と改名して歌手デビュー。デビュー曲は「メノコ船頭さん」らしいが,私は知らない。このレコードと同時発売になった2枚目のレコードが「チャンチキおけさ」(詞:門井八郎,曲:長津義司)/「船方さんよ」(詞:門井八郎,曲:春川一夫)で両面とも大ヒットとなった。

1957年の「雪の渡り鳥」(詞:清水みのる,曲:陸奥明)や1959年の「大利根無情」(詞:猪俣良,曲:長津義司)もヒットしている。

1963年の「東京五輪音頭」(詞:宮田隆,曲:古賀政男),1967年の「世界の国からこんにちは」(詞:島田陽子,曲:中村八大)など,ヒット曲の数が多いとは言えないかもしれないが,これら五輪や万博の歌は各社競作のなかでも大ヒットしている。

 他にも1964年の「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」(詞:北村桃司,曲:長津義司)のように歌謡浪曲というジャンルの曲も多も出している。歌謡浪曲では自身も作詞し,作詞などのときには北村桃児というペンネームを使っている。

 

三橋美智也(2024.9.15)

 三橋美智也は1935年,5歳にして初舞台。12歳で民謡のレコードを出す。1954年にキング専属となり「酒の苦さよ」でデビュー。私はこのデビュー曲は知らないが,55年の「おんな船頭唄」(詞:藤間哲郎,曲:山口俊郎)はよく知っている。1955年「あゝ新撰組」(詞:横井弘,曲:中野忠晴),「ご機嫌さんよ達者かね」(詞:高野公男,曲:船村徹),「あの娘が泣いてる波止場」(詞:高野公男,曲:船村徹), 56年「リンゴ村から」(詞:矢野亮,曲:林伊佐緒),「哀愁列車」(詞:横井弘,曲:鎌多俊与), 57年「俺ら炭鉱夫」(詞:横井弘,曲:鎌多俊与), 58年「夕焼けとんび」(詞:矢野亮,曲:吉田矢健治),「赤い夕陽の故郷」(詞:横井弘,曲:中野忠晴), 59年「古城」(詞:高橋掬太郎,曲:細川潤一), 60年「達者でな」(詞:横井弘,曲:中野忠晴),「怪傑ハリマオの歌」(詞:加藤省吾,曲:小川寛興),1962年「星屑の町」(詞:東条寿三郎,曲:安部芳明),「石狩川悲歌」(詞:高橋掬太郎,曲:江口浩司)など多数のヒットした歌謡曲があるほか,民謡のヒット曲も多い。いずれもよく伸びる高音に特徴がある。昭和30年代の大ヒットメーカーだ。

 1976年には「民謡三橋流」を創設した。千昌夫・細川たかし・石川さゆりはその門下だ。

 

宮城まり子(2025.2.15)

 小学校卒業と同時に吉本興業に入る。1944年,17歳のとき大阪花月劇場で初舞台。

 1950¸「やまなしブギ」でテイチクからレコード・デビュー。この歌を私は知らない。

 ポリドールを経てビクターに移籍し,1953年の「毒消しゃいらんかね」(詞:三木鶏郎,曲:三木鶏郎),1955年の「ガード下の靴みがき」(詞:宮川哲夫,曲:利根一郎)が大ヒット。他にもヒット曲はあるらしいが,当時の私は幼かったし,彼女はその後歌手活動を止めたので懐メロ番組等でも観た記憶がない。

 1968年,社会福祉施設『ねむの木学園』を設立。以後,タレント活動は休止(事実上の引退)し,福祉事業家として活動した。

 「ガード下の靴みがき」に登場するセリフ「エ お父さん? 死んじゃったお母さん 病気なんだ」は私の子供心に強い印象を残した。

 

都はるみ(2025.4.25)

 1964年「困るのことヨ」(詞:西沢爽,曲:遠藤実)でデビュー。同年「アンコ椿は恋の花」(詞:星野哲郎,曲:市川昭介)がヒット,第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。『はるみ節』と呼ばれた力強い歌声は聴けばすぐわかる。

 現時点で考えると,詞の内容や歌唱時の『こぶし』など,演歌以外の何物でもないと言えそうだが、当時は単に『歌謡曲』あるいは『日本調歌謡曲』と呼ばれていたと思う。『演歌』という言葉もあったが,私にとってそれは『演説歌』のことであり,川上音二郎の『オッペケペ節』や添田唖蝉坊の「しのゝめ節」などを想起した。現時点では演歌であり,スターでもあったので演歌スターにも居れておこう。

