2013年の日記
チョン・キョンファ 2013.09.28
山へ登ればある程度木や花の名を覚える。オーディオに興味を持てば、これまた自然に音楽を知ることになる。私の知識はその程度のもので、遥か昔の義務教育の域を出ない。学校でセンセが楽をするためか、よくクラシックのレコードを掛けた。何が悲しくてこんなものを聞かねばならんのかと思ったが、寝るのにはちょうど良かった。中学生と言えばロックやポップスの洋楽に目覚めた頃だ。クラシックなんぞひたすらダルいと思った。 だがしかし、アンプを作るようになりオーディオ雑誌など読むようになると、レコード評などにも目を通すことになる。半分はジャズ、クラシックなので、まあ分からんなりに買って聞いてみると徐々に馴染んでくる。それから30年以上経ち、現在はクラシックも重要なソースの一つだ。
チョンキョンファ伝説の1998年サントリーホールでのライブがCDになったというので買ってみた。彼女は日本で言うところの団塊の世代だから当時でもすでにおばさんだが、脂がのり切っているともいえる。この中のバッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第二番が凄い。どう凄いかといっても私は専門家ではないから説明できないが、要は魂が揺さぶられるかどうかだ。この曲は日本人奏者のハイレゾのものも持っている。音質はそちらの方が良い。一般にライブは音質的に不利だ。雑音が入るし、マイクのセッティングの自由度が制限されるからだ。しかし音楽がホール、聴衆、奏者の三位一体として作られるものと考えれば、スタジオ収録なんぞ邪道とも言える。野球で例えば、スタジアムと大観衆と長嶋茂雄が揃ってこそドラマが生まれるのと同じだ。スタジオはさしずめ屋内打撃練習場みたいなものだろう。
キョンファは若くして欧米で認められ、巨匠オイストラフやシェリングを越える天才ではないかとさえ言われた。私はオイストラフも持っているが比較なんぞは手に余る。ところが日本では当時韓国への言われなき偏見でなかなか人気が出なかった。世界を席巻する韓国の電気製品も日本じゃ未だに売れないし。何にしても音楽に国境はないから何でも聞くべしだ。第二番の最後シャコンヌは有名だが、ここらに差し掛かると聴衆は金縛りになっていたという。たった一人が数百人を金縛りにするとは凄いオーラである。ライブ録音らしく彼女が足の踏み替えで舞台の床が鳴る音も入っている。それはノイズではなく、臨場感や凄味を表すのに一役買っている。それにしても二枚目に入っているバルトーク・ヴァイオリンソナタが私には難解である。どこがいいのやら分からない。修行不足かと思うが、趣味だから気に入らないものを無理に聞くこともない。
先日ヴァイオリン、クラリネット、ピアノという小規模なリサイタルを許可を得てPCM録音した。小規模とはいえ、至近距離で聞くナマのダイナミックレンジは凄い。帰宅してさっそく再生したが、私の「中の下」のシステムでは生の迫力は全く出ない。音色も違う。当然オーケストラの再生なんぞ、土台無理な話である。これは日本の標準的な部屋の天井の低さも関係している。こればっかりはどうにもしょうがない。その点、無伴奏のヴァイオリンは何とか鑑賞できる。楽器が一つだから団子にならない。ヴァイオリンという楽器は生で聞くとキンキンした音よりも胴鳴りの方が大きく、優しく古風な味がある。オンマイクでの松脂が飛び散るような激しいオーディオ的快感は少ない。キョンファの録音もふくよかな胴鳴りが良く出ていると思った。
ジョー・ブラックをよろしく 2013.09.19
いつになったら山へ登るやら、そして本来の山行記を書くのやら・・・自分でも不明。なにせいつも日曜は天気が悪い。しかも家の用事があれこれ尽きない。どうしても行きたければ行くのだろうけど、そこまでの気はない。気持ちの比重はオーディオ関係に移ってしまっている。雑誌付録のスピーカーの箱をあれこれ作って遊んだり、昔使っていたスピーカーのレストアをしたり、LPレコードの手入れをしたり、20代からタイムスリップしたようだ。
