ちょっと跳んでみる−入退院記(その4)

 

                        御池杣人

 

 

                (一)

 

 十月からまた入院治療とあいなった。二月からの三ケ月三クールにわたる入院・治療の結果、五月には左胸の影が三センチが七ミリ、右胸一センチが消失、というところまで奏効した。八・九月は職場に復帰して、後期から働けることを楽しみにしていた。ところが、八月末のCT検査の結果、右胸は消失したままだったけれど、左胸の影は一センチに大きくなっていた。一〇月から違う薬を使って、最低二クールが必要と診断された。

 落ち込む。

 職場にはその旨を話し、迷惑をかけることになるけれど、ありがたく対応してもらう。

学生諸君にも「卒論などみられなくなるけれど許して」と語る。入院前にゼミで卒論検討会は開催したけれど、しかし、全面的にはみられなくなる。やむをえないが、落ち込む。

 しかし、どうせ入院するならば、それに耐えうるパワーを山行きで養っておこうとも思う。山の仲間にその旨語れば、九月九日の「やぶこぎネットオフ会」に、いっしょに歩きませんかと同人都津茶女からの申し出。ゆっくり「鈴鹿の上高地」まで沢歩きしながら行くことに。葉里麻呂、都津茶女、妙女、奈月氏との珍妙なるアンポン隊でどしゃぶりの雨の中、キャッキャと笑いっぱなしで歩き、入院・治療にあたっての鋭気を養う。

 沢歩きは楽しかった。沢歩きについて「池探しとは、生命の源、水探しでもあったのだ。こうして水の中をじゃぶじゃぶ進むのは、命の源と戯れさせてもらっていることとなる」という僕の言に、沢歩きを企画してくれた都津茶女はこうコメントしてくれた。

 

 沢を源流まで詰めるとき、どんな源流が待っているのか胸がふくらみます。

 命の水の生まれるところに立ったら、やっぱり感慨深いです。一滴が大きな流れとなって、たくさんの命をはぐくむ。

 流れを水とともに下る時、水の心になって下るの。

 

 恒例の晩秋ミルキーあんぱん吟行も繰り上げて九月二三日に急遽行うことに葉里麻呂が企画してくれる。

 前夜祭は御池庵で葉里麻呂作成の御池岳立体地図を鑑賞。当日は同人十名と鞍掛登山口から鈴北岳まで二時間四五分という超スローペ−スで、文字通りチンタラ歩く。元池ではヤンマの群の産卵シーンに遭遇したり、シロヨメナの大群落で写真をとったり、楽しい時間だった。吟行ゆえに例によって僕の作品(御池杣人名)と葉里麻呂のコメントを「第七回ミルキーあんぱん吟行作品集」から引いておく。

一,密やかで厳粛なおにやんまの秘儀−産卵に遭遇して詠める

 

本歌

 ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐにみずくぐるとは   在原業平朝臣

 

 しじま(静寂)やぶる歓声も聞かずおにやんま腹触れないに水くぐる尾は 御池杣人

 

現代語訳

 静寂の中、突如響く人間の歓声。「わー、オニヤンマ(正確にはオオルリボシヤンマというらしい)の乱舞よ」「あっ、ホバリングしてるわ」「こんなにたくさん」「おお、産卵してるんだ」「はじめてだね。こんな場面」等々突如あらわれた人間の歓声など全く聞こえないかのように、逃げることなく元池の水面に産卵を続けているおにやんま。堂々たる自然の厳粛な営み。ホバリングを繰り返し、葉にとまり、腹は水面に触れることなく、尾のみを水にくぐらせて。

 ※ 元池にもどれだけの命のドラマがあることだろう。この卵はおたまやいもりのえさになるか。やごになれば、おたまを食するのか。人間の思惑などはるかに超えた世界の厳粛なひとときに立ち会えた幸。

 

管理人(HP『鈴鹿樹林の回廊』管理人・葉里麻呂のこと)解説

 うまい! この手があったのかと業平の「水くくるとは」を思い出す。「と」と「尾」も発音的に違和感がなく見事。たしかに尾は水をくぐっていたなあ。しかも唐紅(からくれない)を腹触れないとは! 尾をくの字に曲げての産卵を写実的に描写して天晴れかつアカデミックである。しかもこの置き換えは思わず笑えるユーモアもある。参りました。下の句はパロディーのお手本といえる。(中略)

 御池杣人氏もこれくらい冴えたあんぽんたん度を発揮できる精神状態なら、入院に対する動揺もないとみる。結構なことだ。

 ところでこの歌が科学分野でも評価されるには、昆虫のどこが腹でどこが尾なのか調査を要する。歌の世界ではどーでもええことではあるが。

 

2 傘と一〇〇ミリレンズが好評ゆえに気をよくしてシリーズ化。第二弾の撮影会にてシャッターをおしつつ詠める。

 

本歌

 花のいろはうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに   小野小町

 

 傘のいろはうつりにけりなひたむきに汝身やまくるよめなさくまに   御池杣人

 

現代語訳

 漢字を交えれば、以下の歌になる。

 傘の色は映りにけりなひたむきに汝身山(深山)来る(ながみやまくる)ヨメナ咲く間に

 この雨の中の山行きは楽しい。せっかくの機会だ。撮影会をしよう。色とりどりの傘の色が霧の淡い白に映えて、深山にまで身をひたむきに運ぶ(掛詞)あなたたちのいっぱいの笑顔がシロヨメナの大群落の間に咲いていることよ。