 都はるみのヒット曲のいくつかを挙げておこう。1965年「涙の連絡船」(詞:関沢新一,曲:市川昭介),66年「さよなら列車」(詞:関沢新一,曲:市川昭介),68年「好きになった人」(詞:白鳥朝詠,曲:市川昭介),1975年「北の宿から」(詞:阿久悠,曲:小林亜星),1980年「大阪しぐれ」(詞:吉岡治,曲:市川昭介),1984年「夫婦坂」(詞:星野哲郎,曲:市川昭介)などである。他にも岡千秋とデュエットした「浪花恋しぐれ」(詞:たかたかし,曲:岡千秋)もヒットした。

 尚,「北の宿から」で第18回日本レコード大賞,「大阪しぐれ」で第22回レコー大賞最優秀歌唱賞を受賞している。

 

ムッシュかまやつ→ヒロシ釜萢

 

森昌子(2024.10.31)

 森昌子は1971年の「スター誕生!」で初代グランドチャンピオンになる。1972年「せんせい」(詞:阿久悠,曲:遠藤実)でデビュー。72年の「同級生」,73年の「中学三年生・」「夕顔の雨」「白樺日記」など全て阿久・遠藤による歌だ。74年の「記念樹」は阿久悠の詞に森田公一の曲だ。

 1974年の「おかあさん」(詞:神坂薫,曲:遠藤実)や75年の「春のめざめ:や「面影の君」(いずれも詞:阿久悠,曲:平尾昌晃)あたりからやや歌の雰囲気が変わったように思う。

 1977年の「なみだの桟橋」(詞:杉紀彦,曲:市川昭介)以降は演歌歌手と言って良いほどだ。1981年の「哀しみ本線日本海」(詞:荒木とよひさ,曲:浜圭介),82年の「立待岬」(詞:吉田旺,曲;浜圭介),83年の「越冬つばめ」(詞:石原信一,曲:篠原義彦)など演歌の中央を歩んでいる。歌の好き好きもあるが三人の中では一番上手く感じる。

 

山口百恵(2024.8.30)

山口百恵は1972年の「スター誕生!」第5回決戦大会で準優勝。1973年の松竹映画「としごろ」(和田アキ子,森昌子,石川さゆり,山口百恵)に出演したのが芸能界デビューだ。この映画では和田アキ子,堺正章,西城秀樹らの歌が挿入歌として使われ,森昌子の「中学三年生」と「せんせい」も使われているが山口百恵の歌は使われていない。山口の歌手デビューはこの映画よりほぼ1月遅れで1973年の「としごろ」がデビュー曲だ。このデビュー曲はそれほど売れなかったため,次の曲からは「青い果実」,「禁じられた遊び」,「春風のいたずら」,「ひと夏の経験」と背伸びした女の子という青い性路線で千家和也の詞を唄ってヒットした。

山口百恵は「伊豆の踊子」や「潮騒」などの過去の名作がある文芸作品映画のリメイクに出演するほか,テレビドラマでも1974年の「赤い迷路」,75年の「赤い疑惑」,76年の「赤い運命」・「赤い衝撃」,77年の「赤い激流」・「赤い絆」という赤いシリーズへの出演などで人気爆発と言って良いだろう。

山口は阿木燿子の詞を唄うようになって唄声が変わり大人に変貌した。1976年「横須賀ストーリー」,77年「イミテーション・ゴールド」, 78年「プレイバックPart 2」などだ。

その後も阿木の詞を多数唄っているが阿木の詞は強い女を歌ったものが多い,私は77年のさだまさしの詞による「秋桜」や78年の谷村新司の詞による「いい日旅立ち」のほうが好きだ。

1980年に山口が三浦友和との結婚で寿退職するまで,阿木は数多くの詞を山口に提供している。人気絶頂期で芸能界を引退したからということもあるだろうが,山口百恵は偉大な昭和歌手の一人と言って良いだろう。

 

山下敬二郎(2025.2.10)

1958年にエンゼルレコード(東芝)の専属歌手第1号として「ダイアナ」を出したらしいのだが,私は知らない。私が彼について知っていることは柳家金語楼の息子ということくらいだ。

 柳家金語楼はその名前から解るように元は落語家だ。戦前は主に吉本興業(東京吉本)に所属し,エノケン・ロッパと共に三大喜劇人として知られていたらしい。

 私が子供の頃,ラジオ・テレビの寄席番組は珍しくなかった。落語・漫才・漫談・声帯模写・浪曲・講談などの番組だ。しかし金語楼の落語をラジオで一所懸命に聞いた記憶もない。私が記憶にあるのはNHKテレビの「ジェスチャー」だ。テレビ草創期のクイズ番組で,解答者としての芸人というような立場だった。ところで,最近(50年以上前からかもしれない)どんな「芸」を持っているのか判らない「芸人」がいるように感じる。昔「芸人」という言葉があったかどうか知らないが,金語楼などは少なくとも落語という芸を持っていた。