さてタイトルの映画。古い映画で今更感想を書くのも妙ではあるが、私が鑑賞するのは公開時期と無関係だからしょうがない。最近wowowも不作で、適当に録って全く中身を知らずに見た一本。フタを開けたら普段全く見ない恋愛+ファンタジーでした(T_T)。アクションのカケラもなければ、サラウンドや重低音の活躍の場もなし。でも長尺にも関わらず最後まで見てしまった。しかも、普段は寝る時間がくると中断して翌日見るのだが、深夜まで中断せずに一気に見てしまった。スリリングな展開もないのに何故か目を切れなかった。
近年のブラピは大分むさ苦しくなった。もちろんその魅力はあるのだが、昔はこんな好青年だったことを思い出した。クレア・フォーラニもまた美しい。この二人が実に絵になる。画質がいいうえにバストショットの多用で、美男美女で若くなければ耐えられないが、さすがに合格である。ブルーの瞳に吸い込まれそうだ。アンソニー・ホプキンスも年の割に結構肌はきれいだったのね。そしてセリフがいちいち心に沁みる名言である。BGMはベタではあるが、やはり名曲は名曲でラストはホロリとくる。日本でいう豪邸とは比較にならない豪邸、ブロンドの髪に蒼い瞳、家族にも恋人にも言葉や体をフルに使ってする愛情表現・・・戦後日本はアメリカナイズされたと言うが、数十年経っても彼我の差というか、文化は依然として別物に見える。
死神が降りてきて人間と話をするというのは古典落語にある。蝋燭の件になると背中がぞくぞくする怪談のような噺だった。ところでホプキンスが会社の社長ではなくレクター博士だったら、どんな会話がなされるだろう。これはワクワクする。そういう設定の映画を作ってくれないかなあ。
オリンピックとフクシマ 2013.09.13
オリンピックのプレゼンで我が安倍首相は驚くべき発言をした。
「フクシマについてお案じの向きには、私から保証をいたします。状況は完全にコントロールされています」
まさに目が点である。これはギャグなのか? いや、これぞ政治家の発言である。結果を引き出すためには平気でウソをつく。なるほど、政治家とは偉いものだ。
しかしこの発言が100%悪いとは言わない。世界の前で啖呵を切ったからには、嘘をマコトにしてしまおうという決意も少しはあるとみた。
しかしそれをオリンピックの準備と並行して出来ると言うのは少々甘いのではないのか。もはやフクシマは何をさておいても、日本の国力を全てつぎ込んで対処せねばとんでもない事態を引き起こすことになるだろう。いや総力を注ぎ込んでも危うい。全世界に迷惑を掛けている自覚はないのか。日本人の美徳をプレゼンで述べるなら、外国に迷惑を掛けないように全力を尽くすのが先ではないだろうか。フクシマの対応を誤まればオリンピックをボイコットする国が現れても不思議ではない。
現在わが国で一番深刻な問題は加速度的な財政破綻をもたらす少子高齢化と、半永久的に巨費を要求するフクシマである。
更にインフラの老朽化も加わり、私には日本は破滅に向かって一直線に見えるが、この予想が外れれば幸いである。
ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 2013.08.26
雨の日曜は映画に限る。買ったまま仕舞い込んでいたBDの封を切る。変ったタイトルだ。トラと漂流した人など人類史上誰もいないのではないか。映画の冒頭は野生動物が次々と映される。毛並みの一本一本までハッキリ分かる高画質だ。やがてそれは主人公の父が経営する動物園だと分かる。場所はインド。映画は主人公が訪ねてきた小説家に少年時代の思い出話を語る形式で始まる。宗教がらみの話が続いて、いつになったら漂流するのだと思う。やがて強い動機もないまま、主人公一家は新天地カナダへ動物とともに日本船で移住することになる。そして嵐で難破するわけで、やっと漂流の話が始まった。