※この「間」はシロヨメナの咲いている期間という時間的意味と、シロヨメナが乱れ咲く場の間という空間的な意味と、両方を指している。

 

管理人解説

 作者御池杣人氏の歌には時々けったいな日本語?が出てくるので注意を要する。汝身(ながみ)などという言い方があるのだろうか。我身があるのだから汝身もあると言えばアリエールのだが、一般的ではない。だいたい現代語訳が説明がましくなるときは、置き換えが苦しいときと相場が決まっている(管理人も同じ)。

 移るを映るとしたのはカラフルな場面を彷彿とさせる。「間」に時間と空間の両方の意味があることも分かる歌。モデルの皆さんの屈託のない笑顔が思い出される。

 

3,吟行の終わりにあたり、鈴北岳にて御池の世界を振り返りつつ詠める

 

本歌

 さびしさに宿をたちいでてながむればいづくもおなじ秋のゆふぐれ  良暹法師

 

 たのしさに鈴北にたちいでてながむればいづくも夢路しかのゆふぐれ 御池杣人

 

現代語訳

 楽しかったこの吟行。山のすてきな仲間たちとの得難い時間。御池テーブルランド上では最後の行程、鈴北岳まで立ちいでて振り返る。

 今日一日、友と何度も笑い、語らいながら遊んでもらったお花の尾根から池の平、日本庭園一帯を見渡せば、どこもかしこも、なにもかもがまるで夢のなかのことであるように思われてならぬ。あのオフ会の沢歩きも今日の御池吟行も、ただ楽しくて。

 こうしてまもなく入院を控えた身には、同人の友情ありがたく、夢路をたどっているような。ほら、別れを惜しんでくれているか、あの母子鹿の姿もまるで夢のようだ。この夕暮れよ。

 

管理人解説

 おなじを夢路とした以外、第一首のような凝った技巧は見られない。

 しかし「いづくも夢路」としたことで、今日一日を振り返る歌に転換されている。

 本当に楽しく、茫洋とした天気も相まって夢をみていたような吟行であった。

 そして「鈴北なんぞまた何時でも来れるわいな」という我々と違って、作者は長期の入院を控えている。

 退院しても、また一から体力を作り直さねば登れない。去り難いのもむべなるかなである。

 しかし去り難さよりも、当日の満足感や感謝がより感じられる歌であり、もの悲しさだけに終わっていない。

 

 この二度の山行きの写真と破地輪駆氏(やぶこぎでボロボロズタズタになってしまったズボンをカミサンがパッチワーク。それを誇り?をもって着用して、深夜山行きを繰り返す怪人の同人)の撮影したミルキー時のDVD、それから吟行の作品集(入院中ゆえ葉里麻呂が冊子を作ってくれた)。これが入院時にどれだけ精神的に支えてくれたか。

 

 だいじょうぶそう聞こえたよ秋風に御池の主のささやく声が

 病の先達、都津茶女の作品である。ありがたし。一〇月からの入院・治療にあたってのモットーは、これまでの「一、ケセラセラなるようになる」「二、なんのこれしき」の二つに加えて、「三、だいじょうぶ」でいこうと思いを新たにする。

 

 

            (二)

 

 今回の入院治療の副作用はそんなにきつくはなかった。それはありがたいことで、本を乱読できた。良寛、山頭火、山本萠、歎異抄、般若心経、熊谷守一、佐藤勝彦、不破哲三、水上勉、松本清張、古典落語(上・下・続・続々・続々々・大尾)等々読みまくった。

 第二クール時(一一月)、萠さんから「人生の小休止と思えども、治療は厳しいものにちがいなく、でも幼子のようにころんだ道でころんだまま小石で遊びだす、その精神で日を送って下さいね」という文届く。彼女はカメラをもちこんだらどうでしょう、と言ってくださったが、病院というところは人間(患者)のあまりになまなましい姿がありすぎて、とても僕のカメラの腕ではたちうちできぬことは明確。だけど、こんな精神で一日一日を意味あるものにしていくことの値打ちはいうまでもなく、この申し出をありがたく受けとめていた。

 次便にて、萠さんは「俳句や短歌はいかがでしょう」と。(一)でみたようにパロディーばかり作ってきて、今も「パロディー御池百人一首」をめざしている僕が、まともな短歌や俳句かあ。できるかなあ。でも入院治療の日々を山頭火的な自由律の句で書き留めておくのも面白いかもしれないかも。どうせこれまで入退院の記を書いてきたのだから、今回は自由律の句で表現するのも新しい何かが生じて面白いかも、と思いなおした。

 当初は第二クールで終わる予定だったけど、「近藤さん、もう一クール必要だと思います。いかがですか。してみませんか」の主治医の言に落ち込んでいたけれど、やむをえない。いやだけど最後のクール(一二月)に突入せざるをえないか。だけどどうせいやな日々になるならば、萠さんのいうように「ころんだまま小石で遊びだ」してみようか。それを自由律の句で表現してみたらどんなふうになるか。しんどいけど案外面白いかもしれない、と。

 以下は第三クールの入院・治療生活に生まれた僕の句。それを列挙しながら入退院の記とする。

 

