茨川の発祥と歴史
発祥
茨川の発祥は銀山従事者説、平家落人説、筒井順慶子孫説、惟喬親王従者説、小椋の木地師説など数々ある。説が色々あるということは決定的なものがないということに他ならない。 茨川沿革史や古文書は代々戸長に伝わってきたらしいが、殆ど散逸している。もし有っても発祥までは遡れないと思われる。
このうち平家落人説は外しても良いと思う。この手の話は日本中にあって、信用できない。惟喬親王従者説については、そもそも親王伝説自体が木地師の宣伝のための作り話であると「滋賀県史」は述べている。筒井文書も偽作であると。そこまで言い切っては地元の立つ瀬が無いが、可能性は低い。
筒井順慶説については、筒井神社の縁起と時代が全く違うので怪しいと思っていたが、可能性が有ることが分かった。これは別項とする。茨川の人達の名字からして、他所から来た鉱山労働者が住み着いたのではなさそうだが、筒井峠や蛭谷方面からの移住者とすれば、何故わざわざ不便な土地に住み着いたのかと言う謎が残る。
茨川へ往診に行っていた民上俊平医師によれば、茨川の住民は彦根公御山番役の子孫であると書かれている。故人のため根拠は不明。
歴史
茨川には銀山の基地、君ヶ畑越の茶屋という二つの顔が有ってややこしいが古い順に述べよう。
一番古い話は筒井利明氏(故人)が述べられた、弘仁元年(810)蛇谷で銀を掘り始めたと言う話。書いたものは無く、利明氏がどこで仕入れた話か不明。それにしても銀山最盛期は江戸中期であるから、810年というのはかけ離れた古さである。もしかして弘治元年(1555)の間違いではないだろうか。
蛇谷の名の由来は、「月光を浴びた銀の鉱石が蛇の如く帯状に光り輝いたから」ということである。蛇谷は私も入ったことがあるが、何の変哲も無い小谷であった。もう一度そのロマンチックな様を思い浮かべて行ってみたいものである。
茨川に関する記述を外部の文書から辿られたのが、筒井正氏である。省略して紹介する。
☆ 天文九年(1540) 「今堀日吉神社文書」 保内商人、三河商人の争いにいはら茶屋の彦左衛門が調停す・・の記述有り。近江商人や三河商人は茶屋村で休息していたようである。
☆ 天文二十一(1552) 「江源武鑑」 大津の宮祭礼において殺傷事件を起こした犯人を、佐々木氏が追っ手を差し向け茨川にて処刑したことが書かれている。
☆ 天正十三年(1585) 「黄和田神職野神家文書」 天照神社を向山に移す・・の記述有り
16世紀半ば茨川の存在は確実なようである。少なくとも450年以上の歴史があるということである。君ヶ畑越えは商人の道であるとともに信仰の道でもあった。北勢から多賀大社あるいは永源寺へ詣でる道に使われ、茨川は茶屋として繁盛した。
これと相前後してこの地と関連する日本の歴史をとりあげる。
近江佐々木氏は北伊勢攻略に並々ならぬ執着を見せ、北勢地方の有力者を悩ませていたことが「菰野町史」に載っている。1542年佐々木義賢は兵一万をもって、君が畑から治田峠を越えて北勢に攻め入った。茨川が村役や補給を命ぜられたかは不明。佐々木氏はその後再三、千種越え、八風越えで北伊勢に侵入しているが、のちに信長に滅ぼされる。
私が子どもの頃、いたずらをすると「ガモジが来るぞ」と言って脅かされた。ガモジとはオバケの事だと思っていたが、語源は佐々木一党の蒲生氏(がもううじ)である。こういう言葉が今に残るほど北伊勢は近江の佐々木氏を恐れていたのだろう。
今ひとつは有名な秀吉の滝川一益攻め(1583)。このとき七万五千の大軍を三つの峠に振り分け、羽柴秀次と堀尾吉晴、中村一氏、近江衆ら二万が治田峠を越えている。時は厳冬期の雪中行軍で相当の難儀をしたと思われる。このとき例の筒井順慶は総大将羽柴秀長に従軍して稲葉一鉄らと共に、美濃多良から員弁郡立田(藤原町)に出ている。軍勢の数は誇大に書かれるもので、実質六掛け位のものだろうと思う。 秀吉自身は安楽峠を越えている。治田村誌にはその後軍勢が新町、石榑、梅戸井、桑名へ行軍する様子が書かれている。
なぜ冬に越えたかと言うと、奇襲の意もあるだろうが、雪が溶ければ北陸の柴田勢との決戦が避けられなかったからである。柴田が豪雪に閉じ込められている間に、目障りな一益を叩いておこうということだったろう。一益も柴田同様、秀吉の下風に立って生きられるような男ではなかった。このとき、地元の君ヶ畑や茶屋の衆が道案内やラッセルに駆り出されたかもしれない。
再び筒井正氏の著書に戻って銀山の歴史をひもとく。
細野重雄「鈴鹿・その自然と歴史について」には永承年間(1046−1052)に蛇谷銀山が開鉱され、200年間多量の銀を産出したという記述有り。真偽は不明。
「江源武鑑」には天文十八年(1549)江州にて初めて銀を掘る・・とある。
