筒井順慶説について
私が初めて筒井順慶説を知ったのは、数年前山本素石の「山釣り放浪記」を読んだときである。東北で偶然素石に会った筒井三知夫氏は話の中で「先祖が筒井順慶なんです」と述べている。茨川を調べることになって、それを思い出し三知夫氏に尋ねた所、次のようなお話だった。
明確な根拠はありません。恐らくこの記述は素石氏の「釣り山河」の一節ではなかろうかと思います。東北での釣り行脚の途中(S.46頃)で宿泊した旅籠の囲炉裏端会話の中でそのようなやりとりをした記憶があります。
この発言の裏付けとしては当時より遡る2〜3年前、大阪の筒井鉄工株式会社の社長が訪れ、「筒井系は順慶の末裔でありこの度その顕彰碑を建てる為に筒井姓を尋ね資料を集めている。これに協力して頂きたい」との申込みがあり、系図と学術資料をみせて頂きました。社長の人格卑しからず順慶を語るに真摯な態度からこの説をインプットしていた処からお尋ねの応答になったと記憶しております。会話を成文化するとこのような記述になると認識しております。この件については何れ調査をと思案しております。
筒井順慶は「本能寺の変」の後「山崎の合戦」で光秀の要請に応えず、洞ヶ峠で戦局の模様眺めをした。その為、後世に日和見主義の代名詞のように言われたのは悲運であった。そんなことは家臣やその家族を預かる身としては当然であり、非難されることではない。「賤ヶ岳の合戦」の前田利家、「関ガ原の合戦」の小早川秀秋も模様眺めをしている。
しかし秀吉にも味方しなかったことで、大きな借りを作り家宝の朝鮮伝来「井戸茶碗」を差し出す羽目になった。その後忠誠を誓うため、滝川攻めや賤ヶ岳の合戦に追い使われ天正12年(1584)、36歳で病没している。大和郡山城主ながら、気の休まらない一生であった。
順慶説で問題になるのは、明治以前に茨川の人達に名字が有ったのかということ。江戸時代「徳川禁令考」により、百姓、町人に姓を名乗ることは許されなかった。平民に名字が名乗れるようになったのは明治3年である。 これについては、公式に名乗らずとも代々名字を受け継いでいた家系も有ったということである。茨川については筒井、小椋、石井、矢木は昔からあったとのこと。それだけでは分からないが、筒井正さんから有力な情報を得た。
どのような関わりがあるのか、私は分かりませんが、しかし、順慶の家柄は屋号を椀屋といったそうです。これは、木地師研究の第一人者であった橋本鉄男先生から教わった事です。私たち一族は、蛭谷や君が畑との関わりが深く、木地師根元地の一族と伝えられています。椀屋は、則ち木地師との関わりを想起させるものであり、何らかの関わりがあるのかもしれません。
順慶には実子が無かったのか、甥の定次や定慶を養子としている。しかし両人とも大坂夏の陣、冬の陣で不手際が有り、自殺に追い込まれている。椀屋の屋号が本当なら筒井家改易後、誰かが祖先ゆかりの小椋村を頼った可能性は大いにあると見る。茨川の筒井姓が順慶からきたというより、それ以前順慶自身が小椋村と関係が有ったかもしれないとは歴史は面白いものである。