    点滴とれてちょっと跳んでみる

 山頭火は大好きだけれど、僕はどんな句ができるかしらんと思いつつ、僕の入院・治療の中でしか出てこない句を気楽につくればいいのだからと、あれこれこれまでの入院生活を振り返る。そこで最初に浮かんだ句。

 点滴は僕の治療においては日常のこと。抗ガン剤投入時、前日から点滴をはじめ、投入後ほぼ二日間続ける。だから一回につきほぼ四〜五日。一クールに三回投入するから、一クールに点滴しているのはほぼ一二〜一三日。だから入院時の約半分は点滴の日々となる。畏友林親男の短歌に「点滴を天の滴といただきて身は病床に安らけきかも」がある。治療において避けられぬことは承知している。だけど、身は拘束され寝返りも不自由、身動きもついつい制限される。動く時は点滴のスタンドを引きずらねばならぬ。だから、点滴が終了して針がとれる時はうれしい。あの瞬間を詠んでみた。少し自由になるうれしい一瞬。入院時のささやかな喜びのひととき。「点滴とれてちょっと跳んでみる」−お気に入りの句が最初に浮かんだ。さて句づくりは続くかしらん。

 

   黄葉紅葉噛みしめている一時退院    

 結果として一〇月一日〜三〇日まで第一クール、一一月五日〜一二月一日まで第二クール、一二月六日〜一二月二六日まで第三クールの日程となった。

 この句は一二月二日の作品。第二クール時、黄葉紅葉は無縁の日々。窓からみえる小学校の公孫樹の黄葉の推移の様子だけが唯一の僕の黄葉紅葉だった。ナースのSさんに「いつもご苦労さまだね。Sさんはこの秋、落葉の上を歩いた?」とたずねたら、しばらく後の日に「近藤さん、やっと歩いてきましたよ。滋賀県の湖東三山」「えらいしぶいところ歩いてきたのね」と。そんなやりとりをしながら、小学校の公孫樹をいつも眺めていた。やっと退院できた、わずかな期間だけど娑婆(苦しみ多い現世)の空気はうまい。近所の公園を散歩する。おお、僕の足が落葉を踏んでいる。うれしい。「踏みしめている」にしようか迷ったけど、こんな経緯ゆえに「噛みしめている」が大げさでなく、素直な思い。

 

   落葉を歩く明日入院         

 本当に短い一時の退院。事情で四日は名大病院で診察。初診だから待ち時間が多く鶴舞公園を歩く。これで一日がつぶれた。いよいよあと一日。また入院か。せっかくだからお気に入りの道を散歩してこよう。鈴鹿の山は無理。定光寺のお気に入りの小道を歩く。まず誰にも会わない静かな小道。元気な時は、名古屋市最高峰一九八メートルの東谷山経由して高蔵寺まで歩く。東谷山を瀬戸側から登る参道が絶品。だけど今日はそこまでは行かない。中水野駅までの行程とする。

 細く続く小道。時折光がさす。黄葉紅葉の小道。曲がりくねりながらの高低差あまりない淡々とした小道。小道は被写体になる。次々と眼前の風景というか小道の表情というか、ゆっくりとした足どりなのに変化していく美しさ。何度も写真に撮る。奥行きを描写したい。明日入院か。だけどこのひとときいいなあ、そんなことをあれこれ考えながら歩いて浮かんだ句−落葉を歩く明日入院−−その時の一番の写真とこの句のコラボレーションの葉書ができて満足。

 

   またも入院、ナースとハイタッチの朝  

 今度の入院は何を読もうか。どんな本を持っていこうか。下着や洗面用具などだけでなく、入院準備のメインは僕の場合どんな本を持っていくかだ。だけど心弾む準備(明日遠足だ)ではない。まな板の上の鯉の状況に変化はなし。ただし、梅村のおばちゃん(その2参照)に笑われないように、毎回一人で準備して一人で病院へ行く。

 おなじみの一六病棟へえいこらしょっと荷物を持ちながら行けば、おなじみのナース諸嬢の歓迎?の声。秋だけですでに二ケ月弱も入院して生活していたのだから、お世話になりつつ気心も知れて。その明るく職務に励む姿に僕はいつも励まされていた。「またお世話になりますよ」のハイタッチ。

 

   抗ガン剤投入中落語読む       

 抗ガン剤は点滴から投入。一日前から点滴を開始し、翌日から吐き気止めなど副作用を抑える薬に次いで投入。一日目、二日目、八日目、一五日目に。白血球、血小板の状況や肝機能、腎機能の状況を確かめながら進めていく。

 今回は副作用があまりきつくなかったのはありがたかったけれど、投入中はさすがに緊張する。看護婦(師)さんも投入がちゃんと行われているか、複数で確認する。約三〇分、機械を使って静脈に入れていく。その間、基本は安静にしておればいいのだけれど、持ち込んだ古典落語の本を毎回読んでいた。粗忽の噺だけでなく「芝浜」「藪入り」等の人情噺がやはりよかった。

 

    師走もいろいろ僕は入院している   

 世間は師走に入っている。いつもの年ならば、「師走じゃ、師走じゃ、走るんじゃ」「いや別に師走でなくても走るんじゃ」といいながら僕もバタバタ走っていたのに、この冬はじっと病棟での生活。こんな師走の生活もあるのかも。

 