命からがら救命ボートに這い上がったのは少年時代の主人公とベンガルトラ、オランウータン、ハイエナ、シマウマである。如何にもアホらしい作り話と普通は思うが、語るインド人の青年がとても誠実然としているので、まあ勘弁したろかと思う。この配役は大事だ。しかしこの呉越同舟の顔触れはどうだ。展開は読めるではないか。事実その通りになり、最後は知恵の人間と、力のトラが残る。救命ボートの非常食や飲料の缶詰で暫く大丈夫であるが、やがてサバイバルが待ち受ける・・・・
まあ見終わってそんなに面白い映画でもなかった気がする。呉越同舟はアホらしくても、物理的にあり得ないことではない。しかし妙な孤島に流れ着いてから荒唐無稽なことになり、事実と受け入れることは不可能である。主人公が後に語るもう一つのストーリーこそが真実なのだろう。だとすると、動物を人間に置き換えてもう一度見直せば、様々なことが再度見えてくるのだろうか。映画館で見た人はそこまではしないだろう。
難しいことは考えず、美しい映像に浸ればいいかな。海とボートの俯瞰、星空、幻想的な海中シーン。やはり大画面に越したことはない。それとトラと同居する緊張感を表現するには、その咆哮を再現できる再生装置が必要だ。テレビなんかじゃ駄目である。「地獄の黙示録」でジャングルから突然トラが現れた時はのけぞって腰を抜かすほど驚いた。映画の映像と音声はフィフティーフィフティーであり、どちらも重要である。
この映画は3Dであるが、私の装置では見られない(T_T) 早く3Dプロジェクターを買えるように貯金しよ。
四十九日と蝉 2013.07.23
長かったような短かったような・・・。先日母の四十九日を勤めた。暑い日だった。一階の和室3間は普段使わない部屋(田舎はこんな無駄な家が多い)のでエアコンがない。いや北側の一部屋はあるのだが、3間開放では効くはずもない。お客さんは我慢大会。暑さの我慢、正座の我慢、お経の長さの我慢。冷静に眺めれば何か滑稽だ。人間は自分たちの決めたことに縛られて、義務のように我慢する。仏教が伝来する前はこういうやり方も当然ない。お経の読み方だって誰かが決めたのが続いているのであり、宗派によっても違う。何が正しいのか分からぬまま、慣例に囚われている。お経の後、導師が法事の意味についてお話しされた。日々煩悩に振り回されている現代人は、利益(りやく)の意味を履き違えているようだ。これでまあ、只の我慢大会に終わることはなかった。食事はさすがに自宅では暑かろうと思って料理屋を予約しておいた。
導師はNHK連続ドラマ「あまちゃん」が好評なKプロデューサーの実兄である。食事の席でドラマを見ているか聞いたところ、最初は見てなかったけど、録画して見てみたらけっこう面白かったとのこと。実は私も見たことがない。一回で完結しない細切れドラマは見ないことにしている。見始めれば毎日見なきゃならんし。今は勝手に録画してくれる機能があるにはあるが。
毎朝蝉の声で目が覚める。今は主にクマゼミ。シャーシャーと鳴くやつだ。私らの地区ではワシワシと呼ぶ。隣の地区ではシワシワと呼ぶ(笑) どちらが正しいか。要は鳴きはじめが「ワ」で始まるか「シ」で始まるかだ。注意して聞いてみるが良く分からない。最初からワシワシとは鳴かない。ジュクジュクと前鳴きがあっていつの間にかワシワシ始まるのだ。ワシワシと同時に甲高いジャッジャッという音も重なって複雑である。耳に刺さる音だ。せっかくデジタルレコーダーを買ったので録音してみる。庭木が高く、二階のベランダがオペラハウスのバルコニー席となる。ここで録ると蝉は至近距離で鑑賞できる。アナログテープの時代はジャッジャッという音がどうしても歪んだが、デジタルではうまく録れた。録ったファイルのスペクトラムをパソコンで分析して見ると2〜12KHzに集中している。中心は5KHzだが、かなり高い成分を含んでいる。しかしこれは周波数分布なのでシワシワ、ワシワシの正否までは分からない。どうでもいいことなのだが(^◇^)
なんじゃこりゃー・・・な映画 2013.07.06
