幻想の森 七人山    06.02.12


 今回のタイトルは七人山だが、雪質が良ければ雨乞岳を狙っていたことを白状しなければならない。そのために前夜泊、早朝出発とした。朝明は家から15分もあれば着くので、前夜泊まることにあまり意味はない。では何のためか。長谷川氏のようにウシミツ登山をしようと言うわけではない。何とか照明の要らない6時ごろ出発したいが、休日に早起きし、ゴソゴソやっていると家人に迷惑になる。だから前夜家を出て、登山口で車中泊とした。鈴鹿ではイブネ・銚子ヶ口縦走以来だが、アルプスへ行くときはたいていその手段だ。

 仕事を終わって山の準備をし、家を出ると小雨が降っていた。コンビニで買い物をしているうちに雨は強くなってきた。出掛けから気勢を削がれること著しい。しかし今夜登るわけではないので、予定通り朝明に行く。大駐車場を過ぎると残雪でハンドルを左右に取られる。ワダチがあったので砂防学習ゾーンの空き地まで車を入れたが、冷や汗ものであった。

 車の外はミゾレ交じりの雨が降りしきっている。この雨が吉と出るか凶と出るか。グチャグチャの軟雪になる可能性もあるが、早く止んで水分が凍れば絶好のコンディションだ。それは考えてもなるようにしかならない。まずはつまみを食べながら、車内のカーナビTVでオリンピック観戦。電波が悪くノイズだらけだが、内容は分かる。外は人家もなく真っ暗だ。聞こえるのは雨の音とせせらぎだけ。10時ごろシュラフに潜り込んで就寝。

 目覚まし時計より早く、4時半頃目が覚めてしまった。再度寝られそうもないので、ゴソゴソと片付けて朝食を食べた。あと何もすることがないので、少し早いが5時25分出発。さすがに暗いのでヘッドランプのお世話になる。雨は止んでいたが、体感的に強い冷え込みはない。根ノ平峠方面には昨日の踏み跡があった。連休二日目なので期待通りである。しかし残念ながら雪は固まっていない。トレースを外すと疲労が倍増する。これでは七人山の登りが思いやられる。結局雪質は昨夜想像したどちらでもなかった。下界の雨が雪で降ってしまったのである。あまり有難くない。

 堰堤からは未明の街灯りが見えている。しかし水平線はもう赤みが差しているので夜景とは言わないだろう。次の堰堤ではヘッドランプを消した。まだ6時だが、雪の反射で十分歩ける。昨日の足跡を忠実にトレースしたが、楽ではない。根ノ平峠の下部で日の出時刻を迎えた。朝日は雲で隠れているようだ。楽しみにしていた赤く染まる雪面も見ることが叶わなかった。登山道上部の谷は完全に埋まっている。6時50分根ノ平峠着。時間が掛かり過ぎだ。とにかく休憩。東は明るいが西は天気がよくない。

  堰堤の切れ込みから下界の灯り          夜明けの根ノ平峠               神杉

 愛知川へ下りる道にも踏みあとがあって助かる。最初殆ど沈まず小躍りしたが、短い間だけであった。途中で踏み跡は分かれ、一方は根の代の平坦地に向かっている。面白そうなので着いていった。笹は完全に雪に没して、昔集落があったという平坦さが見事な雪原として現れている。こちらへ行けば方角上はショートカットになる。しかし踏み跡はふらふらして頼りなかった。結局大石と神杉の間に出て、全然近道にならなかった。稜線から愛知川に向かって大きく尾根が張り出しているので、何処へ向かおうが登山道に収斂されていくしかないのである。

 雪が降ってきた。運動しているのに凄く寒いのでカッパを羽織る。複数あった踏み跡が、どういうわけかワカンの一人のみになっていった。急斜面のトラバースでは雪が落ちるのか、足跡はきれいになくなっている。上水晶谷まで随分長く感じた。川へ落ちないように慎重に渡渉する。谷の石は飛沫を浴びて面白い氷ができていた。単独の雪山は孤独感もひとしおだが、一人のワカン跡でもあると心強い。この人も一人でこんな苦しいことをしている。同じ宿命を背負った人なのだと同情する。ワカン氏は途中でルートを外していたが、またその先で復帰していた。