   点滴とれて手抜かずにテレビ体操    

 入院の日々は規則正しい。朝は六時起床。血圧、体温、体重、排尿・排便状況のチェック、採血する日もあり。八時朝食、八時半頃お昼担当の看護婦(師)さんの登場。午前中に医師の回診、一二時昼食、夕方に夜担当の看護婦(師)さんの登場。一八時夕食、二〇時面会終了、二一時半消灯。こうした日程が淡々と続く。点滴をしている間は夜中もほぼ一〜二時間毎にトイレへ。点滴がとれるとトイレへ行く回数は少なくなる(ということはよく眠れるということ)。相対的に自由に動き回れる。これ案外うれしいこと。六時半からのテレビ体操を。東の空はようやく明るくなり、看護婦(師)さんたちが回ってきて「こんどーさーん、おはようございまーす。調子はどうですか?」とさわやかな一日が始まる。その最中に一人「一、二、一、二」と。動ける時は動いておきたい。−点滴とれてちょっと跳んでみる−の応用編。

 

   還暦の半年を入院す、これも人生   

 僕は一九四七年生まれゆえに、奇しくも今年還暦。七月になつかしい小学校のクラス会があった。僕も参加した。そのクラス会は「ひょっとして還暦?」と銘打っていた。伊勢湾台風は六年生の時。ベビーブームでいつも学校は校舎建設の工事中だったような。給食がうまかった。脱脂粉乳も捨てがたかった。あんな幼かった僕たちがはや還暦。

 思えばその年の実に半年間、入院することになるのか。

 まあこうして生きているし、まあガタガタ言わずに、これはこれでいいのかも。

 

   生きていることがうれしい友想う   

 いつもご機嫌でいるわけではない。副作用はきつくはないけれど、閉じられた狭い世界で身動きできぬ状況に長期間おかれると、気分が落ち込む時もある。

 そんな時は職場の友、山の友、仕事や仕事を離れて知り合った友、幼友達。いろんな友が浮かんでくる。可愛い教え子諸君も僕の人生の大切な友。最近では「やぶこぎネットオフ会」での「アンポン隊」、「ミルキーあんぱん吟行」の同人。その写真群を眺めては、楽しかった時間を思い起こす。

 この句は山頭火の−生きてゐることがうれしい水を汲む−を本歌(句)としている。オフ会ではこれを念頭におきながら−生きてゐることがうれしい水と遊ぶ−−生きてゐることがうれしい友と遊ぶ−と詠んだ。都津茶女はさらに−−寄り添うことがうれしい心を歩く−−と発展させてくれた。

 

   窓いっぱいに朝焼けて爪を揉む    

 僕の室は四人部屋。窓側。窓からは東側が大きく望める。猿投山がここからは一番目立つ山。名古屋南部の街、新幹線、名鉄の列車群。それらを下に控えて、東の空が圧倒的な迫力を持って明るくなっていく。雲の輝き。ベッドで目をあけて座禅を組みながら夜明けのさまをじっと見ている。

  荘厳な自然の営為を心静かに(まだ眠たい)背筋のばして鑑賞しながら、免疫力をつけるための民間療法の爪揉みを。

 今日はどんな一日になるか。どう過ごそうか。いい一日にしたいな。

 一段落したら、血圧、体重、体温をはかりにいこう。

 

    お通じのありがたさ身の軽さ     

 入院中の僕のテーマの一つに便秘問題があった。普段、よく歩いておればほとんど僕は便秘をしないが、入院してあまり動かない生活をおくれば、さらには抗ガン剤の副作用か(吐き気だけでなく、多様な副作用がある)、便秘気味の日も。

 若い看護婦(師)さんのお世話になったこともある(旧姓Tさん、ありがとう)。

 お薬で調節しながら、さらにはやはり体操(窓の外の市街を眺めながら、かかとを上げ下ろしする体操)が有効だったような。お通じがあると、身が軽くなり心も軽くなるようなありがたさ。普段は全く意識しないことが入院してみてわかることってあるなあ。

 

   雨を視る笑いたくない日は       

 そうは言っても楽しくない日もある。何かどこか(はっきりした根拠や問題があるわけではないけれど)漠然と不安になったり、憂鬱になったり、落ち込んだり、本を読むのもしんどくて−という日。天気もよくない。からっと晴れていて山々が見えればまた気分がちがってくるのかも。そんな日のこと。

 

   教え子の笑顔に救われている日    

 一時退院時、鶴舞図書館でずっと探していた本を見つけた。井上ひさし『道元の冒険』(新潮社)だった。昨年、学生諸君と「詩情の会」を結成し、例会において各自がお気に入りの詩を一つ持参して朗読する(あるいは朗読の仕方を指定することができる)。その後その詩について感想を自由に語り合う−そんな会のオープニングは谷川俊太郎「生きる」、エンディングが井上ひさしの「なのだソング」であった。ところがその詩は、名作といわれる詩を編集した詩集(『ポケット詩集』童話社)からとったもので、原作はみていなかった。その原作がやっと借りられた。ただし、返却日が一八日。それは入院中。困った。借りたい。返せない。カミサンはある事情により身動きがとれない。ふと思いつく。そうだ,「詩情の会」メンバーで、近くに住んでいるRe嬢に手伝ってもらおう。「忙しいことは承知の上、すまぬが子どものつかい、やぼ用をお願いしたい。病院へ来て」と手紙を書く。