「ニーチェの馬」を見た。普段ハリウッド映画になれ親しんだ人なら、途中で席を立つか寝てしまうだろう。私も何度か早送りの誘惑に駆られた。しかし何故か目が離せず、とうとう最後まで見てしまった。ハンガリーのモノクロ作品というだけで重苦しい。冒頭のナレーションによれば日本で言う明治時代のイタリアの片田舎という設定なのだろうか。しかし無国籍で時代も定かでない雰囲気だ。
ともかく今までの映画の概念が通用しない、とんでもない作品だ。展開と言うものがまるでなく、日常のシーンをワンカットで長々と写す。冒頭からして痩せ馬が車を曳くシーンが果てしなく続いてイヤになってくる。御者は仲代達也のような苦み走って眼光鋭い初老の男。BGM?として暗く短い通奏低音が繰り返され、重苦しさは倍加する。いい加減腹が立って呆れた頃、荒野の中の一軒家に着く。家に待っていた女は嫁ではなく娘だそうな。若くもなく、キレイでもないのが妙にリアルで、余計な期待をせずに済む。男は片手が不自由らしく、娘が着替えを手伝う。ブーツを脱がせる所から始り、何枚も脱がせて、また何枚も着せる。これをワンカットで延々と映す。全くどうかしてるぜ。映画館の観客はじれったくても見ているしかない。私は退屈で「何でガイジンは寝るのにまた靴なんぞ履くのだろう」とか、「どんだけ寒い地方なんだろう」とか考えていた。
男が寝ている間、娘が食事の支度をする・・・といってもジャガイモをまるごと茹でるだけ。「食事よ」と言って父を起こす。二人は向かい合って一個づつのジャガイモを無言で食べる。赤貧洗うが如しだ。この手づかみの食事シーンがまた長々と続く。私は退屈のあまり「ジャガイモは人間に必要な栄養成分をすべて含んでいるのだろうか」てなことを考えていた。
日本の時代劇なら
「お父つあん、ご飯よ」
「すまねえなあ、お美代。俺に甲斐性がねえばっかりに、お前にロクなもの食わせられなくて」
「何言ってんのよ、お父つあん。食べるものがあるだけで私は幸せよ」
「それに俺がいるばっかりに、お前は嫁にもいけねえ・・・・すまねえ(泣)」
とまあ、これくらいの会話はあるはずだが、このガイジン親父はただ威張って命令するだけだ。
次の日も着替えをしてジャガイモを食う。そして強風吹きすさぶ屋外へ出て、厩から馬を引き出す。ところが馬は反抗して馬車を曳かない。やっと展開らしきものが出てきた。ところが馬を元に戻してまた中に入り、せっかく着替えたのにまた着替えだ。要するにこの映画はジャガイモを食って着替えをする映画だと私は悟った。あと洗濯と水汲みか。監督は観客がどれくらい長いカットに耐えうるのか実験しているのだろう。天気も毎日毎日強風が吹き荒れるだけ。何もかもが永遠に繰り返される。それにしてもあの荒野のどこにジャガイモ畑があるのだろう。
馬は病気なのか反抗なのか知らないが餌を食べなくなり、水さえ飲まない。そして井戸の水が枯れる。ジリ貧だ。もうここにはいられないと言って二人は荷物をまとめて出ていくが、何の説明もなくまた帰ってくる。すぐ戻ってくるなら出なきゃいいだろう。そしてまた荷物を中に入れて馬を戻し、また着替えをする。徒労だ。まさに救いのない徒労。やがてランプの灯りも点かなくなって暗い差し向かいの中映画は終わる。凄い作品だ。
私は退屈のあまり、井戸の蓋に重石をしないと風で飛ぶだろうとか、この娘は汲んだ水をなぜ二つのバケツに半分づつ入れるのだろうかとか、あの風は巨大扇風機で起こしているのか、実際こういう地方で撮影したのか・・・そういうことばかり考えていた。一番不思議なのは自分が2時間半も大いなる徒労を見続けたことである。モノクロームの美しさ、モノーラル音声の物音の意外なリアルさはあった。しかし難解だとか深遠だとかは感じなかった。ひとつ感心したのは並みの監督なら屋外を吹雪にするところだが、ひたすら砂塵と落ち葉を舞いあげる木枯らしにしたのは効果的だったと思う。救いもロマンもすべてそぎ落とし、「これでも喰らえ!」とばかりに監督はカネを払って来ている観客に投げつけたのだ。ひどいな。
この映画を見てチケット代と時間を無駄にしたという人がいても不思議ではない。でも水さえ枯れなくて、馬が元気ならこういう生活もいいんじゃない?と思う。会社でも家庭でも神経をすり減らしているサラリーマン諸君は、むしろ心の底では羨望さえ感じているかもしれない。