 やっとの思いでコクイ谷出合に着いた。周辺に雪があるだけで、川自体は何も変わらず滔々と流れている。アマゴたちはどうしているだろう。時間は8時15分。時刻としては早いが、歩行時間は遅すぎる。無雪期より1時間多いが、仕方ないだろう。腰を下ろして大休止する。お茶がペットの中でシャーベットになっていて飲みづらい。ワカン氏は川を渡らず、どういうわけかコクイ谷を上流へ向かっている。

     上水晶谷                  氷のブラシ                  コクイ谷出合

 七人山へは本来ならここからすぐ尾根に取り付くのであるが、今回は一本左の尾根を登ろうと思う。その前に何故杉峠方面へ行かないかと言えば、途中で挫折した場合、何処のピークも踏めないからである。それにあのアップダウンのある長々しい道はジワジワと体力を奪う。まだ七人山へ一直線の急登のほうが潔い。
 少しコクイ谷を遡行し、取り付きやすい場所を探して対岸へ渡った。あとは山頂まで一本調子に登るのみ。当然ながら踏み跡はないので自力ラッセルとなる。

 急斜面のラッセルは急斜面のヤブ漕ぎのごとく苦行である。しかし自ら求めていることだから文句は言えない。サラサラの踏み応えのない雪である。ピッケルに体重を掛けると、手首ごと潜ってしまって役に立たない。気温が低くて雪まみれになっても濡れないことだけは助かる。少し高度が上がると北西の風が体の右側を襲った。手袋がピッケルに張り付き、まつ毛が凍り、顔面が痛い。久しぶりに冬らしい厳しさだ。休息がてらザックを下ろして冬帽とネックウォーマーを取り出す。

 クラストした雪面をアイゼンで登るのはスマートだが、深い雪とワカンは泥臭い体力勝負だ。苦しくて朦朧としてくる。あのピークまで行ったら休もうと思ってもちっとも着かない。それはピークではなく、急な尾根の丸みがそう見えているだけなのだ。どれだけ登っても同じことである。またいつものように同じ疑問が湧いてくる。何のために苦しんでいるのだろう。目の前には何処までも続く純白の雪と裸木があるだけ。聞こえるのは風の音だけ。清浄の世界だ。死ぬときにはこんな所を天に昇っていくのだろうかと思う。

 そのうち思わぬ日が差してきて、雪面に木の長い陰を描いた。少しほっとする。950mでコクイ谷出合から登ってくる尾根が右から合流してきた。傾斜が緩んでくると尾根の左端に見晴らしの良い場所があった。御在所岳北西尾根が指呼の間だ。この尾根は高さボリュームとも異常に大きく、本体をすっかり覆い隠している。右側にはやや離れて鎌ヶ岳が屹立している。しかし完全には晴れておらず、白いベールが数枚掛かった状態である。

 体さえ動いていれば着かない山頂はない。10時10分東峰の一角に着いた。ちょっと休憩だ。ここから西にある1073標高点までやや距離がある。水平移動にも関らず足が重い。かなり疲れているようだ。とても寒いのに樹氷が発達していないのは湿度の関係だろうか。5年前に来たときはびっしりと付いていた。この山は樹林で展望があまりないが、それゆえに独特の空気を内に秘めている。ササでも潅木でもない、ブナをはじめとする背の高い広葉樹林が、お伽の国のような幻想的世界を形成している。疲労で朦朧としたままこの幻想の森を彷徨った。僅かな傾斜に喘ぎながらようやく標高点に達した。