 そのRe嬢と少し会話したあとにつくった句。Reやーい。ありがとう。

 

  なのだソング             井上ひさし

 

↓雄々しくネコは生きるのだ           雄々しくネコは生きるのだ

 尾を振るのはもうやめなのだ         ひとりでネコは生きるのだ

 失敗おそれてならぬのだ           激しくネコは生きるのだ

 尻尾を振ってはならぬのだ         堂々ネコは生きるのだ

 女々しくあってはならぬのだ        きりりとネコは生きるのだ

 お目めを高く上げるのだ          なんとかかんとか生きるのだ

 凛とネコは暮らすのだ           どうやらこうやら生きるのだ

 リンと鳴る鈴は外すのだ          しょうこりもなく生きるのだ

 獅子を手本に進むのだ           出たとこ勝負で生きるのだ

 シッシと追われちゃならぬのだ       ちゃっかりぬけぬけ生きるのだ

 お恵みなんぞは受けぬのだ         破れかぶれで生きるのだ

 腕組みをしてそっぽ向くのだ        いけしゃあしゃあと生きるのだ

 サンマのひらきがなんなのだ        めったやたらに生きるのだ

 サンマばかりがマンマじゃないのだ     決して死んではならぬのだ

 のだのだのだともそうなのだ        のだのだのだともそうなのだ

 それは断然そうなのだ           それは断然そうなのだ

 

 Ri嬢にも世話になった。りんごとみかんが食べたくて、だけど身動きとれず。

近くに勤務している二児の母、Ri様、多忙の中お世話をかけました。

 

   本が読めて字が書けて僕もうれしい、春 

 年賀状を書かねばならない。幸いそんなにしんどくない日々。書く気力はある。我が家の年賀状は毎年、往年のイラストレーターのカミサンの手作り作品(僕、カミサン、息子の近況のイラスト)を印刷したもの。宛て名だけでなく、賀状に一筆書き添える。今回はどんな言葉を書き添えようか、と考えていたら、今つくっている句からが面白いかも、と。このままでいけば、何とかお正月は自宅で過ごせそう。本を読むことができるだろう。字も書けるだろう。ふと、一〇〇歳の高校教師であった桝本うめ子先生の詩が浮かぶ。

 

   うれしいな  生きている

   本が読めて  字が書けて

   うれしいな  生きている

 この詩を踏まえてこの句がひらめく。賀状だからうれしく明るい句にしよう、と。

 

   いつか日の出に息のんだ、聖岳はるか  

 病窓やディルームから東方面が望める。六階ゆえに相当見渡せる。猿投山、少し見通しがきく日は恵那山がメイン。猿投山より南側に遠く遠く山並みが見える。多分、南アルプスだろうとは思えども、地図で確かめずにすましていた。葉里麻呂と都津茶女がお見舞いに来てくれたときに、葉里麻呂にこの病院の六階からどんな山が見えているか、教えてちょうだいと依頼す。まもなく氏よりコンピューター図が届く。

 おお、すごい。恵那山より北側に遠く白く輝く峰々は中央アルプスだった。猿投山の南の峰々はやはり南アルプスだった。

 五月の入院時だったか、その南アルプスの峰々の一つ、三角錐の美しい山からお日様の出があった。その山のシルエットが登場したばかりのお日様に見事に影を映して。

 今回の葉里麻呂作成の図によれば、その山は聖岳だった。そうか、この美しい名の山だったのか。澄み渡った日の今日は聖岳もよく見えている。

 葉里麻呂のコンピューター図をつなげて、六階のこの病棟から見える山の一覧図にしてみた。東窓・ディルーム編、西窓編と。これを科長さんにプレゼント。「天気のいい日は、こんなにもたくさんの山々がここから見えているのですよ」と。

 

   点滴引きずって病棟一周四一〇歩    

 毎日毎日、そんなに歩けない。歩かずにおれば身体がうずうずしてくる。教え子のS 嬢には「あんまりウロウロと廊下を歩いちゃだめよ」と言われているけれど、少しは運動?をしておきたい。点滴スタンドを引きずってガラガラと歩く。一周ゆっくりと歩く。同じフロアーのおとなりの病棟もお邪魔する。こちらは相対的に高齢な方が多そう。こんなわずかな距離だけど、歩くと気持ちいい。西側を通る時は御池岳が見えているか、確かめつつ。ゆっくり歩いて一周四一〇歩だった。

 

   過剰依存されていない愛のありがたさ   

   この細腕を頼りにされぬ愛        

 若き日々、カミサンに六年養われ、学生・大学院生・オーバー・ドクターのぶらぶらの日々、計一六年。今も実質は同じようなもの。そんな関係上、「あなたがいなくなったら経済的にもやっていけない」とまず僕は絶対に言われない。これはひょっとしてありがたいことかもと今頃になって気づく。あとで触れる点滴の注射跡だらけのわが細腕を眺めてもそう思う。

 

   仲間との山行き写真見て消灯時間     

 二一時半が消灯。四人部屋ゆえにこれは厳守する。眠りに入る直前、ほとんど毎晩「やぶこぎネットオフ会」の時の写真、「ミルキーあんぱん吟行」の時の写真を見ながら寝入っていった。