LPレコードのデジタル化 2013.07.03
昔、ソニーのカセットデンスケという野外録音機を買った。FMエアチェック用に別のデッキを買うほど財力がなかったのでデンスケで兼用した。家から持ち出してセミやカエルの合唱、小川のせせらぎなど録って喜んでいた。当時流行っていたスーパーカーの排気音も録音に行った。
それから40年の歳月を経てまた同じことをやりたくなり、タスカム(ティアック)のデジタルレコーダーを買った。ICレコーダーとかボイスレコーダーの少し高級なやつ。デンスケと比べたら比較にならないくらい小さい。とりあえず七日ごとの母のお参りを録音している。りんを叩く音など迫真である。
データ形式はMP3とWAVが選択でき、WAVは96kHz/24bitのハイレゾまで対応。となると外部入力からレコードを96/24で録音するとどうなるかという興味が俄然湧いてくる。CDはすべてHDDにおさまっていて掛け替えることなくタブレットで選択して聞けるが、レコードもファイル化したら同じことができる。しかしレコードを掛ける動作は儀式であり、神事でもある。デジタル化してリモコンで聞いたら罰が当たるかも・・・
しかし興味には勝てずとりあえず実験してみた。結果は「うーん」である。言葉で言うのは難しいが何か違う。神が宿っていないと言うか、よそよそしいというか。まあ、録音で元より良くなることはありえないが、ハイビットだから区別が付かない音になるかとの期待はあった。しかし、さにあらず。まだ実験段階で、使いこなせていない部分もあるので向上の余地はあるかも知れないが、積極的にやろうという気は失せた。
VHSのビデオテープを機器の消滅に備えてDVD化している人がいるが、そういう目的でなら十分実用になると思う。
灯台もと暗し 2013.06.28
うちの隣に運送屋さんがある。ある日運転手さんの一人と世間話をしていたら、この人もオーディオ好きであることが分かった。それでCDを何枚か借りることになった。NAS(LAN接続HDD)は買ったものの、ハイレゾ配信は高いし、CDは手持ちが少ないしで、曲が不足していたのだ。借りてみてびっくり、ダイアナ・クラール、ヘイリー・ロレン、MAYA、SHANTI、ニッキ・パロットなど私の手持ちとダブっている。こんなお隣さんに同好の士がいたとは。
私は雑食だが、この人はジャズ系の女性ボーカリスト一筋。私が知らない、あるいは持っていないエスペランサ・スポルディング、ジュリー・ロンドン、メロディー・ガルドー、プリシラ・アーン、ソフィー・ミルマン、ZAZ、シャルロット・チャーチ、ティファニー、シェルビー・リーン、カサンドラ・ウィルソン等を借りた。近頃英語よりラテン系やフランス語のボーカルにしびれる様になってきた。
運転手さんは女性ボーカリスト一筋と書いたが、クラシックの女性ヴァイオリン奏者も好きなのだった。ヒラリー・ハーンとかユリア・フィッシャーのDVDも持っている。どちらも若くてきれいで人気がある。そうなるとこの人は音楽が好きなのか、女性が好きなのか判然としないではないか・・・(^◇^)
映画再開 2013.06.24
ご無沙汰していたレコーダーに映画が溜まってきているので、母の後片付けの合間に消化する。娯楽であるはずが義務化してくると、どうしてもお座なりな見方になる。真剣に見ないからストーリーが良く分からない。頭も呆けてきているのだろう。「ミッション・8ミニッツ」・・・サッパリ分からん。記憶を売るとか意識に入り込むとかいうSFは多いが、見ているうちに訳が分からなくなる。「ロシアハウス」・・・退屈。分からないから見返そうと言う気力もない。元祖ボンドが出てるんだから、退屈しのぎのアクションくらい入れてほしかった。現実の諜報戦というのはこんなもんなんだろうか。
