近頃会社も役所も週休二日制が定着し、さらに祭日や有給休暇、盆正月の休みなどを加えると結構な自由時間がある。しかし休みがあってもお金(小遣い)がないから遊べないという声を聞くことが多い。ゴルフ、パチンコ、旅行、グルメ、ショッピングなどは確かにお金が必要だろう。しかし精神的な遊びができる感性があれば、お金をかけなくても工夫次第でいくらでも遊べる。愚痴を言う人は遊びを消費だと勘違いしているからであろう。

 不幸中の幸いという表現は妥当ではないかもしれないが、御池杣人さんは精神世界の遊びの達人である。入院と言う制限された生活の中でも退屈を感じることなく、色々と有意義な時間を送っておられるようである。「入院準備のメインは僕の場合どんな本を持っていくかだ。」という言葉によく表現されている。他にも窓の外の風景から日の出日の入りの移動、紅葉の様子、山座同定、電車など様々な観察の種を見つけて楽しんでいるご様子。趣味や好奇心のない人から見れば有意義な時間であり、その間だけでも気鬱なことも忘れられるだろう。

 本を読む目、バッハを聞く耳、意見や愚痴を言える口、文章を書ける手、ちょっと跳んでみる足がちゃんと機能していることも感謝の気持ちが持てるだろう。五体満足で健康な私が(ややおつむに難あり?)が言うのも僭越であるが、やりたくても障害でこの当たり前のことができない人も世の中にはたくさんいる。そんな野暮なことを書かなくても

うれしいな  生きている

本が読めて  字が書けて

うれしいな  生きている

という引用がある。

 

この入院記は自由律の句とその補足で構成されるユニークなものである。

抗ガン剤投入中落語読む

これは意表をついた取り合わせ。御池杣人さんの面目躍如。

雨を視る笑いたくない日は

これは分かる。漠然とした不安におそわれて何もしたくないときもあるわいな。
無理に有意義に過ごそうと思わず、放心するときもあってよい。

点滴引きずって病棟一周四一〇歩

山登りを趣味とする人は定期的に体を動かしたくなる。足を動かすと脳の活性化にもなる。

過剰依存されていない愛のありがたさ 

ユーモラスな句。
家康に過ぎたるものが二つあり云々・・・。三成や光秀にも使われる。杣人さんに過ぎたるものは奥方か。
通常の人は入院するとたちまち経済的困窮に陥る。それを心配しなくてもいいだけ有り難いことだろう。

ぎりぎりの攻防か先は読めぬ

いかに呑気な私でも、葉書で将棋を指すなどという大陸的悠久の遊びがあるとは知らなんだ。
できうれば勝負がつく前に全快していただきたいもの。
そういえば氏の相聞に「ぎりぎりです・・・」というけったいな歌があったような。

今日一日を楽しく生きよう
それを丁寧に積み重ねていけばいいじゃないか

素直に励まされる。丁寧な積み重ね。わかってはいる。だけどなかなかこれが難しい。

これは句ではなく引用である。世に格言は数多あり。それらが時を越えて語り継がれるのは分かっていても実行ができない証拠でもある。積み重ねで思い出したが、私はいま等高線のパーツを丁寧に細心の注意を払って積み重ねている。等高線の書き写しや切抜きは辛く根気の要る作業だが、そうして作ったパーツを積み重ね、徐々に山の姿が現れてくるのは何ものにも替え難い喜び。春夏秋冬歩いたあの尾根、あの谷、あのピーク。模型作りも人生の縮図であったか。

さて最後に右肺に関する正体が分からぬ不安な記述があったが、それが重大なことに至らぬよう願うばかりである。
祈るしか手段のない無力がもどかしいが、きっと福寿草の咲く山を一緒に歩きましょうぞ。

                                 葉里麻呂

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