 オフ会ではアンポン隊の沢歩き。命の水の中をじゃぶじゃぶ。水晶谷の淵が混浴露天風呂と化してしまった。僕は露天風呂の人とならなかったけれど。ドシャブリの雨の中、思い切り笑いながら歩いた。

 入院前に急遽決行となったミルキーあんぱん吟行。超チンタラペースで歩く楽しさ。ヤンマの産卵シーン。霧の中、シロヨメナの大群落。同人との山行きの一瞬一瞬をあれこれ思い出しながら。

 

    むかいのラーメン屋のネオンまぶしい   

 入院時のメインテーマの一つに食事問題がある。副作用はきつくなかったけれど、食欲は相対的にあまりない。病院の栄養課に頼んで、昼夜は米飯にかえてめん類を出してもらう。これはありがたかった。そうでなかったらあまり食べられなかったかもしれない。しかし、夢の中ではミソカツ、鰻、鉄火巻き、ラーメンが浮かんでは消える。ラーメンのスープをゆっくり味わいたいなあ。そう思えばむかいのラーメン屋のネオンがまぶしくてならぬ。

 

      消灯時間イヤホーンでバッハ聞いてねる  

 山行き写真の後は、イヤホーンでバッハ。四人部屋ゆえにイビキがうるさい夜もある。だけど、だいたいイヤホーンで寝入ってしまった。もちろん、点滴しているとおしっこが近い(アタントの店長さんからいただいた「奥長良川高賀の森水」をさらに飲むー薬を流すためーので、多いときは一日に四?おしっこをした日もある)ので何度も夜中におきるけれど、眠りに入る時にはもっぱらバッハばかり。古くからの学びの友Sa氏が入院にあたりプレゼントしてくれたもの。千住真理子によるバッハ「二つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調」「ヴァイオリン協奏曲第一番イ短調」等をほとんど毎晩聞いて寝入った。清冽なバッハのメロディーを同じく清冽に千住は演奏していた。クラシック音楽になんの薀蓄もたれることのできぬ僕ゆえ寝入ることができるのかも。

 

     ぎりぎりの攻防か先は読めぬ

 これは郵便将棋のことである。元同僚のS先生と角落ちの(一応僕が角を落とす)郵便将棋(一手ごとに葉書でやりとり。勝負つくのに半年以上?)。当然入院中も続く。僕が負け越している。ここらでお返しをしておかないととうんうんと読む。妙手はそう発見できず。

 

 

    左手駆使して点滴右手へと        

 この一年、約半年を入院での日々。点滴の日々はその半分だから、延べ約三ケ月近く。われながら感動する。よくぞ耐えたと。一クールで(二〜三回)。それがのべ三クール×二だったから、約十数回、点滴の針を腕に指したり抜いたり。さらに日常的に適宜、採血(血小板数や白血球数等のチェックのため)。一クールで採血は約一二回くらいか。六クーグだったから七〇回ほどの採血。二月からずっと左手でおこなってきたけれど、さすがに一二月では静脈の血管の確保が難しくなってきた。それでも僕は右手を自由にしたかったのでお医者さんに(点滴針挿入時)「左手じゃ」と駄々をこねていた。K先生やI先生に苦労をかけてしまった。採血も同様。「左手でやって」とこれまた駄々をこね、看護師H嬢、I嬢をして「血がとれな〜い」と泣かせて?しまった。

 わが左の細腕を眺めつつ、駆使したもんなあと感慨が。さいごのクールは右手で。流れはスムーズとなった。

 

    半年もの日々作務衣で          

 入院時に固く誓った?ように作務衣ファッションで僕は通した。坊主頭になること、案外これが楽で機能的だったから、お気に入りでもあった。「どうだ半年もだぞ」と一種つまらぬ自慢も。

 

    藍の風合いにはわずか半年       

 その半年もの長きにわたる入院の日々ではあるが、萠さんの「藍が風合いをかもしだすには一〇年はね」という言に比すれば、たった半年。いくらごしごし洗っても風合いまでには至らぬ。まだ浅い「藍」の色だことよ。

 

    深夜勤務、ナースの灯揺れ       

 深夜も黙々と職務に励むナース。頭が下がる。点滴をしていると、真夜中にも何回か廻ってくれる。点滴の具合を確かめたり、いろんなチェックをしておられるのだろう。僕は安心して寝入っていった。無言の中、彼女たちのペンライトの淡い灯が揺れる。「ごくろうさま、ありがとうございます」

 

    廊下で眺めている、御池岳のシルエット 

 西の窓から養老山脈を越えて、鈴鹿山脈が見える。藤原岳、御池岳、さらには霊仙岳も。コンピューター図によれば、一一四三ピークも、鈴北岳もみえていることが判明した。 廊下に立ち止まり西の窓から眺める。夕焼けの中のシルエット。平原状にゆるやかに連なっていて、いつしか僕は山の友と御池岳を歩いている。

 

 

    賀状書き終えて「千なり」タイム    

 入院中に年賀状も書くと、もってきていた。そうとうの数だけど、気分のいい日にせっせと書いた。前述「本が読めて字が書けて僕もうれしい、春」と書き添えて。やっと書き終えてホッとしておやつ。この間、おやつは両口屋の「千なり」と決めていた。午前中に半分いただき、ラップに包み、午後あと半分をいただく。なんという健気さ。「千なり」は「赤福」にならなかったか。美味じゃ。

 