「戦火の勇気」・・・これは単純なストーリーだから分かる。デンゼル・ワシントン、メグ・ライアン、マット・デイモンと有名どころが出ている。誤射して見方を殺したサーリング大佐と、部下に撃たれたウォーデン大尉の話が二本立てで進むのはどうなのか。どちらかに絞ってもいいような気がするが。まあ細かいことはいいとして、感じたことは過ちを犯した人は物理的な刑罰を受けずとも、一生良心の呵責に苛まれるということ。しかし表ざたにせず、丸く収まるはずのウォーデン事件を掘り返して、関係者を自殺に追い込むサーリング大佐はちょっと勝手すぎないか。自分の事件で良心に耐えられないなら、それだけを公にすればいいこと。
何にしても、その良心を他民族にも向けてくれよ、アメリカさん。同朋以外は何人殺しても何も感じないのか。
母 逝く 2013.06.17
3月半ばに入院した母がたった3か月で亡くなってしまった。入院した時にはガンの末期で手術もできない状態に進行していたのだ。医者に呼ばれて、それを聞かされたときはスーッと血の気が引いた。その後はずっと鉛を飲みこんだような胃の重さが続いた。自覚症状の殆どないガンではあったが、もっと早く医者に行っていればという思いが何度もよぎった。しかし今さらそんなことを考えても仕方ない。
私の歳で親が死んで行くのは普通のことだが、女性で77歳という年齢は、今にちの平均寿命からすれば10年早い。しかも入院するまで元気で仕事をしていたのだ。突然人生にストップを掛けられた母はどんな気持ちだったろう。本人の希望で病状は隠さず伝えた。「私で良かった。あんた達じゃなくてほんとに良かった」と母は私と嫁に言った。
入院中見舞客がひっきりなしで看護師さんたちも驚いていた。俳句などの趣味の会で顔が広かったのだろう。しかし日に日に衰弱が目に見えて、見舞客と話すのが負担になってきていた。何も喉を通らず、栄養は点滴だけ。痛み止めにモルヒネが始まった。徐々に目を開けている時間が減り、体はやせ細り、ついに帰らぬ人となった。
通夜葬儀の段取りで悲しむ間もなく時間は過ぎていく。葬儀後の残務処理も大変だ。今日やっと一息つく。生まれてこの方、50年以上同じ屋根の下で暮らし、同じご飯を食べていた母が突然いなくなるという不思議。未だに信じられない。家にはまだそこかしこに母の物が残っていて、突然主を失って戸惑っているようだ。家族で一番堪えているのは82歳の親父。寝込まなければいいが・・・
三島由紀夫 2013.05.27
いつまで続くかと思っていた夜のウォーキングも二度目のホタルの時期を迎えた。二十日に初めて出現してから徐々に増えている。暗闇の中をふわりふわりと光が移動する様を見ていると不思議な感覚に取り付かれる。まるで先祖の霊が短いホタルの命を借りてこの世に現れるのではないかと・・・ふとそう思った。
この前に亡くなった社会派と呼ばれる若松監督が三島事件を描いた映画を見た。この監督の作品は以前連合赤軍を題材にしたのを見た。当時の若者は熱かった、左翼も右翼も。自分たちの理念を実現して社会を変えるんだという熱気にあふれていた。それが今はどうだ。就活に汲々として、自分のことで精一杯である。社会情勢がすっかり変わったこともある。あれほど学生運動家らが嫌っていた社会は高度成長期で、運動をやめて就職することは容易だった。今そんなことをしていては身の破滅だ。三島事件は共に自決した森田必勝が四日市出身だったことでよく覚えている。映画を見て思ったことは、嘴の黄色い学生はともかく、天才作家で社会的地位も分別もある三島由紀夫が、なぜあのような失敗が目に見えている事件を起こしたのかということだ。映画の掘り下げが足りないのか、実際に荒唐無稽な事件だったのかは分からない。ただ天才作家のバルコニーでの決死の演説も、自衛隊や警察の俗人どもに嘲笑され野次られて相手にされていない場面はひたすら哀れで悲しかった。
時間 2013.04.08
時間は倦まず弛まず常に休むことなく進んでいき、戻ることは決してない。時間旅行者が我々の前に現れないということは将来においてもタイムマシンは発明されることはない証拠である。時の歩みは一見ゆったり感じられ、日々あまり自覚することはない。だが静かに降り積もる雪が家を圧し潰したり、長年の白アリによる腐食である日突然倒壊することもある。この世のあらゆるもので時の影響を逃れる者はない。人も動物も植物も、国も政府も組織も未来永劫続くものはないのである。長い目で見れば天体さえその支配下である。