これでは前述の弘仁元年説を含めててんでバラバラであり訳が分からないが、初めてかどうかはともかく1500年代中頃に銀が掘られていたのは他の古文書からも確実である。調べてみたらこの頃、博多の豪商神屋宗湛がマカオに人をやって新しい精錬法を学ばせている。一旦は採算が合わず廃鉱になったものが新技術で復活した可能性もある。このとき銀山は近江佐々木氏の支配下にあった。この年代は茶屋として歴史に登場するのとほぼ同じで、村がどちらの面から発祥したのかは私には分からない。
この後蛇谷銀山は治田側の鉱山と共に徳川幕府天領となる。その後の治田四山とは新町村南河内山(四日市御蔵入)、別名村多志田山(同)、野尻山(桑名領内)、江州君ヶ畑山(彦根領内)をいう。最盛期は寛永から元禄の70年間であった。明治期には政商五代友厚が採掘権を持った。一度小林某に渡った採掘権を友厚の娘アイ(本名藍子)が大正七年に買い戻して経営している。
条件としては年間45円を治田村に支払うこと、軌道に乗った場合冥加金として2/100を村に支払うこと、人足は村から雇うことなどが挙げられている。この時期神崎川源流の御池鉱山も最盛期であった。
中島氏の「近江鈴鹿の鉱山の歴史」によれば、五代アイ(明治9年生まれ)は治田の麓村に住み、犬を連れゲートルを巻き山へ入ったそうだ。財閥の御令嬢とは思えない入れ込みようだ。大柄で男装の麗人だった由。宝塚の男役みたいなものか。アイは昭和40年まで生きている。青川のトンネルもこの人が掘らせた。但し、三重県側が主で蛇谷銀山については記録が無い。治田周辺の鉱山は莫大な資金(20万円)をつぎ込んだ割に成果が上がらなかったようだ。
江戸末期から近年について茨川沿革史(所在不明)の抜書きを筒井利明氏が所有しており、山本素石、熊谷栄三郎、筒井正の三氏とも紹介しているので、未見の方のため一部引用しておこう。
●寛政十二年(1800)頃、山小屋に等しいものも併せて53戸あった。
●文化七年(1810)鉱山従事者に争い事があり28戸に半減する。
●文化十四年(1817)茨茶屋村として庄屋、戸長などの組織成立。流れ者が、切支丹布教。
●安政三年(1856)流れ者が米総領事ハリスのことを誇大に話した為、村人は高所に要塞を築いて見張りをする。
●明治七年 茨川村として独立(それまでは君ヶ畑の出郷で茨茶屋と呼ばれていた)。静ヶ谷から真ノ谷までの山林を下賜される。
●明治二十年 三重県高柳から牛を連れた人(後藤さんと思われる)がやってきて、稲作を始める。三反の田を切り開き二石を収穫(二石とは五俵位であり、平地の1/3〜1/5程である)。なおこのとき牛が狼に襲われたという。(日本狼は明治末期に絶滅)
●明治二十七年 日清戦争で、村から2名が出征。
●明治四十二年 豊作により、米価下落。村民は治田峠を昼夜運んで3年分の米を買いだめした。田を持たない村には、天佑であった。
●大正十二年 関東大震災に対して村から役場を通じ、見舞金を出す。
この後素石の本だけ、昭和23年ごろから挙家離村が始まり、32年ついに一戸となる・・・の記述があるがこれは明らかな誤りである。私は最初にこれを読んだため、よく一戸で数年間持ちこたえたものだと思ったのだが、住民台帳には昭和32年には8世帯37名が登録されている。
そしてついに廃村を迎えるわけだが、この時期について二説ある。山本素石と熊谷栄三郎は昭和38年8月7日と書いている。筒井氏他は昭和40年8月19日としている。これは検証するまでもなく、昭和40年が正しい。なぜならば、筒井正氏は最後に離村した当のご本人だからである。
熊谷氏が間違えたのは、素石から引用したからと思われる。熊谷氏は素石の本の解説を書いたり、素石自身の生涯を書いた本も出しているからだ。8月7日と具体的な日が書いてある根拠は不明。
行政上の廃村は39年度末であろう。40年4月には分校の先生が村を離れ、4年生になるはずだった正さんは学校へ行けなくなってしまったそうである。離村の日にはNHKラジオが取材に来て、お父さんの睦雄氏が 「神崎郡永源寺町茨川は本日を以って閉村といたします」と挨拶された。
茨川出身のお年寄りや女性は、この放送を聞いて泣いたそうである。ちなみに昭和38年には岐阜の徳山村に中部電力が電気を送り、39年には新幹線開通、東京オリンピックが開催された。国を挙げての高度成長のさなか、ついに茨川は電灯が灯ることなく廃村を迎えたのであった。
「滋賀の地図から消えた村(村井博一)」には幾つか上記と異なる個所があるので挙げておく。
1.については普通二万と書かれているものが多いが、勝者の側からは誇大に書かれることが多い。しかし三千とはまた極端に少ないが、誤りとも断定できない。
2. また銀山について新しい数字が出てきた。古い記録とは何か書かれていない。筒井氏によれば1810年頃から銀山は衰退し山師達が相次いで茨川を離れたとあるから矛盾する。
3.これまた新説。昭和40年8月にはもはや無人であったので、もしかすると行政上の手続きが遅れていたのかもしれない。
4.筒井正氏の著書では政所小学校茨川分教場となっている。村井氏の方が当時の呼称としては正確なような気がするも不明。