    少しずつ朝焼けて今日が始まる    

 朝、東の窓からは荘厳な夜明け。曇りや雨の日は単調な夜明けになるけれど、晴れの日の日の出は千変万化。今日はどんな一日になっていくか。

 

    教え子と弁証法語る午後        

 お見舞いに時折教え子が来てくれる。Yu嬢と研究について語る。学びの今のテーマと面白さを語ってくれる。きょうは弁証法について語り合う。何事も変化・発展のプロセスにおいて把握すること、仏教でいう縁と因の問題、矛盾と諸連関について、量の質的な転換のこと、対立物の統一、否定の否定のこと等々、若き日々に恩師に鍛えられたことを思い起こしながら。

 

    新幹線始発列車夜明雲へ        

 夜明けの窓からの眺め。夜明け雲と新幹線の妙。新幹線始発列車は六時二二分頃通過する。一六両編成のスマートな車体が東京方面(夜明け雲方面)へとまっしぐら。全部漢字にして「新幹線始発列車夜明雲」にしようか迷ったけど、大きな世界での動きが表現したかったので結びに「へ」を加えてみた。今、時刻表を繰れば名古屋駅発上りは六時二〇分発ひかり四三〇号だった。

 関連して、

    夕月ぽっかり新幹線走る          

 夕方に出てくるお月さまは赤く大きい。まさにぽっかりと浮かんで。その下を一直線の新幹線が突き進んでいく。面白いクリスマス・イブの夕方。

 

    曇りて日の出見えぬ冬至       

 日の出の位置が日が短くなるにつれて南側へ。冬至の日の出の位置を確かめようと楽しみにしていたけれど、残念ながら曇天。

 

    保育園のサンタさん、今年は入院中ですまぬ  

 病院の中もクリスマスのイルミネーションが。そうか、世間はクリスマスか。今年も保育園のサンタさんを依頼されていたけど、またそれを楽しみにしていたけど、入院中ではかなわぬ。来年はかならずしたいなあ

 

 

    幼な友だち来たり、幼き日々をしばし歩きだす 

 小学校のクラスメートが見舞いに来てくれる。話しはいつしか友の消息、小学校時代のこと。もう半世紀も前のことになる。友と語りながら僕も幼き日々にかえっていく。

 

    白くはじめて見る聖岳遠く          

 晴天の日、白く輝いているのは中央アルプス。南アルプスは光線の加減でなかなか白く見えない。しかし、きょうは真っ白に。とがった聖岳も真っ白に。

 

    やるだけのことはやったと言い聞かせ退院す 

 楽ではない入院・治療を半年。合併症もなく、なんとか過ごすことができた。主治医の先生もよくぞがんばりましたとほめて下さった。

 まだ左胸に影は残っているけれど、それは一月下旬に手術でとることに。

 胸張って退院しよう。ありがたし。先生方にも、看護婦(師)諸氏にもありがとうございましたとお礼を言いつつ。

 

    退院し教え子と芥川を語り合える幸     

 教え子のS嬢と高校国語の教材分析を兼ねて「文学の会」を。入院中も勉強のお題をいただいていた。彼女からは「宇治拾遺物語」の絵師良秀と、芥川の「地獄変」における絵師良秀の人物描写、物語構成の相違について。僕からは「伊勢物語二三段」における「をとこ」の人物形象について。 入院中、何度も芥川「地獄変」と「宇治拾遺物語」の絵師良秀を読んでいた。こんな機会でもないとなかなか芥川も読まない。お題を与えられると読む密度が違ってくる。その「研究成果」?をS嬢に。ほめられてしまった。退院してこんな面白いことを語り合えることのできる幸。

 

    シュークリームとお茶、語り深まる      

 S嬢と語る時はいつもシュークリーム。討論が深まることよ。

 

 新年、家族とゆったりと過ごす。うれしい日々。

ゆっくりとお気に入りの道を歩く。こんな句が浮かんだ。写真とのコラボレーション。写真葉書にして遊んでいる。

 

     歩く歩く蝋梅の咲く             

     深呼吸して木洩れ日の道           

     こんな風の日に寒くないか冬の桜咲く     

 

              (三)

 

 入院中に読んだ本や手紙のあれこれから、心動かされた言葉を列挙してみる。

 ガンと闘いながら小学校長の激務を貫き通した大瀬敏明校長の本を研究会仲間のko氏からいただく。そこに校長が心刻んでいた言葉が紹介してあった。

 「命は神に委ね、身体は医師に委ね、生きることはわたしが主役」

 委ねることができるか。親鸞の「他力」も良寛の「任天真」も、委ねる世界か。委ねながら主役として生きるのが人生か。佐藤勝彦もすごいことを言っている。

  なむあみだぶつでも/なんでもええんじゃ/要するに おまかせできる/大いなるも  のの力に/自分をあずける/心のゆとりじゃあ/楽に力抜いて/あずけたらええんじ  ゃ/自分できばったって/しんどいばっかしじゃあ

 

 ありがたいことにカミサンの教え子諸氏もお見舞いに来てくれた。おみやげに川柳の本を二冊差し入れ。そこから。

   ついて来い言った夫がついて来る   「サラ川」傑作選

   世を忍ぶ仮の姿が続く俺       「万能川柳」

 前者、僕は「ついて来い」などと言わなかったなあ(言えるはずがない)。どちらかといえば「ついてく〜」の方だったなあと己を振り返ればくすりと笑ってしまう句。

 後者も男の見栄の可愛い世界。このままずっと「仮の姿」かも。世のお父さん、がんばろうねと思わずエールを送りたくなる句。

 