                七人山山頂                                   幻想的な森 

 到着時刻は10時半。まだ雨乞岳に登る時間はある。しかし七三の割合でその気は失せていた。早朝に出発すればロングコースを歩けると考えるのは、半分は真実だが半分は思い込みに過ぎない。結局行動時間の累積が疲労の蓄積となり、体力と気力を奪うのである。まだ10時半ではあるが、もう5時間以上歩いているのだ。七人山のコルから登り返し、山頂を踏むことは可能だが帰りに自信がない。完全にはあきらめ切れないまま昼食とした。

 インスタントラーメンを作るためにコンロに点火したが、火に勢いがない。ゴーッという音がしない。点いているのかどうかも怪しいくらいだ。低音と風のせいだろう。冬季用のカートリッジであるが、やはりガスは所詮ガスということか。両手で暖めても、もともと手も冷たくなっているからダメである。ブースターを持ってくれば良かった。いつまで待っても沸騰しないので、業を煮やして麺を放り込んだ。「ふやければ食べられるだろう」作戦である。しばらく放置したが、ついに沸騰することはなかった。生煮えのラーメンと言うものを生まれて初めて食した。硬くはないが、粉っぽくてとてもまずかった。

 沸騰待ちに時間を費やし、残り三割の野望も消えうせた。もう帰ろうと決める。山頂から直接下りると無駄な川沿い歩きとなるので、往路を引き返すほうが良い。荷物を背負って立ち上がり、戻ろうと思って愕然とした。ついさっき登ってきた自分の足跡がきれいさっぱりないのである。あれほど深く、強く小判型のハンコをペタペタ押してきたはずである。幻想の森に化かされたか。再度コンパスと地図を確認する。方角に間違いはない。

 雪面を凝視すると細かい粒子が、まるで映画フィルムの粒状ノイズのように流れている。犯人はこいつだ。乾いた砂のような雪が、風に乗って乱舞している。ここは雪の砂漠だ。カラクリが分かっても、あれほどの足跡が短時間で完全消滅するとは、まだ信じ難い。もう一度コンパスを見る。しかしこの雪粒の流れは見飽きない現象だ。うまく写らないかも知れないが、写真を撮ってみる。

 尾根に戻ってもやはり痕跡もない。しかし御在所岳と鎌ヶ岳が見えてきたので間違いはない。青空が出てきて往路よりハッキリ見える。帰りはコクイ谷出合へ落ちる尾根を下りた。よく登ってきたなと思う程の急斜面だが、雪がフカフカでシリセードはきかない。大またで走るように下りる。無雪期よりはるかに快適なのは先日の奥の平に同じだ。

 

 

 

 

         鎌と鎌尾根               御在所岳西峰と国見岳            サワグルミと青空

 コクイ谷出合にはきっちり足跡が残っており、夢ではなかったことを証明している。よろよろとよろめきながら愛知川沿いを戻る。足跡の消えた急斜面のトラバースを過ぎると、前方に初めて人を見た。二人組が腰を下ろして何か食べていた。足跡から判断して、帰りではなく往路だろう。「どちらへ?」と尋ねてみた。 「雨乞岳に登ろうと思いましたが、無理みたいですね」とおっしゃる。「あたりまえじゃ、あほんだら」と言いたいところを我慢した。呑気な人たちもいるものだ。

     根の代雪原               左の写真のズーム(きのこ岩)          また雪が舞ってきた

 まだこの先、風当たりの強いところでは足跡が消えていた。雨上がりの明け方より、今のほうが気温が低いようだ。しかし空は青い。根の代の向こうに遠く国見のキノコ岩が判別できる。ズームで撮ってみる。峠に着くと往路になかった足跡がたくさん交差していた。まあ、一服だ。
 あとは下るだけだ。伊勢谷沿いには幾筋もトレースがあり、いったい峠から先は何処へ消えてしまったのか。峠だけ往復した人もあるのかもしれない。先ほどの青空がいつの間にか消えて、チラチラと雪が降ってきた。だんだん雪は強くなって、西側が暗くなってきた。やはり無理して雨乞岳へ向かわなくて良かったのかもしれない。