降り積もった時間は突然牙をむき、身近なもの、大切なものを容赦なく奪い去っていく。昨年から今年にかけて、わが身の周辺にも時の流れを否応なく知らしめる出来事が続く。諸行無常の理を感ぜずにはいられない。
映画「ヒューゴの不思議な発明」と 事務所荒らし 2013.03.20
まずマーチンスコセッシと本作がどうにもつながらない。スコセッシともあろうものがこんな内容のないファンタジーを作るとは驚きだ。タイトルも変だ。ヒューゴは何もも発明しない。ぜんまい仕掛けの機械を修理というか、それ以下の整備みたいなことをするだけ。模型店の爺さんとか鉄道保安員は一見恐くて悪人に見えるが、実は常識人の範囲内である。もっと破天荒な悪人がいないと話はつまらない。ただ悪人が悪事を働くのは当たり前だが、主人公が日常的に万引きをする場面があるのはいただけない。そんなことを肯定されては困る。これは「宇宙人ポール」でも書いたなあ。
というのも昨夜また泥棒に入られた。無人の事務所に侵入して荒らしていった。もとより現金などは置いていない。しかし買ったばかりのテレビを盗まれた。昨今テレビは安いとはいえ、余分に数万円の出費を捻出するのは痛い。お金は簡単には儲からないのだ。他人の労働の成果を掠め取るような行為は卑劣である。
警察は呼んだが書類をきっちり作ることに余念がなく、それで仕事は終わりのような雰囲気だ。被害者の願いは犯人を挙げてくれることが第一なのに。今までだって一度もつかまったことがなく、盗られ損だ。納税意欲も萎えるわなあ。
映画に戻って、秘密の謎解きも別に大したことのない話で感動もなかった。一般には駄作と言えるだろう。だがワタシ的には別の価値がある。映像の美しさだ。雪の舞うパリの街の俯瞰、立体的な駅舎を行き交う人々。生き物のように歯車や振り子が動く吹き抜けの時計台。漂う埃を奥行きや臨場感にうまく利用しているし、陰影や色合いも渋い。時計の機械音に囲まれるサラウンドも良い。3Dのプロジェクターを買ったら、もう一度見直したい映画だ。
花見とバットマン 2013.03.11
ボーっとしているうちにまた一ヶ月経った。昨日花見登山に行った。目的の花は目を凝らせばあっちに一つ、こっちに一つ。すっかり変わっちまったなあ。道の跡が濃くなってオーバーユースである。勿論、自分も行く以上他人に来るなとは言えないが、他県ナンバーばかりだ。
2/24の入道に続いてまた暴風に晒された。風だけでもイヤなのに早々と雨に降られ散々だ。しかしこれで何処も寄らずさっさと下山する言い訳ができた。早く帰って映画でも見よう。
この前届いたBD「ダークナイトライジング」の封を切ってプレイヤーに入れる。音声の選択、字幕の選択をしていざ本編へ・・・どこにも本編スタートの文字がない??? よく見たら予告編集のディスクだった。ダークナイトライジングは3枚もディスクが入っていてややこしい。そのうち一枚はDVDである。何のために同封されているのか意味不明。BDのプレーヤーは激安。殆どのレコーダもBD対応である時代に、わざわざ画質の悪いDVDを選択する必要があるのか。まあそういうことに無頓着の人が多いのだろう。VHSさえ生き残っているのだから。
冒頭の輸送機による小型機乗っ取りのシーンで圧倒的なIMAX撮影の臨場感に打ちのめされる。殆ど実写というから驚きだ。しかし混在する通常のシネスコとの画質的落差が大きすぎる。シネスコ部分は前作より落ちる気がする。音も低音の迫力は凄いが中高域との一体感がないような。これは自分のスピーカーとの相性があるので一概には言えない。しかも右耳が悪いので本来の音が聞こえているのかも疑わしい。それでもAV的に超一流の作品であることは間違いない。ノーラン監督は実写とフィルム撮りに拘る貴重な存在だ。