   裸にて生まれて来たになに不足

これは般若心経の講義本(高神覚昇『般若心経講義』)に出ていた句。こだわる人間、欲

のとりこに堕ちていく人間の姿を念頭に、その空虚さを喝破している。

 

 九月に大学の同僚の勧めで、岐阜県の付知の温泉に一風呂浴びに行った。付知は画家熊谷守一の故郷だったから記念館があった。じっくりと絵を鑑賞。著書『下手も絵のうち』を再入手。青木繁と同期の、「下品な人は下品な絵を描きなさい」という稀有な画家の語録。やはりなるほどーとうならせる語あり。

 絵でも字でもうまくかこうなんてとんでもないことだ     熊谷守一

 この「とんでもないことだ」がきいている。僕のこの文も「うまくかこうなんて」思わないでいいのだ。とんでもないことなのだ。

 

 朝日新聞の一一月二九日付け記事「患者を生きる」より

 再発の恐れはゼロではない。でもそれが何だというのだろう。だれにも明日のことは分からないのだ。

 「今日一日を楽しく生きよう」

 それを丁寧に積み重ねていけばいいじゃないか

 素直に励まされる。丁寧な積み重ね。わかってはいる。だけどなかなかこれが難しい。

 

 萠さんに「自由律の句を作ってみるよ」と書けば、すぐに二冊の冊子が届く。「私のお古ですけど、参考になると思いますよ」と。それは『一〇〇随句』(随句社)と『草原コレクション』(随句社)。どちらも北田槐子編。表紙の題字は同じくどちらも山本萠筆。 山頭火と放哉しか知らない僕には勉強になる。

 前者から抄

  ねじ花の雨がまっすぐ降る      としこ

  山道ひっそり蝶に蝶とまる      槐子

 後者からも抄

  両手そろえてカマキリの死       槐子

  であうかもしれない近道にも春風ふく  としこ

  実家の涼しい風にいる         敬雄

 

 岡山に住むカミサンの教え子マルB嬢からお見舞いの文届く。返事に僕は自由律の俳句を戯事でやっているよと書けば、岡山に住宅(すみたく)顕信という人がいますと教えてもらう。はて、どこかできいた名前かもとつらつら考えれば、『一〇〇随句』に登場していた名だった。早速マルB嬢が四冊も送ってくれる。

 住宅顕信句集 『未完成』(春旬堂)、『住宅顕信読本』(中央公論新社)、『ずぶぬれて犬ころ』(中央公論新社)、横田賢一『住宅顕信−生きいそぎの俳人」(七つ森書館)

 その存在もはじめて知る名。句も一つも知らなかった。白血病にてわずか二五歳で逝ってしまった青年。その病床にて詠んだ句が響いてくる。

  点滴と白い月とがぶらがっている夜

  だまって夜の天井をみている

  春風の重い扉だ

  地をはっても生きていたいみのむし

  若さとはこんな淋しい春なのか

 どちらかと言えば暗く重い句。当然だろう。白血病治療のしんどさ。副作用は並ではない。輸血、点滴、嘔吐、むくみ、脱毛、倦怠感。壮絶な日々であることは想像するに難くない。偶然か、点滴の句があった。

  点滴とれてちょっと跳んでみる      郁夫

  点滴と白い月とがぶらがっている夜    顕信

 句作の年季に加え、病の年季の違いが浮き彫りになっている。断然、顕信の方が深い。

 壮絶な闘病の日々にあって、気分のいい日もあったに違いない。特に次の二句は見事である。

  看護婦らの声光りあう朝の迴診

  歩きたい廊下に爽やかな夏の陽のさす

 顕信の長いつらい入院生活にこんな日のあったことを僕は喜ぶ。

 

※※※※

 

そして、「一月下旬の手術に僕はたちむかっていく。」と書いて僕はこの雑文を結ぶつもりでいた。

しかし、手術の説明のため呼吸器外科を受診すれば、呼吸器科医師からは、重大なことが進展しているとのことであった。新たな腫瘍らしきものが右肺の見えにくいところにあると。だから、手術というよりも、この進展しているものが何かをきちんと診断することが必要だと。

生命そのものに直結する深刻な事態が一方で進行していたとは。

まだ、医師の診断のつかぬ状況でこれを書いている。容易でないことはわかるが、心の整理がつかぬ。

やるだけのことはやってきたにもかかわらず,事態はさらに予想を超えている。何がおきるのがわからぬのが人生か。

 

早いか遅いかだけといえど死を意識する

死を覚悟しつつ悠々生きたし

 

 学童保育指導員の森崎氏からこんな文をいただいていた。子どもたちとの何気ない日々の生活での喜怒哀楽を短い言葉でスケッチのように描写しつつ。その一節にあった詩。

 

イタミとカナシミと

クルシミを超えた

命の根が

地の底から

呼びかける

 

それでも なお

生きていこう と        

 

 心の整理はつかぬけれど、このこころざしだけは忘れずにいよう。

 かの地の節分草も福寿草ももうすぐ必ず咲いて、ぼくを待っていてくれる。  

2008・1・11

 


とっちゃんコメント

ハリマオコメント