 

雪村いづみ(2024.11.25)

 1953年,「想い出のワルツ」でデビュー,一躍スターとなる。その後も「青いカナリヤ」「オウ・マイ・パパ」「はるかなる山の呼び声」「マンボ・イタリアノ」「チャチャチャは素晴らしい」などをヒットさせた。これらは外国曲のカバーであり,当時は日本調歌謡以外は外国曲が唄われることが多かった。和製ポップスは稀だったように思う。カバー曲なので同一曲を何人もが唄った。「チャチャチャは素晴らしい」は江利チエミの項にも書いた。当時の私は幼く,誰が唄った曲かまでは把握していなかった。誰の歌がヒットしたのか知らないが,雪村いづみも「オンリー・ユー」「エデンの東」「ケ・セラ・セラ」「ラブ・ミー・テンダー」「ビバップ・ルーラ」「愛の休日」「マイウェイ」等々,多くの有名曲のレコードを出しているようだ。多くの映画にも出演している。

 1959年に渡米,1970年帰国。この間私は雪村のことを全く知らない

 

若原一郎(2024.11.20)

 1954年「吹けば飛ぶよな」(詞:東條寿三郎,曲:渡久地正信)がヒット。その後のヒット曲でも私の記憶にあるのは1955年の「ハンドル人生」(詞:高野公男,曲:船村徹)や1958年の「おーい中村君」(詞:矢野亮,曲:中野忠晴)くらいだ。「おーい中村君」は小学生の間でも大流行だった。

 

和田弘とマヒナスターズ(2025.4.15)

 スチールギター奏者の和田弘をリーダーとするハワイアン・バンド。ハワイアンだけでなく,ムード歌謡で人気があった。

 1954年,和田弘,三島敏夫,松平直樹,日高利昭の4名でスタート。55年には佐々木敢一が参加。

1958年には山田競生,三原さと志が参加,7名グループとなる。1967年には山田が退団,70年には松平が退団する。80年代にもメンバーの変動があるがそのころのことは知らない。

 ビクターからレコードを出していたが,1967年に東芝音楽工業へと移る。私が知

ねっているほとんどの歌はビクター時代の歌だ。初期には既存レコードのカバーを唄っていたが,1958年,オリジナル曲第1弾の「泣かないで」(詞:井田誠一,曲:吉田正)がヒット。その後,ソロ歌手とのコラボでヒット曲を出す。以下に何曲か挙げておく。

 1959年松尾和子と共に「グッド・ナイト」(詞:佐伯孝雄,曲,吉田正),同じく松尾和子と共に「誰よりも君を愛す」(詞:川内康範,曲:吉田正)。後者は第2回レコード大賞を受賞した。1961年多摩幸子と共に「北上夜曲」(詞:菊地規,曲:安藤睦夫),62年には吉永小百合とともに「寒い朝」(詞:佐伯孝夫,曲:吉田正)を出している。これは石坂洋二郎の「寒い朝」を原作とした日活映画『赤い蕾と白い花』(吉永小百合,浜田光夫)の主題歌として使われた。1963年には三沢あけみと共に「ふられ上手にほれ上手」(詞:木腑大次郎,曲:渡久地政信),同じく三沢と共に「島のブルース」(詞:吉川静夫,曲:渡久地政信),64年には松尾和子と共に「お座敷小唄」(詞:不詳,曲:陸奥明),65年には田代美代子と共に「愛して愛して愛しちゃったのよ」(詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助)などがある。

 もちろん,ソロ歌手とのコラボでない曲もある。1960年「お百度こいさん」(詞:喜志邦三,曲:渡久地政信), 64年には「ウナ・セラ・ディ東京」(詞:岩谷時子,曲:宮川泰),65年には「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー(雨の夜の東京)」(詞:鈴木道明,曲:鈴木道明),「涙くんさよなら」(詞:浜口庫之助,曲:浜口庫之助)などである。尚,「ウナセラディ東京」はザ・ピーナッツ,西田佐知子,坂本スミ子との競作,「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」は越路吹雪,西田佐知子との競作,「涙くんさよなら」はジョニー・ティロットソン,坂本九,ジャニーズとの競作である。

 

その他

 

野村義男(2025.4.30)

 Wikipediaなどによれば,芸能界での活動歴は多数あるようだが,歌手としての野村は私の記憶にない。ギターに凝っているという話は聞いたことがあるが演奏を直接聴いたこともない。「たのきんトリオ」のひとりということでとりあげたが,私の認識では歌手ではない。

 

 

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