バットマンシリーズは暗いヒーローもので、笑いやお色気も少ない独特の雰囲気がある。私は好きである。本作はビギンズからの三部作という位置づけだが、よく分からないところや突っ込みどころはある。テーマは善と悪の分水嶺というところか。世の中の善悪は、山の分水嶺のようにはっきりした線引きはない。結局自分の信ずる所をよりどころに個人が勝手に生きている。彼らを善として命がけで救う必要があるのだろうかということを問う。まあテーマやシリーズの整合性は私の求めるところではないので、これはこれで面白い。ただ画と音の迫力と対峙するには時間が長すぎる。もう少しダイエットが必要だ。アンハサウェイのキャットウーマンは予想より良かった。ジャンプスーツでバットモービルでぶっ飛ばす姿はけっこうカッコイイ。ところで最後にレストランでアルフレッドが見た主人公は妄想なのか現実なのか・・・
思いつくまま 2013.02.13
日記と謳いながら気がつけば一ヶ月以上放置。何だ神田で山も行けず。突然だけど映画「宇宙人ポール」。ポールが宇宙人なのは外観だけで、中身はまんまちょい悪のアメリカ人。これは新しいスタイルだ。私の従姉妹のダンナがポールと言うアメリカ人なので笑ってしまう。内容ははコメディーだからおふざけ満載。他のSF映画のパロディーてんこ盛りで、幾つ気付くかがオタク度の尺度となろう。シワシワのシガニー・ウィーバの登場に時の流れを思う。二時間一応飽きずに見られる。しかし下品なギャグを連発する必要性があるのか。大麻、クルマの当て逃げ、万引きは許されるのか。特に万引きがクールでかっこいいという描き方は罪深い。終盤花火が効果的に使われているが、万引きした花火で感動もくそもない。商売人にとって万引きほど腹の立つものはないのだ。あとSFとしての息を飲む光景や、音響効果によるカタルシスもないので保存せずに見て消しの映画となった。
デジタルファイルのプレーヤーであるパイオニアのN-50を買って以来、関連してパソコンの更新、無線LANルータの更新を強いられた。PCオーディオだけでなく、ネットワークオーディオもやりたくなってバッファローのNAS(LAN接続のHDD)も買った。付属のリモコン操作が不便なので、グーグルのタブレットNexus7も買ってしまった。自民党の景気浮揚策に大いに貢献したと思う。CDもハイレゾファイルも全部NASに放りこんで手元のタブレットで自由に操作できるのは快感だ・・・といいたいが、パイオニアのアプリは表示も操作もちょっと使いにくい。次回アップデートに期待。ところでリモコンとして買ったタブレットだがGPS機能もあるので山でも使えそう。専用GPSよりグンと画面が大きくて見やすい。地図を予めダウンロードしておけば通信できない場所でも使える。
、 正月 2013.01.04
うちは代々の母屋で、元旦は30人からの来客で接待に明け暮れる。叔父さんたちが、娘、娘婿、孫、曾孫!まで雪だるま式に膨らんだ人数を連れてうちへなだれ込んでくる。まさに正月狂騒曲だ。賑やかで正月らしくていいんだけど、嵐が去ったあとは掃除やらガキどもが破った障子の補修など、およそ正月らしくない事を苦笑いしながらやっている。
あっという間の一年だった。正月は耳の病気を発して一年ということになる。最近は耳鳴り音量が小さくなったままで、これで固定ならまあギリギリ許容限度内かな。贅沢を言えばキリがない。しかし発症前はそれを贅沢とも思わず普通に享受していた。人もモノも健康もなくしてみて初めて有り難みが分かるのは凡人の常。映画のタイトルに掛けて言えば「ものすごくうるさくてありえないほど近い」耳鳴りはもう御免だ。
で、その映画を正月二日に見た。オスカーというアスペ気味で神経質な子役・・・どっかで見たような。おお「太陽の帝国」のジェイミーとそっくりだ。一瞬同じ役者かと思ったが、ありえない。「太陽の帝国」はもう25年も前の映画で、ジェイミー役は立派な大人になった。それは誰あろう、ターミネーター4やバットマンシリーズで主役を張ったクリスチャン・ベイルである。「ものすごく〜」はいい映画だが、保存する価値があるかどうか微妙。あ、でも母親役のサンドラ・ブロックはうまくなった。